2015年4月2日木曜日

坂口安吾「教祖の文学 ー小林秀雄論ー」を読んで

最近、青空文庫にて坂口安吾の『教祖の文学 ー小林秀雄論ー』を読んでいろいろ考えたので、メモ書きでも残そうと思う次第です。 坂口安語の文章は、見方にもよるだろうが、脱構築的であり、あるいはハイデガーの指摘するような「そこに投げ出された人間」と言う立場から小林秀雄さんの思想を批判しているのだが、非常に穿っているので、ここで一部であるが引用したい。 「だから教祖の流儀には型、つまり公式とか約束といふものが必要で、死んだ奴とか歴史はもう足をすべらすことがないので型の中で料理ができるけれども、生きてる奴はいつ約束を破るか見当がつかないので、かういふ奴は鑑賞に堪へん。歴史の必然などといふ妖怪じみた調味料をあみだして、料理の腕をふるふ。生きてる奴の料理はいやだ、あんなものは煮ても焼いてもダメ、鑑賞に堪へん。調味料がきかない。  あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。  生きてる人間といふものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間といふものは、自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようといふ、せつぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思ひこまうとし、体当り、遁走、まつたく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想といふものがそこから生れて育つてきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにゐられなくなつた棒キレみたいなものの一つが文学だ。」 小林秀雄の思想は「型」を重視する。無学な私もすこし勉強してみれば『本居宣長』も型だけであることを知る。しかし、そこに小林秀雄さんの独創がないかというとそれは違う。描かれた本居宣長と言う人物はいかにも独創的であるし、また、思想においても「型」を破って独自の境地に達している。私はまだまだ勉強不足であるが、そのことはいつかまた、『本居宣長』についての解説を書く機会があれば表現してみたい点でもある。(書く機会があればであるが。) 一方で、現代において、坂口安吾のようないわゆる豪傑タイプの文人が途絶えたのはなぜか、という点からもいつか考察してみたいものである。 しかし、面白いのは、小林秀雄さんを批判する坂口安語の側もまた、脱構築的実存主義的な視点、言い方を変えれば、型のないのが型だというような見方から批判しているところが興味深い。つまり、小説も思想もやはり型あってこそのものだということを坂口安吾は十二分に承知していたのではないだろうか。その点を小林秀雄さんに投影しつつ、どうあるべきかを模索し、もがき苦しむという点において、このような批判をしながら独自性を確立していこうとしたというようにも見える、というのが私のこの文章を読んでの感想である

2014年7月27日日曜日

小林秀雄の『徒然草』にある謎掛けについて

どうしてもこの人には及ばないな、思う人が居て、私は小林秀雄という人がその人に当たる。

日本文学が濃厚たる禅の思想に基づいており、かつその思想自体の存在すら消そうとしてきたことはすでに周知だと思うのだが、私はこの時代においてあえて、その痕跡を白日の下にさらすことを敢えてやってきた。

因みに小林さんのお墓は、北鎌倉の東慶寺にある。東慶寺は元々は格式の高い縁切寺としても有名なところであったが、明治期の混乱で臨済宗円覚寺の末寺となった。大変良い場所らしく、鈴木大拙をはじめ有名人のお墓も多いようだ。だから、お墓の場所と禅宗との関連は良くは分からない。関連がないと言えないという程度なのかもしれない。

死ぬまでにお墓参りを済ませたいと思っている。だいたいが油断したために、スッカラカンになりこの有様であるから、情けない限りだ。先ずは、小林さんのお墓参りを済ませておくべきだった。療養を優先したことが間違いだった、というのが、ここ数年来の苦い後悔である。ベルクソンさんのお墓は遠すぎて一生行けないだろうから、せめて、今年は無理でも来年、仕事の閑散期には行けるようにしないといけないと思っている。

どうでも良い話しばかりしてしまったが、小林さんには、禅の公案のような問いかけがいくつかある。たとえば、ソクラテスのデモンは、どうしてソクラテスの行動に禁止しか指示しなかったのか、という指摘などである。

もう一つ有名なものが、その評論「徒然草」にある。兼好法師の筆法をモンティニュになぞらえ、また、

『 あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見そうは見えないのは、彼が名工だからである。「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」、彼は利き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分の事を言っているのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが「徒然草」の文体の精髄である。』

(※ 引用文中の「」と区別が付きやすいように引用文には『』を用いている。以下同様)

と評価する。そして、最後にこのように終わる。

『鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例を引いて置こう。これは全文である。「因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容美しと聞きて、人数多言ひわたりけれども、この娘、唯栗をのみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、斯る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」(第四十段) これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか。』

上記の引用文中にある、兼好法師の徒然草本文(第四十段)の意味は、

「因幡の国(現在の鳥取県に含まれる)に、何とかの入道という人の娘が大変美しいということを聞いて、求婚者が数多やってきたけれども、この娘、栗だけを食べて、米の類を食べない。このような異様な人間は、他人様に嫁がせるわけには行かないと言って、親は結婚を許さなかった」

と言うことになるだろう。

因みに、徒然草には、このような少し不思議なお話が他にもあって、たとえば、大根を万病の薬であると信じて毎朝二本焼いて食べていた人の家が警備の者の留守に敵に襲われたときに、屋敷のなから見知らぬ兵士が二人出てきて家の危機を救った。礼を言ってどなたか訪ねたら、日頃あなたが信じて食べている大根ですとだけ答えて去った、というお話(第六十八段)も載っている。

さて、栗娘の話に戻るが、これは一つの禅で言う公案であろうと思ったとき、それぞれに解き方が出てくるだろう。兼好法師も小林秀雄さんも黙って死んだのだから、黙って死ぬべきか。

そうも思ったが、凡愚きわまりない私が多少のことをしゃべったところで、中るとも限らず、中っていれば、後世多少の名誉でも残るかという欲もあって、くだらないおしゃべりをしてみようと思う。

小林さんは、この分が鈍刀を持って彫られたと言っている。と言うことは、我々がまず目が引かれる、娘が栗しか食べなかった、というところは、レトリックの部分であり、主要でないとみる。大事なのは、そのあとで、「斯る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」というところであろう。こんな異様の者が結婚して幸せになれるわけがない、という親心が大事だと言っているのだろう、ということが分からなくてはならないと小林さんは言っているのだ、と私は考える。そうするとこの小林秀雄さんの評論「徒然草」の内容は一続きに通じる。私はそう思うのである。








2014年7月14日月曜日

ノーム・チョムスキー「複雑化する世界、単純化する欲望」を読んで

チョムスキー()は高名な言語学者であり、また、近年はその世界的なリベラル知識人としての名声もようやく日本でも知られるようになってきた。

私も今回初めて、言語学関係でないチョムスキーの本を読んだのであるが、インタビュー形式であるということ、豊富な注釈とによって、多岐にわたる複雑な社会問題において論じたものとしては、かなり読みやすいものであった。地球環境と経済的活動が相反することやアメリカ政府の支出が経済活動に大きな役割を果たしているという点、すなわち、経済的な欲望がもたらす側面とそれに対する合衆国政府の影響力の大きさを指摘し、第二次世界大戦以降、長らく国際的に支配的な地位を占めてきたアメリカの行動、たとえば、環境問題ほか、国際情勢、特にイラン核燃料問題とアメリカの大学の果たした役割や戦争、核の脅威、宗教問題、中国の台頭に対する軍事的措置などの様々な社会問題に、長く勤めるMIT教授としての大学人としての視点から、アメリカ社会の抱える矛盾を示しながら鋭く切り込んでいく。

過去、日本でスキャンダラスなほど過激に伝えられたリベラルとしての主張の印象は、その主張がすでに消化されたものであるからか、さほど強い印象はもたらさず、この本のもう一つの特徴である、後半ほとんど占める補遺による資料提供は、その内容をより正確に伝えようとしており、そこにも強い印象を持った。

(※ のリンク先はWikipedia、「ノーム・チョムスキー」の項を参照しています)

2014年5月25日日曜日

これに時間があるときに書き足したり、推敲したりする実験

世間は相変わらずの身勝手ぶりで 正義の味方のそぶり

テレビはデジタル化され つまりは 劣化しない画像と映像 しかも 中味も変わらず ただチャンネルの番号までも 東京と同じになった 欠番を残しながら

パネルの映すきらびやかさと対照的な生活 マンガ アニメ ヒーロー番組 映画やドラマ その他の主人公たちと同化するかの如く ツライゲンジツから目をそらせるための果てしないいじめ 動物のマウンティング いじめのための口実を提供し続る惨めさ

衆愚社会と大衆民主主義 どこの国でもナショナリズム

EUは人権条項を日本とのEPAの条件とした しょせん日本などということだ 人権において遅れた国 女たちは圧力をかけてくるが しょせんそれは何かの裏返しにすぎない そして男たちも そろって 未だに士族だとかなんだとか どこかの国が戦勝国がどうの言うような 同じようなことばかり言って 戦争に負けたことも知らんぷりにして

結局まだ容疑者だろう 有罪じゃないんだろう いくら有罪率が高くったって100%じゃないんだろう 誤認逮捕で人生狂った人間いっぱいいるんだろう でもほとんどの人にはそんなことはどうでもいいんだろう マスコミも商売さえできればいいんだろう 日本はやっぱり人権で遅れた国だろう いじめでお金儲けて国からも表彰されておけばいいんだろう

世間と世界はそんなもの

ご飯のマナーは気にするが どれだけ危険でも自動車の運転のマナーなどどうでも良い 要するに自分さえよければ 自分の気にいるかいらないかだけの問題だけで 自分だけがかわいい

可愛いは正義 ふふ 言葉とはおかしなものだ  正義とは何だ そういう問いかけはどこかに行き 可愛いにおいてすべては正当化されるという事物の断定に快感を覚える

抑圧されたかわいい 自分がかわいい 幼稚な若い女性の見かけによる差別化をはかる一種遅れた価値観

しかし 一方でかわいいは正義という断定のおもしろさには逆らえない なぜか を問いかけることはせず ある価値観で断罪することは正義か

子猫はカワイイ カワイイは正義 何でも許される でも 人間は ネコじゃない

誰かのためらいを後押しする カワイイは正義 それは優秀な宣伝文句

しょせん観念というものにおいて 我々の躍動する言葉の瞬間は固定できない そう擁護することは可能 いや 遅れた世界においてそれはたんに幼稚語のカワイイに過ぎず 遅れた我々は幼児のように面白がっているのだ という断罪がやはり正義か

正義とは平等の別名という 「目には眼を歯には歯を」命には命を 死刑は復讐であるかないか 国家が命を取ることは是か非か しかし 不条理にも奪われた命は奪った人間のそれより軽いのか なぜ被害者は加害者より常に我慢をしいられなければならないのか その疑問は野蛮だと言われるだろう 近代国家とはやりきれないものだ






2014年4月6日日曜日

人で無しのための計算機理論入門 その10 プログラムの基礎 その4 地味だけ ど大事な論理式


さて、とうとう10回目になったこの「 人で無しのための計算機理論入門」。一応、情報機器を使用したり、それ以上にプログラムさえ書いたりして使いこなしたりする上で、基本的な事項をきちんと押さえておくことがいかに大事かということをお伝えできたと思います。ほら、基本理論て意外に大切でしょう?ということです。
 
これ以上のことを説明し出すと、非常に専門的になりすぎて、普通の人が知っておけば便利だな、という内容から少し遠ざかってしまうことになりそうですので、一旦ここで、この「計算機理論入門」は区切りをつけさせていただきたいと思います。これまで読んでいただき本当にありがとうございました。
 
さて、その記念すべき最終回は、やはり地味に基本を押さえていきたいと思います。
 
以前、二進数とブール代数(論理式)について、「P=NP?問題の覚え書き」というブログの「 充足問題について その前に」という記事で、割合詳しく述べさせていただきました。
 
ここでは、分岐に欠かせない、論理式について、もう一度復習をしておきたいと思います。
 
ところで、「その7」でCPUは、

 0(ゼロ)フラグ:計算の結果が0の時に1、そうでないときは0
 マイナスフラグ: 計算の結果が負の時に1、そうでないときは0
 
というフラグを立てる、というお話をしました。
 
こういう風にフラグというもので計算結果を出したあと分岐をするということは何となくおわかりでしょうが、複数の条件が重なった場合の分岐はどうするか、ここで、論理式というものが必要になります。
 
たとえば、「もし、毎年4月はじめの日曜日 晴れだったら花見実行のメールをメンバーに出す だけど 雨が降ったら中止」というプログラムを書きたいとします。
 
いくつかの表し方があるとは思いますが、たとえば、
 
 ・Dを日付型の変数と定義
 ・Dに今日の日付を記憶
 ・Dが
   4月であるか?
    かつ
   最初の日曜であるか?
  をそれぞれ調べるサブルーチンを呼び出し、
  条件を満たせば、次へ進む。
  そうでなければ終了
 ・天気は晴れ? =>花見メール
  天気は雨?  =>中止メール
 
というように要素を分解して表せば計算機のプログラム的になるのは分かりますよね。(その他の天候の時は空気を読めということです。空気読むのは日本人として大事ですよ、ほんとうに。それができないから(ry)
 
ところで、上の例で条件による分岐のところで”かつ”という言葉が出てきました。少し抽象して
 
 条件Aを満たす
 かつ  
 条件Bを満たす
 
というのは条件Aと条件Bが両方満たされて初めて次に進めるわけですから、ある条件を満たしたとき立つフラグを1それ以外を0とすれば、
 
 条件Aのフラグ     0  1  0  1
 条件Bのフラグ     0  0  1  1
 AかつBをみたす?   0  0  0  1 
 
となり、かけ算したときの計算の結果と同じです。これを論理積と言い、その筋の学問の記号では∧と表します(集合の積集合の記号∩に似ていますが、0か1の2値しかないので、どちらかに決まるということで尖っていると思ってください)。
 
また、同様に「または」、というのもありますが、表にすると
 
 条件Aのフラグ     0  1  0  1
 条件Bのフラグ     0  0  1  1
 AまたはBをみたす?  0  1  1  1
 
となり、かけ算したとき計算の結果と同じです。これを論理積と言い、その筋の学問の記号では∨と表します(∧と同様に集合の和集合の記号∪に似ていますが、はやり、論理式では0か1の2値しかないので、どちらかに決まるということで尖っているわけです)。
 
他に、もちろん、否定(記号:¬)と言うものもありますが、これは
 
 条件Aのフラグ     0  1
 条件Aの否定      1  0
 
と、わかりやすいです。
 
こういう数式を扱う学問にブール代数というのがあるのですが、言語の中には0をFalse、1をTureと表現する、ブーリアン型というのがあります。これはブール代数からきているわけですね。
 
だから、プログラム言語によっては、分岐の条件の部分で0以外の値にすればとすれば常に真と判断するという言語もありまして、慣れないととわかりにくいバグになりますから、気をつけてくださいね。
 
以上です。
 
最後まで地味なこの講座にお付き合いいただきまして本当にありがとうございました。まだ、葉桜の咲くこの時期にこうして一つ書き物を終了させることができたことを本当にうれしく存じます。
 
つたない講座でしたが、何とか終わらせることができましたのはみなさまのご声援と叱咤激励の賜であり、繰り返しになりますが、心より感謝の意を表させて頂きます。
 
                             平成26年4月吉日

2014年4月5日土曜日

人で無しのための計算機理論入門 その9 プログラムの基礎 その3 使い回して効率を上げよう

がんばるためにがんばる、そんな訳の分からない状況で、貧乏なのに国のためにボランティアをやっている、なんだか訳の分からない私。しかし、「世界市民のみなさん。アメリカがあなたのためになにをしてくれるかではなく、人類の自由のために共になにができるかを考えようではありませんか」とは故ケネディ大統領の有名な演説にもある通り。少なくても今までこの国でも人権さえも無視されてきても、ホモサピエンスには違いありませんので、気持ちだけでも人類の自由のために微力を尽くそうという次第。
 
※ ところで、一つ訂正があります。「その3」にて、C/C++、Javaなどの高級言語のことを関数型と申し上げていましたが、オブジェクト指向型と申し上げるべきでした。お詫びして訂正いたします。ブログの方の記事においては訂正済みです。
 
さて、今回はサブルーチンについてお話しします。
ある程度プログラムが書けるようになって、いろいろなプログラムを書いているうちに、あれ、これってどこかで同じプログラムを書いたな、とか、この部分は他でも何回も使うんだけど、いちいち同じことを書いたりするの面倒だな、という気になってきますよね。
そういうときに、その部分だけを独立させて使い回すことをサブルーチン化すると言います。考え方としては、木の幹、いわば幹線的な処理を行う部分をメインルーチン、そこから呼び出されて様々な専門的に特化した仕事を繰り返し行うところをサブルーチンといいます。

以前、「その7」で説明した、フローチャートの記号は以下のようになります。


現在主流のオブジェクト指向型言語では、サブルーチンの処理をクラス(class)として、独立させることが主流です。
 
どのように独立させるかというと、
 
 1.サブルーチンの中で使用する変数とその中で行う処理を
   他から影響されない一つの独立した組にする。
  (カプセル化)
 2.似たようなサブルーチンは、同じクラスの中で、
   異なるメソッド(method)と記述し、呼び出すときは、
   [クラス名].[メソッド名]のようにして呼び出す
 
といった感じでしょうか。ちなみに、クラスの中の変数にも、
 
   [クラス名].[変数名]
 
という感じで呼び出せるものもあります。(呼び出せないものもあります。これについては後述します)
 
このような、
 
 [クラス名].[メソッド名]や、
 [クラス名].[変数名]
 
で呼び出せるものを、メンバ(member)と呼びます。3年B組の誰々さんを呼び出すのとちょっと似ていますよね。
 
一般にクラスの中だけで使う変数や、サブルーチンなどは、プライベート(private)と分類され、クラス外側から見えないようにします。クラスの外側から見えてもいいものをパブリック(public)に分類します。
 
このあたりのことは、言語の仕様にも依る部分があるので、詳しくはその言語の使用をよくご確認下さい。
ただ、プロセスが分かっていると、クラスに関しても何となくよく分かりますよね。
 
さて、このように、誰にだって、(コンピュータのプログラムにだって!)プライベートはあるんです。私にはありませんけど……。

2014年4月3日木曜日

人で無しのための計算機理論入門 その8 プログラムの基礎 その2 変数とメモリの関係

もう書かなくて良いのかと思っていたら、なんだか書かないといけないような雰囲気。四月バカであるように祈りたいです(この部分は4月1日に書いています)。しかし体調はいまいちなんだけどねえ。また使いつぶされてる為の陰謀じゃないのか、と半分本気で疑っている現在。みなさまどうお過ごしでしょうか。

(※4月3日注記 などと書いていたら4月2日のニュースで、オバマ大統領の訪日決定しそうだとあり、かなりビクビクているところ。私なりに大急ぎで仕上げたのは言うまでもありません)

さて、分岐ができればループができるということは前回の図でもおわかりいただけるのではないかと思います。

となると、他にいくつかの予備知識が有れば、もう、プログラムも書けるんじゃないかな、と思うでしょう。かけると思うけど、世の中そんなに甘くはないけど、結構甘い。どっちなんだ。

あと二つ、いや、三つかな、お話しすれば、関数型と言われる言語であれば、そこそこなプログラムは書けるになると思います。多少、経験は必要でしょうが。

まず、前回のフローチャートで、変数を使っていますが、意味的にはおわかりいただけたでしょうか。
 
たとえば、

  i=i+1

などというのは、計算機プログラム上よく出てくる表現ですが、これは、もともと、計算機のメモリのある番地の内容を変数iとして使用しますよ、ということから出てくる、一般的な数学では見かけない表現で、要するに変数iとして割り当てられたメモリの内容を1増やしなさいということを計算機に指示する表現です。

 この命令は、計算機内部では、メモリの内容をCPUのレジスタに読んでそのレジスタの内容を一増やして、もとのメモリの番地に書き込むという作業が行われるわけですが、それ以前の重要な問題がありますよね。

すなわちまず、ある変数をメモリに割り当てる、という命令がたいていのコンピュータ言語では必要となります。(Rubyという言語では勝手にそのあたりの空気を読んでこっそりとやってくれたり、それ以外の言語でも、統合開発環境と呼ばれるプログラム作成用のアプリケーションソフトを使えば、プログラムの作成中に指摘してくれたりもするようですが)たとえば、C/C++と言われる言語であれば、

 int i;

と、変数を宣言します。これは、C/C++言語では「変数iを整数型の変数として宣言します」と言う意味ですが、実際のプログラムの実行上はメモリのある番地に整数の変数iの内容を記憶する領域を確保して下さいね、と言う意味です。(なんだかちょっとプロセスというのが分かってきたでしょう?)

つまり、プロセスというのは、プログラムが実際CPUで実行される形式(これを機械語、あるいはマシン語とも言います)で表現されたプログラムと、このような変数の為のメモリの領域が確保されたものということです。

さて、プロセスが分かっていただいたところで、この節での大きな一つの目的は果たしたわけですが、せっかくだからもう少しプログラムを書く上で重要なことを説明しておきましょう。ここからは少しややこしくなりますので、分からなくてもかまいません。しかし、知っていると、後々プログラムを書く技法上でのいろいろな悩ましいことがらでスマートに解決できる、という点で違ってきますので、一応説明します。

上記の例で、変数iをメモリのある番地の内容とすることにしました。ところで、その変数iの内容がどの番地にあるかということをどこかに記憶しておかなければ、高級言語から機械語に翻訳するときなどで困ります。

C/C++言語などで言われる、いわゆるポインタというものです。

たとえば、変数iの内容を変数jと同じ内容にしますということを行うときに、我々は変数iが変数jと同じになればいいんだから、たとえば、

 i=j

と表現すればそれで良いと考えますが、しかし、よくよく考えるとコンピュータでは、実は基本的には二種類のやり方があって、
 
1.変数iと変数jの内容を記憶するメモリの領域を
  別々に二つ確保して、変数iの内容を変数jと同じにする

2.変数jの内容を記憶するメモリの領域を一つだけ確保し、
  変数iは、変数jの番地と同じ番地を参照するようにする

という、非常に微妙な話があります。

1.を「値渡し」あるいは「内容渡し」、2.を「参照渡し」もしくは「ポインタ渡し」と言います。

一般的なコンピューターの高級言語は、変数と変数において「値渡し」であり、「参照渡し」は特別な指示をしないとできなかったり、そもそもサポートしていなかったりしますが、次回説明する予定のサブルーチンに値を渡すときに、言語によって元々の設定が「値渡し」か「内容渡し」かが異なりますから注意しておかないといけません。

「値渡し」であれば、たとえば、上の例では、
 
 i=j

としたあとは、それぞれ独立した変数になりますが、「参照渡し」であるときには、iの内容だけを変更しようとしてjの内容まで変更する、ということが発生しますからね。

このあたりは本当にややこしくて、注意していないとバグ(コンピュータプログラムが考えているとおりに動かないときのミスをバグが紛れ込んでるという言い方をします)としても発見できにくいバグになりやすいので、「値渡し」か「参照渡し」かは、少しプログラムが書けるようになってきたら、で良いですので、いつも気をつけておいて下さいね