2012年2月9日木曜日

二源泉メモその6:正義、についての補足




天才性とは何かということについて、それを述べる技量も見識も私にはない。しかし、少しだけこの部分について補足をしたいと思った。基本的に学問的なことを言っているわけであり、誰が天才だとかそういう問題ではないのは当然だと思うが、どうにも天才性という言葉が気に入らない人もいるようだ。そういう、一種の言葉狩りには、ウンザリするのであるという気持ちも隠しきれない。そして、その前に、そもそも論として、私の読書メモなのであるからなどという言い訳めいた憂鬱な気持ちがあることだけは少し表明しておきたい気もする。

さて、この節は長いとは言ってもしょせんは、節単位で見た時に相対的に長いと言うだけでほぼ正義についての概論ということになるだろう。

ポイントは、必要に迫られて構築された自然発生的な「正義」と、ユダヤ=キリスト教的起源を持つ「正義」が決定的に異なるという点であろう。

しかし、そのユダヤ=キリスト教的起源を持つ「正義」の概念自体は、古典古代の哲学者たちがすでに考案して主張していたことに他ならないこともベルクソンは主張している。

ベルクソンが主張しているのはその決定的な違いは、「布教活動」という点にあったという指摘だ。

しかし、それによる飛躍までに「十八の世紀」が必要だったことに、もっと注目して欲しい、と私は思う。そして、一つの飛躍に「十八の世紀」が必要だったことに対し、それからのたえまない進歩によって、現在の近代民主主義が確立したというのは非常に早かったことにも注目しなければならないだろう。

繰り返すが一つの飛躍が「十八の世紀」かかるほどのエネルギーの蓄積が必要だったという点が重要なのである。また、そこからの数々の飛躍はもっと容易にみえる点も指摘しておきたい。

あることが、できると分かるまでには、非常な努力とエネルギーの蓄積が必要なのであり、できると分かってからはその努力とエネルギーがずいぶんと少なくて済むことは、何も民主主義国家の成立だけの問題ではないのでここでは議論せずとも皆さんご理解頂けるだろう。

しかし、「十八の世紀」に渡るエネルギーと努力の蓄積はどれほどのものだったか、ということについてその「飛躍<エラン>」と果たして釣り合うようなものであったかどうかについて、われわれはもっと思いをはせなければならないだろう。

われわれ、日本人ははまず、カトリックのキリスト教国にとってはしばしば布教活動が植民地主義と結びついていたことを思い浮かべるだろう。また、プロテスタント国家であるイギリスにおいても、世界中に植民地を持ち、覇を唱え、その過程で中国におけるアヘン戦争など歴史的汚点も隠しきれない。また、日本においても、明治維新政府が外国人から見た場合、近代国家の衣を被った江戸幕府と大差ない中央集権的政府だったことも、否定しきれず、その後、遅れてきた植民地主義者として先の大戦で大敗という歴史も経験した。他にも、日本に限らず、たとえば、人種差別、性差別も根強い問題として残っている。したがって、ベルクソンの言うことをそのまま鵜呑みにすることは、わたしのような日本人にとってもなかなか難しいことだ。

しかし、確かに、思想的、理想的に見れば近代民主主義においてキリスト教が果たした役割はベルクソンの言う通りのものがある。それは誰にも否定しきれまい。

しかし、それは容易ではなかった。何度も繰り返すがその「天才性」の顕現には「十八の世紀」を必要としたのである。そして、そのことがなければ、「飛躍<エラン>」はなかったのである。私が特に何か言えるとすれば、その点においてだけである。それは、あるいは、火山の爆発に例えることもできるかもしれない。あるいは、量子のエネルギー準位の不連続性に例えることもできるかもしれない。しかし、そのような例の中に隠れているのは、やはり「十八の世紀」を必要とした時間であり努力であり、歴史である。これは何度繰り返し強調しても繰り返しすぎるということはないだろう。われわれは、その飛躍までの時間にあった経験にもっともっと思いを馳せるべきなのであり、それを理解することは容易でないにしろ、われわれは、その難しさにもっと畏怖を持ち、人間という、このかしこくも愚かなものについて自省すべきなのだ。

そうして頂けるならば、私が何故、ウンザリするような気持ちをもち、しかしそうでありながらも、アルバイトが終わったあとにこの文章をこの時間にまで書いているかについても少しはご理解頂けるだろうと思うのである。



0 件のコメント:

コメントを投稿