2012年1月11日水曜日

二源泉読書メモその4 開いた魂

情緒と創造性の関係をのべたあと、ベルクソンは道徳と情緒の関係性を語る。道徳には二種類あり、社会を維持するのに必要な自然法則にも似た道徳と、創造性にも通じる情緒から来た道徳。ここでは仮に後者を真の道徳と言っておくことにしよう。 真の道徳を持つものの行為は、英雄的行動となる。しかし、その英雄的行動というのは、ただそこにいるだけなのだ。それだけで、周りにいるものは真似をしたくなる。そこには物理的障害はなく、歓喜があるために物理的障害は障害として映らない、とベルクソンは言う。 ベルクソンが例をあげているのはソクラテスである。ソクラテスは、政治的に混乱したアテナイの都市国家で、対話(ディアレクティック)によって自分の考えを説いた。それが、後年、弟子プラトンによる著作によって我々にも伝わってきて、知を愛するその生き方は、現代、東洋に生きる我々をも魅了する。

この辺りは、孔子様にも似たところもあり、違うところもある。孔子様は、後年どこの国にも用いられずに、諸国をさ迷った。そこでは、聖人の業績を調べあげ、書物として残した。現実思考で、政治に携わることを望んだ。弟子達とはぐれ、薄汚れた老人として一人たたずんでいる姿も論語には残されているが、そこもまた良い。 こうして比較すると、違うところも多いが、そこにいるだけで、多くの弟子達を魅了し、現代も魅了し続けているというのは似ている。 それはそれぞれの信じたデモンや天と呼ばれるものの違いかもしれない。こうしてみると、知を愛し対話を好んだことは共通しているのだが、それぞれに信じる精霊、あるいは情緒性と呼ぶべきものかもしれないが、その情緒性の違いが、その個性となってきている気がする。

しかし、哲学というものは大変奥が深いものであるな、と改めて思うのである

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