2012年12月13日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ 第四章第五節分での重要な誤りがありました の で、先行公開いたします。

現在、第四章第五節分にて、重要な誤りがありましたので、こちらの訂正箇所を先に公開したいと思います。

なぜこのような誤りが生じたかについては、一つは、やりたくもないことを無理やりやらされていたという状況、つまり、鬱状態にていじめの状態が続いている状況下において、むりやり、第四章が重要だということでやらされていたために、この辺りの確認がおろそかになっていた、ということをあげたいと思います。個人的には、第一章をもう一度確認してから、いうことを申し上げていたと思いますが、許される状況になかった、ということです。それで、勝手にのぞかれた上に再び陰湿ながらせをしやがって、という今の現状には怒りを禁じ得ません。次に同じことがあれば、我慢の限界です。哲学に関してはやっている人間はくずだとみなし、一生思想、哲学に関しては軽蔑し続け一切なにもしないと誓います。

以上、いろいろ言いたいこと、御非難もあるでしょうが、謝る気は一切ないと言わせていただきたいと思います。はっきりいうぞ、いじめばかりして搾取して当然とおもっているくそばかども、散った自分でもテキストを読め、くずが。お前らのようなバカはしんでしまった方が世界平和のためだろう。二回の大戦がなぜ起こったんだよ、そんなにえらそうなら。本当に役立たずのプライドだけは高え、クズども、滅びればいい。

言いたいことは以上。

この後、視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第四節『イマージュの選択』(第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』の(p.75 12行目-p.76 7行目))が、重要なので繰り返す、と言っている部分を引用して見てみよう。以下、相当長いが、このことが段落の最後まで述べられている。所々に注釈を入れながら見ていこう。

(2012/12/11 「視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第四節『イマージュの選択』、(p.44 13行目-p.46 14行目)が相当すると思われる)」という部分、実際には第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』の(p.75 12行目-p.76 7行目)が実際は相当すると思われるので訂正した。読者の皆様には、このような過ちを起こしたことを、こころよりお詫びいたします。なお、参考までに少し長くなるが該当部分、二段落を引用しておきたい。

『われわれは、論述を簡略化するために、われわれがかつて例として選んだ視覚的感官に戻ることにしよう。通常網膜の錐状体と桿状体によって受けられた諸印象に対応する要素的な諸感覚が与えられる。視覚的知覚が再構成されるのは、これらの感覚を用いてである。しかし何よりまず、一つの網膜があるのではなく、二つの網膜がある。それゆえ、相異なるものと想定された二つの感覚が、空間の一点とわれわれが呼ぶものに呼応する唯一の知覚のうちでいかにして融合するかを説明しなければならないだろう。』(p.75 12行目‐17行目)

『この問題が解決されたものと想定しよう。話題となっている諸感覚は非伸張的なものだ。その感覚がいかにして伸張を授かるのか。延長の中に、諸感覚を受ける準備のできた枠組みを見るにせよ、あるいはまた、一緒に融合することなく意識のなかで共存する諸感覚の単なる同時性(simultanéité)の結果を見るにせよ、どちらの場合でも、延長と共に、それについては説明されないような何か新しいものが導入されるだろう。そして、感覚が延長と再び一緒になる過程、それぞれの要素的感覚による空間の決まった点の選択は、説明されないままにとどまるだろう』(p.76 1行目‐7行目)

なお、この章では、特に後半の段落で論じられていることが詳細に論じられていると思われる)

2012年12月11日火曜日

ベルクソン「物質と記憶」メモの残りの部分の公開に関してのお願い

現在、ベルクソン「物質と記憶」メモにかんしては、鋭意清書に励んでおり、残るは、第四章第五節と第六節のふたつになりました。ところで、第五節の始めの段落では、二通りに解釈できる部分が発見され、その問題解決には、章の終わりまで、つまり、第六節まで一通り解釈を確認する必要があると思われます。それは、ベルクソンの記述の仕方が、節ごとできれいに内容をまとめるのではなく徐々に移行していくというやり方を取っているということも理由の一つに挙げられます。従って、第五節は第六節と同時に公開する方向で現在考えております。

草稿では、第五節と第六節の間に、すでに、別のブログで公開した小論『小林秀雄『本居宣長 補記I』に見る「真歴」について』を挟んでおります。今回もその形式は変えずに行うつもりです。

公開の期日はなんとか年末までに、できればクリスマスにはと考えておりますが、進捗および現在抱えている問題点がどのようになるか不明なところがありますので、遅れが発生する可能性も十分にあるということをどうかご理解いただけますよう、お願い申し上げます。

2012年12月9日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」 第 四 節 「持続と緊張」補足メモ

本日、l
ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第四節 「持続と緊張」を公開したが、いくつか、十分に説明ができていないのでは、と考えている部分がある。

それは、特に第七段落で触れられている『真の持続』と芸術の関係である。その点についてここで触れたいと思う。以下、あくまでも個人的な見解であるということをお断りしておく。

解説文では『真の持続』とは可変長なリズムであると述べた。これは、間違いではないが、ベルクソンは、フーリエ変換を念頭においているのではないかという気がしてならない。量子にかんしても波動として見ることに関して正確な知識をベルクソンは持っていたのであるから、当然フーリエ級数展開やフーリエ変換に関しても相当な知識を有していたに違いない。

したがって、知覚が言葉や観念になる前の『知覚』そのままの記憶のある波動の重ね合わせが、ベルクソンのいう『真の持続』であり、象徴的なもの、フーリエ解析でいう固有のスペクトラムをそのまま芸術作品に置き換えて述べているという気がしてならない。

ベルクソンのいうところが正確ならば、絵画のような、あるいは音楽でもいいであろうが、そのような芸術作品にはそれら共通のそのようなスペクトラムのが現れるはずであるが、残念ながら、現在の科学においても、それが解析されたという話は聞かない。しかし、我々に、なんらかの示唆を与え、人間の精神活動の複雑さに一筋の光を与えていることには間違いないだろう。この辺りは、ベルクソンの見方が単純過ぎるのか、それよりは可能性としては低いかもしれないが、それともわれわれの精神活動もっと深いところでは、何かそういうものが現れているのかどうか、もっと研究が必要であると思われる。

(同日 17:17追記)
なお、ここで検討されている『知覚』には単なるわれわれの感覚器官から入ってきている信号だけではなく、感情などの信号も混在していることには注意をしないといけないということを付け加えておきたい

2012年11月12日月曜日

お金ってどうしてみんなが使っているのか

以前も述べたことがあるのですが、お金の価値はどこで保証されているか、という問題について考えてみよう。

基本的にはお金が流通するまえは物々交換だったわけですよね。お金が流通するということはどういうことか。単に便利なだけではダメですよね。みんなが信用しているということが大事です。それで、まず、お金が流通する初めの頃、というより、つい最近まで、お金自体に価値があるものが使われていました。つまり、金や銀のような貴金属、それに次ぐ銅のような金属がお金として流通していました。日本では、小判が使われている頃はだんだん金の含有量が減っていくに連れてインフレも進んでいく、そういうこともありました。あるいは、江戸時代だったらコメもそうだったかもしれません。

明治からしばらくは兌換紙幣が使われることになりました。兌換紙幣というのはその紙幣を銀行に持っていけば、金に交換してくれるというものです。明治の始めの頃は、国立銀行という民間銀行が、各々に兌換紙幣を刷りまくるものだからインフレになったという時代もありました。今でも、第○銀行(丸には数字が入ります)という銀行が残っていますよね。それが統一されまして、国が紙幣を刷るようになりました。しかし、それは兌換紙幣で在り続けました。すなわち、紙幣の信用は国が所有している金の量で決まったわけです。

これはずっとスタンダードなやり方でした。二度の大戦のあと、覇権を握った米国の紙幣ドルが世界的な決済通貨として使われるようになったのですが、このドルの信用も、米国の金の保有量で保証されていました。しかし、いつの間にか、アメリカドルの流通量が、米国の持っている金の量を超えたために、ドルの信用は著しく下がり、1971年8月15日当時のアメリカ大統領ニクソンは、ドルを金と交換することをやめると宣言し、通貨は一気に変動相場制に移行していきます。

それでは、現在、多くの国は、どうやって通貨の価値を保証しているのでしょうか。それは、各国中央銀行の資産がそれを保証するものとなっています。つまり、中央銀行が金や債権、あるいは土地や不動産(あるいはその代わりになる債権)などの価値を発行しているお金の量で割ることによって、原理的にお金の価値が決まるということになっています。お金が沢山出回れば、お金の価値が下がり、相対的に物の価値が上がる、すなわち、インフレになり、逆の場合はデフレになる、というのが基本的な原則です。


しかし、政府の首脳は民主主義国家ならば、あるいはそうでなくても、選挙や世論を気にしなくてはいけません。なので、景気を良くしたければ、じゃんじゃんお金をばらまけばいいじゃないかという発想になりがちです。それだと大変なインフレが起き、物の価値が先に上がり給料はその後に上がるわけでしょうから、物価の上昇が先行しすぎると、生活は苦しくなりやっていけなくなる国民が増えることはだれにでも想像がつくことです。なので、現代では、中央銀行は、基本的に政府と独立した機関となっています。面白いことに、米国では、中央銀行は厳密に言うと民間です。限りなく公的な性格を帯びた民間の機関というべきでしょうか。FRB議長も大統領から指名されますので完全な民間の機関とはいえませんが、建前上は民間の機関です。日本の場合、バブル前までは、中央銀行は政府の機関の一つでした。バブルの反省から、日本銀行は、独立した機関に改められましたが、それ以降デフレが続き一向に解消しないこともあって、再び政府の機関にすることも考えられているようです。

繰り返しになりますが、政府の発行する国債を中央銀行が買うというのは基本的に、禁じ手です。つまり、政府が借金によって日銀の資産を食いつぶすことになるためです。このあたりはいろいろ難しいこともあって、現在、幾らかはどこの先進国の中央銀行も国債を買っているのですが、このあたりは大変ややこしい話があるので省略します。

また、例えば、日銀が日本の国債を買うのには問題があるのならば、米国など他の国の国債を買えばいいじゃないか、という話もあります。これについても、またいろんな難しい話があって、たとえば、日銀がアメリカ国債を買うということは円を売ってドルを買い、そのドルでアメリカ国債を買うというステップになるわけで、そうすると、政府が為替相場で円売りドル買いによって円安に誘導するような為替操作とみなされる行為ではない、という理屈なのですが、日銀の物価の安定を目的としており、通貨に関することは財務省の仕事故に、そういうことに手を出すのは難しいと考えておられるようです。

2012年9月11日火曜日

人はなぜ将棋をやるべきか

私は、将棋が好きである。将棋が好きな理由は、人によって様々かもしれない。私の場合、単にこのような頭脳ゲームの方がスポーツより得意であったということもあった。あるいは、ポーカーのような心理的な駆け引きを楽しんでいる時もあった。でも、それ以外にいつも、何かこれを続けないといけない、という自分なりの必要性を感じていた。多分、であるが。

その必要性とは何か、今日になって改めて納得した事がある。それは、無意識的に分かっていることをきちんと論理的に表現する、ということのためにやるべきだ、と思っていたということではないか、と思い当たったのである。

手を読むとか、手が見えるという表現がある。相手がこうしたらこうするということと、見えるとか読むということは、よく似ているということを、我々は感覚的に理解してそう表現する。文章を読むということも、何かを見るということも実際は、我々は予測し記憶と紹介・照合しているということだ。そうでなければ、我々は、例えば、ものを立体に見ることができないだろう。左右の目の微妙に違う画像をどうやって認識しているのか、というベルクソンの指摘をここで繰り返すなら、そのことが容易におわかり頂けるのではないか。我々は、無意識の中で予め予測しながら物を見ている、ということと、手を読むとか手が見えるとかほとんど同じ働きをしている、ということになると私は考える。

言い直せば、物を見るということと、手を読むあるいは手が見えるということは、実は非常に近い働きをしており、意識および無意識の中でそれらを組み立てて、照合している過程が手を読むということであり、手が見える、ということは、目的とする手順が実際に見えるがごとく照合・紹介されぴったり合うと実感される、そういう過程なのだろう。

さて、このことは、実は、我々の無意識を意識的に感じる良い訓練となる。我々は、自分では分かっているけれども、他人に伝えることが難しい、という苦い経験を何度も味わう。それは、言葉や経験の不足であったりもするのであろうが、なにより、無意識で考えていることを表現する、という訓練をすることに欠けているせいもあるのではないだろうか。われわれは、慣れてくれば自動車の運転のような未だにロボットではうまくできないような事を無意識のうちでうまくやれるようになる。それほど無意識は高度な処理ができる。我々が、なにかを意識的にやろうとすれば、特別の訓練をしない限り、せいぜい、二桁、三桁の足し算引き算ぐらいであろう。しかし、多少の向き不向きはあろうけれども、自動車の運転などは、誰にでもできると言って良いだろう。

意識的にやることは、瞬間的には実に限られているのに対し、無意識的にやることは非常に複雑なこともうまくできる。これを繋ぐのが私は、将棋のようなゲームではないかと思う。

これは、言わば文章を書くのに近い。我々は、言葉を使ったり、あるいはゼスチャーで相手に何か伝える。特に文章を書くことは、逐次的に文字を書き連ね、順序よく説明をする必要があるところが似ている。さらに、数学とは違い、それぞれの単語にそれぞれの非常に特異的な役割が存在する一方で、単語単独では意味を限定するのは難しい。つまり、文脈によって単語の使われ方、意味がそれぞれ違ってくる。そういうところも将棋と似ている。われわれ日本人の多くは、将棋ができれば理系、と思い込んでいるが、実は将棋は文系の得意とするところに近い、と私は思う。

プロの将棋指しに文章の才能を持つ人は多く、最近では多くなった、有名大学への進学者のほとんどが文系の学部であるようだ、ということは、牽強付会であるかもしれないが、しかし、必ずしも理系の科目が得意だ、ということではないということもまた事実なのである。

では、しかし、文章を書けるのであれば、将棋をしなくても良い、ということにならないか。

われわれの思考は、言葉を使っている。あるいは、数学が得意な方であれば、数学という言語を使っている。それは、思考の道具としてそうなっているわけであろう。

プロの将棋指しの方はまた特殊な構造が脳にあるという研究もあるが、我々のような一般人はそれはないのがふつうであろう。

つまり、我々は、我々の無意識を意識して感じ取る訓練をするならば、思考の道具としての言葉ではないけれども、それに近いような、構造を持っており、なおかつ、その照会・照合過程において、もっとも情報量の多い視覚と同様の機能を使う、将棋を指すということは、実はかなり良い訓練なのではないか。

私のような、下手の横好きが何を言っても、将棋が好きでない方には伝わらないかもしれない。しかし、誠心誠意、私のこれまでの将棋はきっと何かに役にたつ、いや、たっている、という奇妙な確信について包み隠さずお話しさせて頂いた。

将棋に限らず、囲碁においては手談という別名があるところからもそれが言葉に近い間隔を我々は体験的に得ていると思う。将棋と囲碁は大分違うようで似ている。そのことここで論じることはしないし、囲碁をほとんどやらない私に論じる資格もないと思う。しかし、どなたかがうまく説明して頂ければ、きっと同様の事を仰って下さるに違いないと、私は思う。

2012年8月24日金曜日

また、ぞろ選挙か

まったく持って,うんざりである。なぜ、日本人はそうそう、首相を諦めたり、選挙をしたがるのか、ということにおいて、様々な疑問が湧いてくる。

もちろん、いい点もある。例えば、鳩山氏や菅氏が未だ首相だったら、と思うととんでもない気がする。しかし、大震災のあと復興がはかどらない現状で、選挙をして政権交代というのは一体どういうことだろう、と常々疑問に思っているのだが、最近の世論はまったく持ってよくわからない。

経済政策の一貫性のなさ、国の顔が一年ごとに変わる弊害は、よく言われているわけなのにどうしてこんなことになってしまうのか。マスコミの論調がそうなのか。

マスコミの中で新聞は最も信頼されているメディアであろうが、その新聞が、世論調査でこうも政権を変えたがる理由というのは何なのだろうか、不思議である。

新聞は、その読者の構成でいうと、40代以下の人間で、新聞を読んでいる人は、半数だという。つまり、新聞の読者は、そのほとんどが割合年齢の高い人たちだ。この人たちの意見がこうも、くるくる首相を変えたがるのはどうにもよく分からないのである。

おそらくだが、50代の人たちが、70代の人たちから実質的な権力を奪いたいというのがあるのではないか、と思う。

確かに、何も変わろうとしない日本、何も分からないくせに人をいいように使いたがる人たちが多すぎるという気もするが、それが、別に年齢を問わない。私には、70代とそれ以下の人たちとの隔絶した勤労意識の元に、こいつらが天下をとったら最悪だろうな、とすら思う。

その象徴が、鳩山、菅の最低、最悪とも言われた二人の元首相だろう。

確かに、現状維持は問題が多い。しかし、人口構成的に、もう、こんなものと思うしかないのだ、という諦めも必要だと思う。政治体制をかえても、アメリカ流のプラグマティズムが根付くはずもないではないか。日本人はこんなものである、と私はもう諦めた。トットと死にたいばっかりである。

しかし、そう愚痴ばかりも言ってられないだろうから、少し、選挙後の体制を考えてみよう。選挙をして政権交代があるのかどうか、ということをまず考察しないと、選挙だけしてもしょうがないだろう、ということを言いたいし、所詮、選挙なんかしたってしょうがない、という主張も少ししてみたいということもある。

ここでの考察は、最近言われているように、10月に臨時国会、11月に(選挙制度の変革が終わって)次の予算編成前に解散、という一般的に流布されているようなシナリオに沿って見たい。

まず、民主党である。民主党は、自民党から追い出された田中派(小沢氏・鳩山氏・岡田氏などが代表的な人物)と旧社会・民社党(菅氏・枝野氏・仙谷氏)などの寄り合い所帯であった。それは、イデオロギー的に見ては、支持基盤としての労働組合ということはあるものの、様々な思想を持った人たちの寄り合い所帯という意味で(つまり、支持基盤は別としても思想的に保守的と思われる野田現首相や前原氏などもいるために)保守的な国民にとっても、受け皿となりえた、ということであった。

それは、小泉政権の長期体制のあと社会体制的に経済の格差が顕著になり、また、その後、後継者と指名された安倍晋三氏は、参議院選挙の大敗を受け、ねじれ国会による、政権運営の困難さに、一年を満たさず政権を放り出し、続く、福田康夫氏も同様に1年ほどで政権を放り出し、麻生太郎氏のときに執拗な失言問題や閣僚・官僚の失敗(本当に報道の揚げ足取りもひどかったけれど、様々にひどい行動があった)こと、そして、とどめのリーマンショックにより、新自由主義的な経済がまったくの信用をなくしてしまったことにもよったものであった。

結果としてみれば、新自由主義的な極端に粗野な資本主義と小さな政府との主張がイコールとしてみなされ、中国の台頭と共に、中央集権的な政治家中心の大きな政府を標榜した民主党に人気が集まり、自民党と大差のない、属人的な思想構成が保守的な日本人にも違和感が少ないことも手伝って、非常に幅広い人たちの支持を集め、また、何も決まらない、ねじれ国会による解消という実務的必然性もあって民主党政権は誕生した。

さて、余談ではあるが、私が、70代の人たちに比べて、それ以下の人たちに権力をもたせるのをあまり快く思わないのは、福田康夫氏は例外としても、安倍晋三氏、鳩山、菅の両元首相などの体たらくを見ているからである。前原氏のときの民主党もひどかった。閑話休題

話を元に戻すと、現時点で選挙をすることによるメリットは、国会のねじれ現象を解消できるかも分からないような、危うい理由しかない。単に大きい政府を標榜した政治家たちが次々に失敗していき、野田現首相の体制では自民党時代と大差なく、原発や、消費税といった、国民に人気のない施策が、そのまま、感情的な政権交代論につながっている、としか私には見えない。これで選挙とは、日本人が世界で笑われるだけであろう。

さて、それでも選挙、ということになったあとのことを考えるのが、本来の目的であったところに戻ろう。

まず、選挙後の体制であるが、民主党は野田代表ということで代表戦が決着するものとしても、選挙で大敗し、結果として代表をやめざるを得ないだろう。そのあとであるが、民主党にはふた通りの選択肢がある。まず、鳩山氏を再び代表として選び、小沢氏が再合流するという路線。もう一つは、たとえば、岡田氏が代表となり、野田現首相の路線を継承、自民党・公明党と連立を組み政権を担うという選択肢である。

私は、もし、自・公・民の三党で政権が取れるのであれば、この大連立は多いにありうると思う。逆に言えば、自・公だけでも、現民主だけでも、政権が取れるほど選挙に勝利し得ないと思う。この三党大連立が最も選挙後にありうるシナリオだろう。これは、現政権の路線を継承、自民党・公明党の人材による閣僚の強化、ねじれ国会の解消という意味で一番いいシナリオかもしれない。しかし、言い換えれば、現在と大差ないとも言える。

そして、第三極とも言われる、地域政党の躍進も間違いないだろう。しかし、単独では政権は取り得ないと予想する。その場合、彼らが、例えば、自・公、あるいは民主と連立を組むだろうか。それは、すなわち、国民の期待が大きく失望変わる結果にもつながりかねない。それはないだろう、というのが現段階での私の意見である。もちろん、一寸先は闇というのが政界であるからどのように転ぶかは不明であるが、私は、例えば、維新の会が躍進しても、そしてそのチャンスではあるが、政権を取り得ない、すなわち、ただのガス抜きで終わる、というのであるならば、それはかえってまずいことになるのではないか、と危惧するのである。

しかも、おそらく、参院では、自・公・民の方が多数である状態が続く。現段階では、変革は難しいと言わざるを得ない。

自・公・第三極ならば、あるいは、変革可能であるかもしれない。しかし、一体それを国民は許すだろうか。あるいは、それだけの政治手腕が、第三極側にあるのだろうか。

勢いだけでは、続かないのは、民主党への政権交代でわかった教訓である。

国民も、あるはマスコミも、もっと冷静に、この国の形について議論をしてもらいたいと思い、たたき台としてこの文章を書いたのだが、一体私の目的ははたせただろうか。いま選挙をすることがどうか、ということを含めて、もっと様々に考察を深めていただきたいと心より願う次第である。

(2012/08/25 1:50 追記)
29日に参院の自・公で首相の問責決議案が出され、他の野党の賛成もあり成立する見込み。こうなっては、近く解散も致し方ない状況に。

(2012/08/25 17:00 追記)
29日の問責決議案の方は28日に衆院で特別公債の法案が強行採決される反動のようです。大変失礼をいたしました。

2012年7月4日水曜日

キリスト教における愛と原罪の意味

といっても、生半可な知識しかないわけであるが、巷間に広がっている知識よりはわずかにマシであろうと思い書く

ところで、その前に、キリスト教のシンボルはキリスト様が貼り付けになった十字架であるが、その前は、お魚だったということを何かの本で読んだことがある。どうでも良いし、間違っている可能性もあるのでちなみに、というだけの話だ。

さて、キリスト様が貼り付けになったのはなぜだろうか。もちろん宗教的な弾圧のせいであろうが、キリスト教では人間には元々背負って生まれた罪があり(そのもとをたどればアダムとイブのエデン追放と思われる)キリスト様はその人間の罪を背負って一人罰せられた、というのがキリスト教の中心教義では無かろうかと思う。これもあくまで、確かそうだったというレベルだが。

さて、われわれに原罪というものがあるとすれば、そして、それを、何の罪もない一が背負って一人未来永劫に罰せられるとするならば、もしそうだとすれば、地球は爆発して全人類は消失した方が良いのではないだろうか、とは思わないか、というようなことをベルクソンは二元泉で言っていたと思う。

これを、強引に浄土真宗の教えである悪人正機説に当てはめようとするとかなり無理がある。この教えは仏様は、本来的にいい人も悪い人も区別なさらず、もし悪人であっても罪を深く悔いているようであれば、人間であれば完璧ではないはずなのに無自覚であるただ罪を犯してないと言うだけの善人よりは、遙かに見所があると思いお救いくださる、という考え方だからだ。誰でも完璧ではないということと原罪を無理矢理当てはめていると言うことと、本当に悪を犯して尚かつそれを深く悔いている、ということと原罪を一人に背負わせている、という後ろめたさとは明らかに違うだろう。

なにをか言わんや、といつも、ごめんなさい、南無阿弥陀仏で何もかも済ませてしまえると思っている連中にたいして腹を立てているのだ。人間の祖先であるアダムとイブがエデン追放になったその原罪を一人を背負って未来永劫に罰せられているのが神の子キリスト様だ。それが、キリスト様の愛である。そして、キリスト様は神の子であるからしてそれが神の愛の現実化であろう、という理屈な訳だ。

何でも安く低くつまり安易に考える連中がその辺りにうようよいるが、おまえら何を考えているんだ、ばか、と常々思う。おまえらは、本当の意味で何も後悔していない。ただ、仕方ないで済ませて、ごめんなさい、南無阿弥陀仏、で終わりだろう。

そういう馬鹿は何もかも腐らせている。神の愛もキリスト様の愛も仏の深い慈愛もすべて腐らせている。いつもそう思う。本当に反吐が出る

2012年6月24日日曜日

将棋に関して

私は、将棋が好きだ。将棋が好きなことが、このくそったれの世の中に対する唯一の救いになっている。

しかし、私も阿呆じゃないのであるから、ただ遊んでいるわけではないということを少し示したい。

本当に将棋指しの先生という人は、将棋が好きで将棋が好きで堪らないのであるから、私のように下手の横好きというようなまったく才能の無いような阿呆な人間にも、いろんな事を教えて下さる。

数学にも、いろいろなテクニックというものがありますよね?例えば、簡単な例を挙げるなら、連立方程式を解こうとすると中学生では、代入法と消去法という二つのやり方を教えます。消去法というのは、比較的洗練されたやり方で、このやり方をやれば、線形(一次方程式)であれば項が幾つあっても条件がそろえば(つまり項の数だけ方程式があれば)方程式を機械的に解けるというやり方ですよね。

将棋のプロというのは、長年の修行で、そういう解法(これを手筋という言い方をされている)を組み合わせて、よりシンプルなやり方で、コンピュータのように力任せなやり方ではなく、よりスマートに問題に当たっておられる。もちろん手筋をたくさん知っているということは、ある場面の手筋が一通りではないということでもあるのであるが、探索木を用いたやり方よりは大変効率的に深く手を読めるというメリットがある。

これは、言語における文章の組み立てによく似ているでしょう?ということがまず一つ。

後は大局観というものですね。これは、本当に経験則で、この形だと終盤でどのような展開になると言うことをプロともなるとよく御存知のようである。これも手筋というものに絡んでくるわけですけど。それで、その前に、定跡と呼ばれる序盤から中盤へ掛けてできるだけ有利に進めるためのある種、われわれの科学で言う「仮説」があるわけですね。

このように将棋を一種の「仮説−検証」過程としてみた場合に、大局観と手筋と呼ばれるものは、われわれの創造性に大変深いつながりがあると思われるわけですよね。そして、たまたま起った偶然のエラーがノーベル賞に繋がるような大発見に繋がったということも、この将棋をやっていく上でのおもしろい現象として説明できます。例えば、羽生マジックとか。

そういうわけで、馬鹿じゃないので黙ってやらせてもらえれば、それなりの成果を上げた上で公開できるものを、どうも人間的に信用がないせいか(ただし、それは私のせいだけではないと確信しているが)こう言うことを黙ってやらせてもらえないので非常に迷惑をしている。


2012年6月9日土曜日

最近考えていることの覚え書き(心の共振あるいは本能、無ということ)

たまたまだが、糸谷 哲郎という大変有望な若手の将棋プロで阪大の大阪大学大学院文学研究科に進学された方の書いたものを見ていろいろ考えさせられた。

※糸谷さんのお名前ほか間違っておりました。お詫びして訂正いたします。

なので、最近私の考えていることを少し書いておこうと思う。

・心の共振、あるいは本能について
まず、例えば正夢のようなことがなぜ起るかについて。これについては以前も色々書いているのだが、一つには共振のような現象も考えられるのではないかと最近思っている。要するに、子どもを思う母親が子どもの考えていることが分かるのは心で子どもをシミュレーションしているからだろうが、それで、子どもに起っていることまで感知してしまう、ということはまま起ることであり、体験されたお母様方もたくさんいらっしゃることと思う。それは、仕組みは分からないが何らかの共振があるからであろうと、考えている。もしかしたら本能というものも、こういう仕組みになっているのかな(それだけではないにしろ、それで説明できる部分も多いという意味で)、ということも少し考えているのというのも補足しておく。

・無について
私はベルクソンの創造的進化の後半にある無はないという一種のパラドキシカルな結論について、前々から何か少し違うなと思っているので記してみる。ベルクソンの主張するところを簡単にいえば、あるカテゴライズをする。それに合わないものに関してはなかったものとするというのが無の思想である、という指摘をしている。その通りなのではあるが少し浅薄な印象も受ける部分を指摘しておきたい。たとえば、整数あるいは実数を考える。それらは簡単にいえば正の数と負の数と0に分けられる。そこでは、正でもなく負でもないから0なのである。つまり、正と負の境目を0といっていると言って良いだろう。ここにおいて、例えば虚数があるとか、世界は数字意外にもたくさんの文字やものが存在する、などのほかになにかあるから、それは本質的に無(0)ではないといっても、少し論点がずれているといわざるを得ないだろう。つまり、無を論じているのにカテゴライズのやり方を論じているという点でおかしいと言える。もし、この世界のすべてを何らかの相反するような二つに分けたとしてその境目に無が生じる、というのがから発生しているのが仏教の無の思想だ。さらにいうと、無とすべてにカテゴライズしようというのが無の思想だ、と言って良いだろう。無と他にすべてにカテゴライズしてしまえば、境目である無も無にカテゴライズされてしまうから、たとえば、実数でいえば、0と符号のある数とに分けてしまえば、カテゴリーは二つになるでしょう?分かりますか?この発想というのが、仏教の無の思想である。つまり、正と負の境目である0を一つのカテゴリーとしてみれば、正も負も何かあるという意味では一緒くたになるのだから、それを区別するのはおかしいぞ、わかるかね諸君と仏教の思想はいっているのである。どうも、ベルクソンはその辺が分かっていなかったのではないかと思うので、少し書いてみた次第。もしかして私の方が間違っているのかもしれないが私なりの解釈を書いてみた。

2012年5月20日日曜日

日本の一階性思想の要点について


小林秀雄さんの「本居宣長」で描かれている思想は、普通の人が普通に幸せになるのはどうすればいいのかという思想なのです。

まず、日本における高階性の思想の変遷を見てみましょう。日本の国を統治するにはやはり他の国同様の高階性の思想が必要であったことは否めません。これは正義が平等の観念より起り、その平等の観念の裏付けに高階性の思想が必要だったということを意味しているでしょう。

ただ、それは時代時代において変遷するものでした。古代では仏教が重く用いられ、江戸時代には儒教が重く用いられます。

これはそれぞれに仏や天というアニミズムを超越した、こう言ってしまうと語弊はあるとは思うのですか神、というものを想定していると思います。仏をそういうキリスト的な神と同一視しまうのは多少問題があると思いますが、仏が絶対不可知であるという意味において儒教の天という思想に近く、それぞれが自然というものあるいは、我々にとって、知ることのできない運命というものに対しての、いわゆる象徴あるいは観念として表わされているというのは間違いないと思います。

天が非人格神であるのに対し仏は人格神の側面があり、それはそこにおいては、日本神話あるいはキリスト教に近い考え方だとにも言えます。しかし、そういう分類がここでは特に深い意味があるという訳ではありません。

時代時代において国家の統一における思想の根源としてそのような超越神というものが必要になったという側面が強く感じられます。しかし、そこにおいての深い考察はここではしないことにしてます。

ここで言いたいのは、日本古来の思想はおしなべてずっと日の当たらない日陰者だったということです。例えば和歌にしろそうでした。例えば在原業平は、古今随一の歌い手でしょうが、漢籍ができなかったからこそ、上手い歌い手だったという事も言われています。そういうところから日本固有のひらがなやカタカナが生まれてきたというのもまた否定できません。そういういわゆる色好みの家にしか残っていなかったようなものが紀貫之の土佐日記から紫式部の源氏物語と発展していったわけです。

源氏を注釈した宣長は「もののあわれ」ということばに、使用されていた意味以上の概念を付け加え、はち切れんばかりにしたということは小林秀雄さんも指摘しています。しかし、そこから、万葉へ遡りさらには現代でも通用する古事記の注釈をなした、というところが、まず大事なのです。

宣長は官儒とは独自の発達を遂げた、日本の儒学、とくに、荻生徂徠に強い影響を受けていることも小林さんの「本居宣長」には描かれています。また、若いころから仏教をたしなんだことも描かれています。

観相によって人間など所詮肉の下は骸骨だなどという考え方は当時も随分流行ったようです。

例えば、臨済宗禅での初歩の公案に「火を千里先に付けるにはどうしたらいいか」というのがあって、「火になります」というのが正しい答えだったりします。そういうことを繰り返して、悟りを開いているかどうかということを、試していくわけです。しかし、そうやって悟りを開いたからといって、世界が変わるわけでもありません。せいぜい、死んだ後、輪廻転生から外れるくらいのものでしょう。仏と成るかどうかも怪しい。悟ってからが醍醐味という言葉もあるくらいです。

禅の悟りの段階を説いたものに十牛図というものがあります。色々解釈があるようですが、ついには街中に行って人々と暮らす。そこに現世での悟りの終着点があるわけでしょう。皆、坊主になれとはどこにも描かれていない。

そういうことを考える時に、日本神話は面白いもので、スサノオのみことは父のイザナギのみことより、海を司るように命じられながら、母に会いたいとワンワン泣き、姉のアマテラス大御神に会うために天界に行き、不行状によって追放される。追放された後、八岐大蛇を退治する。そういうふうに描かれています。ある種ばかげたぐらいに素直に感情を表に出しています。

勇ましいことは滑稽だ、というのは私の好きな小林さんの言葉ですが、いくら、威張ってみたところで、人々の暮らしは良くなりません。つらいものはつらい、という感覚を忘れようとしても、皆が皆仏様になれるわけではない。仏様になれる可能性はどの人にもある。所謂仏性はもしかするとものにも存在するかもしれない。そういうことは、大事なことですが、すでに説いた素朴な視線を持てば、忘れても良いことです。いわば、緊縮財政を強いたところで結局、ギリシアは政治的に混乱してしまい、再びユーロソブリンリスク問題が持ち上がる。そういう、人の自然な感覚、しかし、どこかで健全性と結びつくような素朴な感覚を大事にしなさい。ということが、「本居宣長」で描かれていることであり、そこが、私は一番大事なのではないかと思います。


2012年5月19日土曜日

日本の思想の特徴

小林秀雄さんの著作である本居宣長を読んでいると、その特徴は素朴さ、やや難しい言い方をすれば一階性にあると言えるだろう。

ここで、一階性を厳密に定義せずに素朴さとほぼ同じ意味で使うのだが、ようするに、日本の神様は何かちょっとでも不思議であれば、それが狐だろう狸であろうが神様になったというところにある。つまり、そのような不思議さの源と成る超越神のようなものを考えなかった。

(16:34付記 ちなみに、日本神話における最高神はもちろん太陽神であるアマテラスのみことであろうが、ほぼ同格に扱われている神様にタカムスビのかみというかみさまがおられて、ムスというのは結びつけて生まれる、生す(産す)という言葉のことであり、現代でも例えば苔生すというような言い方に使われている。そういう意味では、厳密には一階性というより二階性ぐらいまであるかもしれないが、これをメタというには少し遠いように思う)

それは文明の発達と共にあるのかもしれない、ということで民俗学が参考になっているのだろうが、基本的に文字による観念があるか無いかがその分かれ目であるとも言えるだろう。そのような、記憶におけるいわゆるベタさ加減から本居宣長はついに離れることはなく、古代の人の不思議を不思議と思う気持ちにとことん付き合って離れることはなかった、と、本居宣長は描かれている。

複雑になりすぎた金融工学が結局はハイリスクハイリターンかローリスクローリターンかに過ぎないという写像によって分けられてしまう現在に日本的な思想を根本的なところから考えてみるのも何かしら参考になるのではないかと思い、この記事を書いてみた。

要するに、つねに、対象を思いその不思議さに寄り添うようでないといけないというのがなんの商売であっても基本であろう。それを忘れた時にバブルは発生するのかもしれない。こう言う素朴さ、というのはいつの時代も変わらず大事である、というお説教は嗤われるかもしれないが、それをとことんやるとなると非常に難しいと言うこともそこには記されているわけである。そういうところまで読み取れるようであれば、少なくても読書も充実するということは言えるのではないだろうか。

2012年5月14日月曜日

ヒュームの人性論における「近接」の定義

中央公論社の世界の名著というシリーズが熊本県立図書館にあり、その27巻にはヒュームの人性論(土岐邦夫訳)が含まれているのですが、それには、例えば、用例として第一章第六節の第一段落最後の方の一文を書き出すと、「少なくとも諸性質は近接の関係と因果の関係によって密接に、分離し難く結合していると想定される」、とあり、また、その前の第五節においては、 「3 同一についで最も普遍的、包括的な関係は<空間>および<時間>の関係である。この関係は、<隔たっている>、<近接している>、<上>、<下>、<さき>、<あと>、など数限りない比較の源である」 と述べられている部分がある。この部分を代表して「近接」と言う言葉が用いられているようであるので、「近接」あるいは「隣接」という言葉は、必ずしも時間的関係のみならず空間的関係をも含んでいるものと思われる。 以上のような内容の文書を、あとでメモの第参照第五節分の「隣接」を説明したところに用いたいと思う

2012年5月13日日曜日

メモ 第三章第五節辺りから出てくる『隣接』の定義を間違っているようです

第八節至り、『隣接』という言葉の使われ方が、時間的継起に関係してくることがはっきりしてきたため、色々調べてみると、『隣接』という概念は、デビット・ヒュームが観念の連合で用いた考え方の一つで、たとえば、風が吹いたら桶屋が儲かる的な、物理法則がもたらすところの因果律とは違った形の因果関係を日本語で「隣接」あるいは「近接」あるいは「接近」と訳されているようです。この辺は、本を買うか、図書館へ行って調べ直してみようと思います。

読者の皆様には申し訳ありませんが、メモ第三章第六節分で、『隣接』について以下のように説明していた部分は、このことを改めて調べ直した後、修正する方向で考えておりますので、まずは、告知させて頂きます。

註記しておくと、『隣接』の定義がここまで出てきていないが、この節最後まで見てみると、例えば「信号機」という一種の連合観念において、「青」と「赤」という観念は互いに『隣接』していると見なせるような関係だと思われる

2012年5月12日土曜日

「メモ」のメモ第二章の『再認』あるいは『注意』についてと第三層第五節における『反省の努力』の関連性について

第三章第五節の例えば以下の部分と

『この構想は反省の努力を必要とし、この努力によってわれわれ、表象から時間と場所の特殊性を消し去るのだ』(p.226 7行目-8行目)

第二章の『再認』について、あるいは『注意』の働きが関連性を持つかどうかをもう少し検討した方が良いかもしれない。

忘れないようにメモとして残しておく。

二人静の活動停止解除について

どうにもインデックスがないと不便ですので、二人静の活動停止解除を解除し(実際有名無実化していますし)HPを復活させようと思います。

なかなか、HPのレイアウトなど更新できないような部分がありますが、そのうちがんばります。どなたかファビコン作って下さるとうれしいのですけど…無理だな、きっと。

2012年5月5日土曜日

ベルクソン、「物質と記憶」における『純粋想起』と『純粋記憶』といいう言葉について

ここにおいて、第3章第5節ででてきた純粋記憶、と純粋想起を区別すべきかどうかを悩んでいる。運動習慣を純粋想起、純粋記憶をイマージュ想起という考え方も可能であるからである。しかし、第三章ではまず、知覚と純粋想起がまったく別の質が異なったものと考えたのであるから、そうもかんたんにいかないところがある。

つまり、運動習慣とは純粋想起が知覚と結びついたもの、純粋記憶は純粋想起とイマージュ想起の双方の性質を持ち、なおかつイマージュ化されていない純粋想起についても含んでいる、と言って良いかもしれないところがややこしい

2012年2月9日木曜日

二源泉メモその6:正義、についての補足




天才性とは何かということについて、それを述べる技量も見識も私にはない。しかし、少しだけこの部分について補足をしたいと思った。基本的に学問的なことを言っているわけであり、誰が天才だとかそういう問題ではないのは当然だと思うが、どうにも天才性という言葉が気に入らない人もいるようだ。そういう、一種の言葉狩りには、ウンザリするのであるという気持ちも隠しきれない。そして、その前に、そもそも論として、私の読書メモなのであるからなどという言い訳めいた憂鬱な気持ちがあることだけは少し表明しておきたい気もする。

さて、この節は長いとは言ってもしょせんは、節単位で見た時に相対的に長いと言うだけでほぼ正義についての概論ということになるだろう。

ポイントは、必要に迫られて構築された自然発生的な「正義」と、ユダヤ=キリスト教的起源を持つ「正義」が決定的に異なるという点であろう。

しかし、そのユダヤ=キリスト教的起源を持つ「正義」の概念自体は、古典古代の哲学者たちがすでに考案して主張していたことに他ならないこともベルクソンは主張している。

ベルクソンが主張しているのはその決定的な違いは、「布教活動」という点にあったという指摘だ。

しかし、それによる飛躍までに「十八の世紀」が必要だったことに、もっと注目して欲しい、と私は思う。そして、一つの飛躍に「十八の世紀」が必要だったことに対し、それからのたえまない進歩によって、現在の近代民主主義が確立したというのは非常に早かったことにも注目しなければならないだろう。

繰り返すが一つの飛躍が「十八の世紀」かかるほどのエネルギーの蓄積が必要だったという点が重要なのである。また、そこからの数々の飛躍はもっと容易にみえる点も指摘しておきたい。

あることが、できると分かるまでには、非常な努力とエネルギーの蓄積が必要なのであり、できると分かってからはその努力とエネルギーがずいぶんと少なくて済むことは、何も民主主義国家の成立だけの問題ではないのでここでは議論せずとも皆さんご理解頂けるだろう。

しかし、「十八の世紀」に渡るエネルギーと努力の蓄積はどれほどのものだったか、ということについてその「飛躍<エラン>」と果たして釣り合うようなものであったかどうかについて、われわれはもっと思いをはせなければならないだろう。

われわれ、日本人ははまず、カトリックのキリスト教国にとってはしばしば布教活動が植民地主義と結びついていたことを思い浮かべるだろう。また、プロテスタント国家であるイギリスにおいても、世界中に植民地を持ち、覇を唱え、その過程で中国におけるアヘン戦争など歴史的汚点も隠しきれない。また、日本においても、明治維新政府が外国人から見た場合、近代国家の衣を被った江戸幕府と大差ない中央集権的政府だったことも、否定しきれず、その後、遅れてきた植民地主義者として先の大戦で大敗という歴史も経験した。他にも、日本に限らず、たとえば、人種差別、性差別も根強い問題として残っている。したがって、ベルクソンの言うことをそのまま鵜呑みにすることは、わたしのような日本人にとってもなかなか難しいことだ。

しかし、確かに、思想的、理想的に見れば近代民主主義においてキリスト教が果たした役割はベルクソンの言う通りのものがある。それは誰にも否定しきれまい。

しかし、それは容易ではなかった。何度も繰り返すがその「天才性」の顕現には「十八の世紀」を必要としたのである。そして、そのことがなければ、「飛躍<エラン>」はなかったのである。私が特に何か言えるとすれば、その点においてだけである。それは、あるいは、火山の爆発に例えることもできるかもしれない。あるいは、量子のエネルギー準位の不連続性に例えることもできるかもしれない。しかし、そのような例の中に隠れているのは、やはり「十八の世紀」を必要とした時間であり努力であり、歴史である。これは何度繰り返し強調しても繰り返しすぎるということはないだろう。われわれは、その飛躍までの時間にあった経験にもっともっと思いを馳せるべきなのであり、それを理解することは容易でないにしろ、われわれは、その難しさにもっと畏怖を持ち、人間という、このかしこくも愚かなものについて自省すべきなのだ。

そうして頂けるならば、私が何故、ウンザリするような気持ちをもち、しかしそうでありながらも、アルバイトが終わったあとにこの文章をこの時間にまで書いているかについても少しはご理解頂けるだろうと思うのである。



2012年2月7日火曜日

二源泉メモその6:正義



ここは、節としても長いので、少し引用も多く交えながらじっくりと取り組もうと思う。

まず、しばらく節の始めを引用しよう。(注:テキストは岩波文庫、「道徳と宗教の二源泉」:ベルクソン著、平山高次訳:第29刷)

「すべての道徳的概念は概念は相互に浸透し合っているが、そのうちで正義(justice)の概念にもまして教示的なものはほかにない。その理由は、第一に、それはほかの道徳的概念の大部分を含んでいるからであり、次に、それは、この上のもないその豊かさにも拘わらず、もっとも単純な用語で言い表されるからであり、最後に、そして特に、この概念のなかで責務の二つの形態の一方が他方のなかにぴったり当てはまるのが見られるからである。正義は平等(égalité)、釣り合い(proportion)、償い(compensation)の観念をいくつも喚起した。「compensation」と「récompense」(報酬)の語源であるpensareという語は、秤る(pener)という意味を持っている。正義は均衡を保っているということで表されてきた。公平(quit)は平等を意味する。régle(基準)とréglement(規定)、rectitude(公正)とrégulartité(規則正しさ)は、直線を示す語である。算術及び幾何学のこうした照合は、正義の歴史の流れを通じて、その特徴である。正義の概念は、物々交換(échanges)に際して、すでに正確に描かれたに違いない。」(節の最初の部分から10行ほど引用)

ここまで引用したが、このあとも含め、正義の起源は等価交換という商業的な意味を持っていたとベルクソンは考察している。

ここから、原始社会に於いての犯罪的行為、特に誰か(テキスト「人<フリガナ:ペルソナ>」)を殺傷した場合に関しても同じように等価交換的な「復讐」が行われていたと説明する。(ただし、神々の怒りを招かないような場合に限られるという条件はついている)しかし、この復讐は二家族間で限りなく行われていくであろうことは、われわれにも容易に想像がつく。以下引用、

「 ―さて、社会全体が厳罰を加えることを引き受け、どんなものであれ、すべて暴力行為を取締る役目を引き受けているとすれば、 ―もし家族ないしは個人が彼らの紛争に結末をつけるためのよりどころとする基準がすでに正義という名でよばれていれば、正義を行使するのは社会である、と言えるだろう。しかも、社会は加害の重さに従って刑罰をきめるだろう。」(p.85 14-17行目)

以下、要約すれば、罰には犯罪の予防効果の役割があることを指摘し、さらに、罪と等価でなければならないであろうという。つまり、目には目を歯には歯をという有名なハンムラビ法典(テキストでは「反座法(loi du talion)」の言葉が引用される。しかし、一般に古代は階級社会でもあったため「質」にも考慮されたであろうということも指摘している。しかしながら、いずれにせよ、その罰は罪に対して等しくあらねばならないであろう。以下引用、

「要するに、平等はある関係をめざし、ある釣り合いとなりうる。それ故、正義は、もっと多種多様な事柄を含んでいてもはやり同じ仕方で定義される。 ―さらにまた、正義の定式は、もっと進んだ文明状態において、為政者と被治者の間の関係にまで、もっと一般的には社会的な諸範疇間の関係にまで、広げられるときも変わりはしないだろう。」(p.86 6-10行目)

以下、釣合いとその数学的な関係にまで言及し、階級制度へと言及していく。その途中には、言葉の魔力、すなわち、動的なものを静止したもの連続と考えてしまうその様な思考の傾向を導き出す言葉というもの自体の性質にも言及される。しかし、ここでは、階級制度と「絶対的な正義」すなわち、これまでの考え方を演繹するならば絶対的な平等と言い換えても良いであろうが、この二つが対立するというのは言葉の一般的な意味から言っても明らかであろうが、そのことに言及される。

この絶対的な平等は絶対神を尊崇するところのユダヤ人達の宗教の繰り返す創造的跳躍によって、得られた。(この辺りの議論については、私個人的には多少異論もあるが、ここでは従っておくことにしたい)しかし、そのことは、随分早くから考えられていたにも関わらず、その様な身分制度のない国家が誕生したのは18世紀に入ってのアメリカの清教徒達の宣言であり、次にフランスの大革命である、とベルクソンは言う。

この部分をもう少し振り返れば、要するに、国民全員が自由で平等である国ができるためには、哲学ではなく、キリスト教という宗教が必要だった。哲学はその一歩を踏み出すことができなかった。その様な反省がここには込められている。以下、テキストから象徴的な部分を引用する。

「権利の平等と人格の不可侵性を含む普遍的同胞愛の思想が活動的になるためには、キリスト教の到来まで待たねばならなかった。ひとは、その作用は全く緩慢だった、というだろう —人間の権利がアメリカの清教徒たちに宣言され、やがてフランス大革命の人々に追求されるまえに、実に十八の世紀が流れた。それにしても、そうした思想はやはり福音の教えとともに始まって限りなく存続するに至った —感嘆に値する賢者達によって人々にただ提示されただけの理想と、愛の使命を帯びて世界の中に放たれ、愛を呼び起こした理想とは別物である。」(p.95 6-10行目)

「愛の使命を帯びて世界の中に放たれ、愛を呼び起こした理想とは別物である。」とは端的に言えば布教活動であった。人々の魂に、不可能(ここでは階級社会の打破、あるいは、万民の平等性の追求)を可能するという飛躍をもたらしたのは、その様なひとつの方向が提示され、1つの方法がもたらされていたことによる結果である、と言う。しかし、それは、われわれが古いものが新しいものに含まれると考えがちなその様なことではなかった。その様なことは、われわれが始点と終点を知っており、その中の経路を無限小の大きさの点の集まりと考えがちなことによるというのは、言葉の魔法のところですでに言及されている。以下、解説したところも含めて上記引用文の続きをの引用(引用は長いが、わかりやすさと、引用文後半部分は分けて解説することが困難なことを考慮したため)。

「実を言えば、後者にあっては、完全に格率<テキスト振り仮名、マキシム:格言、箴言のこと>として定式化されうるような一定の知恵は、もはや問題ではなかった。むしろ、ひとつの方向が指示され、ひとつの方法がもたらせていたのである。たかだかのところ、ただ暫定的なものでしかない、従って絶えず更新される、努力を必要とする一つの目的が指示されていただけである。しかも、そうした努力は少なくともあるひとびとにおいては、必ずやひとつの創造的努力でなければならなかった。その方法は、所与の社会においては実際には不可能である物を可能だと仮定し、このことから社会的な魂にとって結果するものを思い浮かべ、それから布教と手本によって、魂の中にそうした状態をひき起こすことにあった。結果がいったん得られると、それはその原因を遡及的に捕捉するだろう。新しい、しかも消えかかった感情が、そうした感情の出現に必要だと思われるような、そして、その時そうした感情を強化するのに役立つような、新しい立法を喚起するだろう。近代的な正義観念は、成功した一連の個人的創造を介して、同じ飛躍<テキスト振り仮名、エラン>で生気づけられた幾多の努力を介して、このようにして進歩したのである。 —古典古代は布教を知っていなかった。その正義はオリュンポスの神々の明晰な無感覚さをもっていた。弘布の要求、伝導への熱心さ、飛躍<テキスト振り仮名、エラン>、運動、すべてこうしたものはユダヤ=キリスト教的起源のものである。しかし、同一語が使用され続けていたために、同じものを扱っているのだと、あまりにも信じられすぎた。次のことは、どんなに繰り返しても、繰り返しすぎることにはなるまい —すなわち、個人的で偶然的な継起的諸創造は、もしそのひとつひとつが次の創造を誘発した場合には、そして、後から見て、それらの創造が相互連続しているように見えるならば、普通は、同一標題のもとに分類され、同一概念に包摂され、同一名称で呼ばれるだろう。もっと遠くへ進んでみよう。その名称は、このようにして構成された系列の既存の諸項にしか適用されないわけではなく、さらに、未来を予料して、全系列を指すだろう。ひとはその名称を末端に —あるいは無限に、といおうか— 置くだろう。名称はずっと以前からできあがっているので、それが表している、開かれてはいるが、内容の決定されていない概念もまた、それと同じように以前から、太古からさえも、でき上がっている、と想定するだろう。そこで、獲得された進歩のそれぞれは、この先在的本体からそれだけ多数に取り出されたものということになろう。現実は、永遠的正義の全体をすこしずつ体現して、理想をかじってゆく、ということになろう。 —そして、このことは、単に正義の観念に真であるばかりでなく、さらにこの観念と並べられる諸観念 —たとえば平等や自由— に関しても真である。正義の進歩は、自由や平等への歩みである、と好んで定義される。こうした定義は非難されるものでないが、しかし、それから何が引き出されるだろうか。このような定義は、過去にとっては妥当であるが、未来に関するわれわれの選択を方向付け得ることはまれである。例えば、自由を取り上げてみよう。個人は、他人の自由を傷つけないかぎり、どんな自由に対しても権利がある。と通常いわれている。しかし、今日の社会ではあらゆる自由の相互侵害を結果させるような新しい自由の承認が、そうした改革によってその感情や道徳習慣が変えられた社会においては、反対の結果を生み出すかもしれない。そこからして、その同類の自由を何ら侵害すること無しに、どれほどの自由が個人に認められ得るか、をアプリオリに述べることはしばしば不可能である— 量が変われば、もはや質も同じではない。他面、平等は、自由を犠牲にすることなしには、決して獲得されないものであるから、まず最初に、この二者のいずれが望ましいか、を自問せねばならないだろう。しかし、こうした疑問はどんな一般的解答も許さないだろう。なぜならば、これこれの自由の犠牲は、もしそれが市民全体によって自由に同意されるならば、やはり自由に属しているからでである。そして、特に、自余の自由は、平等の方向で遂行された改革が、もっと気楽に住める、もっと多くの喜びが行動に感じられるような、社会をもたらした場合には、より優れた質のものであり得るだろう。いずれにせよ、新しい社会的雰囲気を、よりよい生活が営まれる環境を、つまり、ひとびとが一度その体験をもてば二度ともとの状態に戻りたくないと思うような社会と、心のなかで思い浮かべているような道徳的創造者の概念にいつもたち戻らねばならないだろう。このようにして初めて、道徳的進歩は定義されるだろう。しかし、道徳的進歩は後からでなければ、つまり、ある特異な道徳的天性が新しい音楽にも比すべき新しい感情を創造し、それに彼自身の飛躍<テキスト振り仮名、エラン>を刻印することによって、それを人々に伝えた時にしか定義され得ない。」(p.95 11行目-p.98 3行目)

長い引用文であるがここでは、ユダヤ=キリスト教的起源の布教活動が、数々の「飛躍<エラン>」によって「自由や平等への歩みである」ところの「正義」の「飛躍<エラン>をもたらしてきたということが描かれていたことがわかる。そして、ベルクソンの言説では「正義」の「飛躍<エラン>」はここではすなわち、「道徳」の「飛躍<エラン>」あるいは、「進歩」であることも理解される。

さて、こうした進歩を見ていくとき次のことが改めて強調される。すなわち、

『「自由」、「平等」、「権利の尊重」についてこのように考えてみるなら、われわれの区別してきたの正義観念 —開いた正義と閉じた正義— の間には、単なる程度の差ではなく質の差があることがわかるだろう。なぜならば、比較的に安定した閉じた正義は、自然の手から出てきたばかりの社会の自動的均衡を表すものであるが、「責務の全体」と結びついている諸多の習俗のなかに建言するからである。そして、この「責務の全体」はもう一方の正義 ―継起的な諸創造に開かれている正義― の様々な命令を、それらの命令が世論に受け入れられるにつれて、包含するに至るだろう。』(p.98 4行目-10行目)

この引用の部分が、ここまでのまとめにも相当する。この部分から後、節の終わりまで、哲学者なら、普段は全く混同されているこの「開かれた正義」(テキストでは、「人間的天才から生まれ出た」と表現もされている)と「閉じた正義」を区別すべきであると主張されている。



2012年1月26日木曜日

電子回路化した閉鎖小国経済モデル

リーマンショックのころ、閉鎖諸国経済モデルを電子回路で表わしSPICEなどの電子回路シミュレーターでシミュレーションしたら世の中の役にたつと思い、mixiの日記の中発表したことがある。

これには、税金は損失として表わされている。それについては、政府の税金による再配分化の役割を過小評価しているという批判もあるようだが、そこは、もう一つ電流源なりカレントミラー回路なりを付け加えて頂ければいい話だ。電流の流れ自体の制御は抵抗分割で制御できるわけでもあることも指摘しておきたい。


このモデルでは、リーマンショックみたいなものは、パルス応答、もしくはステップ関数としての応答を調べることになる。つまりお金の流れが(バブル=>バブルの破綻という)インパルスのような形になるか、急な階段状に落ち込むと捕えるかいうことになると思う。したがって、インパルスと考えれば、税金を上げる、ステップ関数と考えれば、逆にお金を供給するという形になる。いずれも、このモデルでは、政府の役割は描かれていないのは問題ではあるが、非常に基礎的で分かりやすい部分だけであるので、応用は比較的やりやすいと思い再掲する


以下以前の日記である。

(2012/02/24追記:日記の口調が乱暴なのは若いということよりも、本来非公開であるということと、それを勝手に覗かれていたということがあって、かなり怒っていたため。事情がわからない方のために念のため)




アナログ回路シミュレータSPICEによる閉鎖小国経済モデル



2009年11月26日22:12





以前も少し書いたことがあるが、アナログ回路シミュレータのSPICEによって 
経済シミュレータを作れば良いんじゃないか?と言ったことがある。 

基本的には、お金を電流、市場をバイポーラのトランジスタとして考える。 

添付ファイルまで見られるかどうか知らないが、 
添付ファイルにその回路図を示す。 

これが良い点としては、過剰流動性を説明できるということと、 
バイポーラトランジスタモデルが確率モデルであること。 
モデルは、自由に記述できるという点も良い。 
また、シミュレータとしては確立されたものがあるし、 
いろんなバージョンもあるので、回路シミュレータ自体は 
無料で使えるものもある。 

実際のモデルを作ること(検証も含めて)が私には難しいので 
とりあえずアイディアだけを公開したいと思います。 

ライセンスは考えてないけど、アイディアの権利と著作権は 
とりあえず私にあります。でも、自由に使ってください。 
商業利用もありです。(笑い)






2012年2月23日追記:証拠のようなものとして、いくつかスクリーンショットを貼っておきます






二源泉メモその5:理性(あるいは知性)について

開いた魂と閉じた魂から開いた道徳と閉じた道徳についてについて述べたあと、ベルクソンは次に「開いたものと閉じたものの間「自己尊敬」について言及する。この二節は理性について言及されている部分と考えられるだろう。

一部引用しながら述べると、道徳においては、閉じたものとされた、純粋に静的なものが知性以下のもの(l’ infra-intellectuel)であったのに対し、開いたものすなわち純粋に動的なものは、知性以上のもの(le supra-intellectuel
)として考えらることがここでは言及されている。すなわち、前回みたそこにいるだけで真似をしたくなるという「英雄的行為」のことをさしていると考えられるだろう。

その中間は、いわば、座っている(静的な状態)と走っている状態(動的な状態)の中間であるような立っている状態であり、それが、知性そのものであるという。

古代から続く「学」と観想に基づく様な哲学は、これに相当するともいう。

これは、あとで「正義」という節で見るように、宗教が社会変革を起こし得たのに対して、知性に頼る伝統的な哲学が社会変革をなし得なかったという反省がある。

そのことについて詳しく述べられたあとに、「自己尊敬」という節では、その自己尊敬は簡単に言えば、品位という言葉に置き換えられることが述べらる。ここでの品位とは思考によって得られる倫理性と定義できる。

少し引用すれば「我々が自分のうちなる人間品位の前で頭を下げ、自己尊敬によって行動していると明言する時、我々の敬意はこの理想社会へささげられているのである」

さて、こうして、知性により、あるいは、理性により、我々は品位と自己尊敬を獲得することができるわけであるが、その人間の理性には、ある種の絶対的な性質が備わっているからこそ、そのようなことが可能になるとベルクソンは、述べる。以下引用。

「それ故、我々各人のうちに現存している理性は、我々の尊敬を強要し、その優れた価値によって我々を服従させる、と言うだけにとどめず、理性の背後には、人類を神的なものとなし、このようにして人類の本質的属性である理性に神的な性格を刻みつけた人々がいる、と付言しよう。」

2012年1月12日木曜日

孔子様は聖人ではないそこが良いと本居宣長は言う

そこが良いと本居宣長は歌を詠んでます。

聖人と人は言へども 聖人の類ならめや 孔子(くし)は良き人

この辺の温度差がこれから二源泉を読んでいく上で私が注目したいと思っているところです

2012年1月11日水曜日

二人静活動再開について

やむを得ない行動だったとは言え、活動中止をにおわせながら、更新停止にしたのはやはり強権的すぎる行動だったかもしれません。


明日をもって更新停止は解除して、がんばって活動したいと思っています。

二源泉読書メモその4 開いた魂

情緒と創造性の関係をのべたあと、ベルクソンは道徳と情緒の関係性を語る。道徳には二種類あり、社会を維持するのに必要な自然法則にも似た道徳と、創造性にも通じる情緒から来た道徳。ここでは仮に後者を真の道徳と言っておくことにしよう。 真の道徳を持つものの行為は、英雄的行動となる。しかし、その英雄的行動というのは、ただそこにいるだけなのだ。それだけで、周りにいるものは真似をしたくなる。そこには物理的障害はなく、歓喜があるために物理的障害は障害として映らない、とベルクソンは言う。 ベルクソンが例をあげているのはソクラテスである。ソクラテスは、政治的に混乱したアテナイの都市国家で、対話(ディアレクティック)によって自分の考えを説いた。それが、後年、弟子プラトンによる著作によって我々にも伝わってきて、知を愛するその生き方は、現代、東洋に生きる我々をも魅了する。

この辺りは、孔子様にも似たところもあり、違うところもある。孔子様は、後年どこの国にも用いられずに、諸国をさ迷った。そこでは、聖人の業績を調べあげ、書物として残した。現実思考で、政治に携わることを望んだ。弟子達とはぐれ、薄汚れた老人として一人たたずんでいる姿も論語には残されているが、そこもまた良い。 こうして比較すると、違うところも多いが、そこにいるだけで、多くの弟子達を魅了し、現代も魅了し続けているというのは似ている。 それはそれぞれの信じたデモンや天と呼ばれるものの違いかもしれない。こうしてみると、知を愛し対話を好んだことは共通しているのだが、それぞれに信じる精霊、あるいは情緒性と呼ぶべきものかもしれないが、その情緒性の違いが、その個性となってきている気がする。

しかし、哲学というものは大変奥が深いものであるな、と改めて思うのである

2012年1月10日火曜日

二源泉読書メモその3 創造性と情緒

ベルクソンは、情緒(émotion)には二種類あり、その深い情緒と創造性が深く結びついていると説明している。

なかなか興味深いと思う。

2012年1月9日月曜日

成人の日に人口減少社会を思う

人口が増加するようになると、年よりも増え、子供も増え、働き手の割合が減るなどという極端な議論もあるようだが、ここでは無視する。人口が減っていてそれが止まらないのが問題だという長期的な議論を

・人口減少を止める=子供の人口がかなり増える
(実際には、若い人の割合が減っているので、出生率が多少上がったとしても子供の数が維持されるぐらいで、実際には減り続けるだろう)

・仮に増加に転じたとしても長いスパンで見れば働き手は増える

など、議論の中心的な問題がすり替えられているからだ。

では、人口減少を止めるためにはどうしたら良いか。団塊の世代に活力を与えれば、あるいは日本は将来に渡って元気になるというものだろうか。

そうではないだろう。若い人がやりがいを感じ、子供を持っても働きやすい環境にすることが大事だろう。

働き手が少なくなるということで、もちろん移民も考えても良い。しかし、移民問題は難しい問題だ。女性の社会進出をサポートするのもひとつの手段だろう。そういう面からも子育て支援は重要だ。

定年延長も、ひとつの手段ではある。しかし、人口が減少している以上、それは根本解決とはならない、どちらかといえば、暫定的な方法であろう。どちらが優先順位が高いかということだ。

と私は思うのだがどうだろうか。

2012年1月8日日曜日

二源泉を読んでいるのだが(二源泉読書メモその2)

ベルクソンの「宗教と道徳の二源泉」やっぱり良く分からないところが出てくる。

例えば、聖人と凡人あるいは、家族愛、国家愛と人類愛は質が違うという記述だ。読んでいるとそうなのだろうと思うが実感として分からないのは凡人だからだろう。
しかし、「愛」が重要なのは何となく実感として理解できる。

ところで、挑発的な記事を読んだのだが、へろへろのパーなので、何にも応えることができない。古典というものの重みを事実か事実でないかということに置き換えると言うことは、自らの経験を事実か事実でないかということに置き換えることなのと同じではないのか。事実としてみれば、別の見方ができる。そういうことは良くあることでしょう、というだけの話だ。

夢の話もそうでしょう。自分が見た夢がものすごく良く当たった。でもそういう夢は少ないよね。ということとどこか等しい。科学的であることと、その人自身の経験とはやはりどこか違うわけでですね。古典を古典として鑑賞することができなければ、はやり、あれでしょう?古事記なんか荒唐無稽なわけでしょう?本居宣長が滑稽な人なんでしょう?そういう議論はしたくないのですよ。おわかり頂けますでしょうか。どうか、ご了承下さいますようお願いいたします。

2012年1月7日土曜日

「二源泉」読書メモその1


ベルクソンの道徳と宗教の二源泉を読み始めたばかりなのだが、社会と人間の関係はある種有機体とその細胞のそれに似ている。社会的規範は意識されない限りは静かに実行され当然のものとして受け止められる、云々という内容が出てきて、それで、孔子様の六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従いて矩をこえず、という言葉を思い出した。

論語には、「郷党」(第十)という篇があり、ここには、弟子たちが孔子様はこういうときにこうされた、などという孔子様の普段からの行状を綴ったものだけでほとんどを占められている篇がある。中江藤樹(ウキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9)は、論語の解説は郷党しか残さなかったことが小林秀雄さんの「本居宣長」に書いてある。そういうことも思い出した。

志学、而立、不惑、知命、耳順、とたどり、心の欲するところに従い矩を超えず、と年齢に沿って辿る一筋の道と、われわれの幼いころから自然と従うように訓練されたところの社会的規範とどう違うかはこれから読書の楽しみである。

読書メモとして書いておいた。

2012年1月6日金曜日

ベルクソン「物質と記憶」メモWeb版について

現在「メモ」の第3章の推敲をやっているのですが、やはり、『純粋知覚』について詳細に書かれた第1章の解説を早めにやるべきかな、と思っています。この第1章の解説は、Web版ということでまとめたいと思っています。すなわち、Web版はより詳細な解説の「メモ」にという形で展開しようか、と考えています。


こちらも、早めに草稿を書こうかと思い始めていまして、


・メモBlog版の第3章、第4章の推敲
・メモWeb版の第1章の原稿書き


を同時に進めようかと思っています。


それで、Web版のほうは、ベルクソン「物質と記憶」解説メモ、と少々名前を変えさせて頂こうかと。
Blog版は初め私の読書メモから始まったこともあり、スタイルも統一していませんし、第2章まで見直したとき内容もかなり省いて説明しているところも多く、全面的にもう少し詳しい説明を加えた方が良いのかな、とも思いまして。悪くはないのですが、テキストがないと少しわかりにくいかなと思うところもありましたので。ただ、摘要だけ知りたい方もいらっしゃるでしょうし、そちらの方が分かりやすいかもしれないと、その辺は少々悩んでいます。


ただ、摘要についてはあとで付加するか、もしくは電子書籍版など発行できるようになったあかつきに付け加えるとかということも考えられるなあと思っていまして、その辺りはこれから検討します。


以上、宜しくお願いいたします。

2012年1月2日月曜日

ブログのデバッグ的修正を行っています。

昨年末から、いったん正式なものとしてアップしたブログの誤字や脱字その他の誤表記を中心に修正を行っています。大きな内容的な誤りは、その都度ブログの中に書き込んでいますが、そのほかのものについては特に注意書きすることもなく変更を行っています。

こっそりというわけでもないのですが、特に言うほどのこともないと思っているのですが、念のためにここに記しておきます。

これからの予定としては、それが終わった後、「メモ」の草稿の修正とアップ、それから、Web版の作成に取り掛かるつもりです。Web版というのは二人静のHPにブログでは大幅に省略している第一章の解説を付け加えた形で、もう一度整理しようというものです。

それが終われば、以前申し上げていたように、『試論』の解説をやりたいと思っています。

本当にやることが多く、わが身の至らなさを省みてはため息ばかりつくような毎日です。