2012年1月26日木曜日

二源泉メモその5:理性(あるいは知性)について

開いた魂と閉じた魂から開いた道徳と閉じた道徳についてについて述べたあと、ベルクソンは次に「開いたものと閉じたものの間「自己尊敬」について言及する。この二節は理性について言及されている部分と考えられるだろう。

一部引用しながら述べると、道徳においては、閉じたものとされた、純粋に静的なものが知性以下のもの(l’ infra-intellectuel)であったのに対し、開いたものすなわち純粋に動的なものは、知性以上のもの(le supra-intellectuel
)として考えらることがここでは言及されている。すなわち、前回みたそこにいるだけで真似をしたくなるという「英雄的行為」のことをさしていると考えられるだろう。

その中間は、いわば、座っている(静的な状態)と走っている状態(動的な状態)の中間であるような立っている状態であり、それが、知性そのものであるという。

古代から続く「学」と観想に基づく様な哲学は、これに相当するともいう。

これは、あとで「正義」という節で見るように、宗教が社会変革を起こし得たのに対して、知性に頼る伝統的な哲学が社会変革をなし得なかったという反省がある。

そのことについて詳しく述べられたあとに、「自己尊敬」という節では、その自己尊敬は簡単に言えば、品位という言葉に置き換えられることが述べらる。ここでの品位とは思考によって得られる倫理性と定義できる。

少し引用すれば「我々が自分のうちなる人間品位の前で頭を下げ、自己尊敬によって行動していると明言する時、我々の敬意はこの理想社会へささげられているのである」

さて、こうして、知性により、あるいは、理性により、我々は品位と自己尊敬を獲得することができるわけであるが、その人間の理性には、ある種の絶対的な性質が備わっているからこそ、そのようなことが可能になるとベルクソンは、述べる。以下引用。

「それ故、我々各人のうちに現存している理性は、我々の尊敬を強要し、その優れた価値によって我々を服従させる、と言うだけにとどめず、理性の背後には、人類を神的なものとなし、このようにして人類の本質的属性である理性に神的な性格を刻みつけた人々がいる、と付言しよう。」

0 件のコメント:

コメントを投稿