2012年9月11日火曜日

人はなぜ将棋をやるべきか

私は、将棋が好きである。将棋が好きな理由は、人によって様々かもしれない。私の場合、単にこのような頭脳ゲームの方がスポーツより得意であったということもあった。あるいは、ポーカーのような心理的な駆け引きを楽しんでいる時もあった。でも、それ以外にいつも、何かこれを続けないといけない、という自分なりの必要性を感じていた。多分、であるが。

その必要性とは何か、今日になって改めて納得した事がある。それは、無意識的に分かっていることをきちんと論理的に表現する、ということのためにやるべきだ、と思っていたということではないか、と思い当たったのである。

手を読むとか、手が見えるという表現がある。相手がこうしたらこうするということと、見えるとか読むということは、よく似ているということを、我々は感覚的に理解してそう表現する。文章を読むということも、何かを見るということも実際は、我々は予測し記憶と紹介・照合しているということだ。そうでなければ、我々は、例えば、ものを立体に見ることができないだろう。左右の目の微妙に違う画像をどうやって認識しているのか、というベルクソンの指摘をここで繰り返すなら、そのことが容易におわかり頂けるのではないか。我々は、無意識の中で予め予測しながら物を見ている、ということと、手を読むとか手が見えるとかほとんど同じ働きをしている、ということになると私は考える。

言い直せば、物を見るということと、手を読むあるいは手が見えるということは、実は非常に近い働きをしており、意識および無意識の中でそれらを組み立てて、照合している過程が手を読むということであり、手が見える、ということは、目的とする手順が実際に見えるがごとく照合・紹介されぴったり合うと実感される、そういう過程なのだろう。

さて、このことは、実は、我々の無意識を意識的に感じる良い訓練となる。我々は、自分では分かっているけれども、他人に伝えることが難しい、という苦い経験を何度も味わう。それは、言葉や経験の不足であったりもするのであろうが、なにより、無意識で考えていることを表現する、という訓練をすることに欠けているせいもあるのではないだろうか。われわれは、慣れてくれば自動車の運転のような未だにロボットではうまくできないような事を無意識のうちでうまくやれるようになる。それほど無意識は高度な処理ができる。我々が、なにかを意識的にやろうとすれば、特別の訓練をしない限り、せいぜい、二桁、三桁の足し算引き算ぐらいであろう。しかし、多少の向き不向きはあろうけれども、自動車の運転などは、誰にでもできると言って良いだろう。

意識的にやることは、瞬間的には実に限られているのに対し、無意識的にやることは非常に複雑なこともうまくできる。これを繋ぐのが私は、将棋のようなゲームではないかと思う。

これは、言わば文章を書くのに近い。我々は、言葉を使ったり、あるいはゼスチャーで相手に何か伝える。特に文章を書くことは、逐次的に文字を書き連ね、順序よく説明をする必要があるところが似ている。さらに、数学とは違い、それぞれの単語にそれぞれの非常に特異的な役割が存在する一方で、単語単独では意味を限定するのは難しい。つまり、文脈によって単語の使われ方、意味がそれぞれ違ってくる。そういうところも将棋と似ている。われわれ日本人の多くは、将棋ができれば理系、と思い込んでいるが、実は将棋は文系の得意とするところに近い、と私は思う。

プロの将棋指しに文章の才能を持つ人は多く、最近では多くなった、有名大学への進学者のほとんどが文系の学部であるようだ、ということは、牽強付会であるかもしれないが、しかし、必ずしも理系の科目が得意だ、ということではないということもまた事実なのである。

では、しかし、文章を書けるのであれば、将棋をしなくても良い、ということにならないか。

われわれの思考は、言葉を使っている。あるいは、数学が得意な方であれば、数学という言語を使っている。それは、思考の道具としてそうなっているわけであろう。

プロの将棋指しの方はまた特殊な構造が脳にあるという研究もあるが、我々のような一般人はそれはないのがふつうであろう。

つまり、我々は、我々の無意識を意識して感じ取る訓練をするならば、思考の道具としての言葉ではないけれども、それに近いような、構造を持っており、なおかつ、その照会・照合過程において、もっとも情報量の多い視覚と同様の機能を使う、将棋を指すということは、実はかなり良い訓練なのではないか。

私のような、下手の横好きが何を言っても、将棋が好きでない方には伝わらないかもしれない。しかし、誠心誠意、私のこれまでの将棋はきっと何かに役にたつ、いや、たっている、という奇妙な確信について包み隠さずお話しさせて頂いた。

将棋に限らず、囲碁においては手談という別名があるところからもそれが言葉に近い間隔を我々は体験的に得ていると思う。将棋と囲碁は大分違うようで似ている。そのことここで論じることはしないし、囲碁をほとんどやらない私に論じる資格もないと思う。しかし、どなたかがうまく説明して頂ければ、きっと同様の事を仰って下さるに違いないと、私は思う。

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