ベルクソンの「宗教と道徳の二源泉」やっぱり良く分からないところが出てくる。
例えば、聖人と凡人あるいは、家族愛、国家愛と人類愛は質が違うという記述だ。読んでいるとそうなのだろうと思うが実感として分からないのは凡人だからだろう。
しかし、「愛」が重要なのは何となく実感として理解できる。
ところで、挑発的な記事を読んだのだが、へろへろのパーなので、何にも応えることができない。古典というものの重みを事実か事実でないかということに置き換えると言うことは、自らの経験を事実か事実でないかということに置き換えることなのと同じではないのか。事実としてみれば、別の見方ができる。そういうことは良くあることでしょう、というだけの話だ。
夢の話もそうでしょう。自分が見た夢がものすごく良く当たった。でもそういう夢は少ないよね。ということとどこか等しい。科学的であることと、その人自身の経験とはやはりどこか違うわけでですね。古典を古典として鑑賞することができなければ、はやり、あれでしょう?古事記なんか荒唐無稽なわけでしょう?本居宣長が滑稽な人なんでしょう?そういう議論はしたくないのですよ。おわかり頂けますでしょうか。どうか、ご了承下さいますようお願いいたします。
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