2012年6月9日土曜日

最近考えていることの覚え書き(心の共振あるいは本能、無ということ)

たまたまだが、糸谷 哲郎という大変有望な若手の将棋プロで阪大の大阪大学大学院文学研究科に進学された方の書いたものを見ていろいろ考えさせられた。

※糸谷さんのお名前ほか間違っておりました。お詫びして訂正いたします。

なので、最近私の考えていることを少し書いておこうと思う。

・心の共振、あるいは本能について
まず、例えば正夢のようなことがなぜ起るかについて。これについては以前も色々書いているのだが、一つには共振のような現象も考えられるのではないかと最近思っている。要するに、子どもを思う母親が子どもの考えていることが分かるのは心で子どもをシミュレーションしているからだろうが、それで、子どもに起っていることまで感知してしまう、ということはまま起ることであり、体験されたお母様方もたくさんいらっしゃることと思う。それは、仕組みは分からないが何らかの共振があるからであろうと、考えている。もしかしたら本能というものも、こういう仕組みになっているのかな(それだけではないにしろ、それで説明できる部分も多いという意味で)、ということも少し考えているのというのも補足しておく。

・無について
私はベルクソンの創造的進化の後半にある無はないという一種のパラドキシカルな結論について、前々から何か少し違うなと思っているので記してみる。ベルクソンの主張するところを簡単にいえば、あるカテゴライズをする。それに合わないものに関してはなかったものとするというのが無の思想である、という指摘をしている。その通りなのではあるが少し浅薄な印象も受ける部分を指摘しておきたい。たとえば、整数あるいは実数を考える。それらは簡単にいえば正の数と負の数と0に分けられる。そこでは、正でもなく負でもないから0なのである。つまり、正と負の境目を0といっていると言って良いだろう。ここにおいて、例えば虚数があるとか、世界は数字意外にもたくさんの文字やものが存在する、などのほかになにかあるから、それは本質的に無(0)ではないといっても、少し論点がずれているといわざるを得ないだろう。つまり、無を論じているのにカテゴライズのやり方を論じているという点でおかしいと言える。もし、この世界のすべてを何らかの相反するような二つに分けたとしてその境目に無が生じる、というのがから発生しているのが仏教の無の思想だ。さらにいうと、無とすべてにカテゴライズしようというのが無の思想だ、と言って良いだろう。無と他にすべてにカテゴライズしてしまえば、境目である無も無にカテゴライズされてしまうから、たとえば、実数でいえば、0と符号のある数とに分けてしまえば、カテゴリーは二つになるでしょう?分かりますか?この発想というのが、仏教の無の思想である。つまり、正と負の境目である0を一つのカテゴリーとしてみれば、正も負も何かあるという意味では一緒くたになるのだから、それを区別するのはおかしいぞ、わかるかね諸君と仏教の思想はいっているのである。どうも、ベルクソンはその辺が分かっていなかったのではないかと思うので、少し書いてみた次第。もしかして私の方が間違っているのかもしれないが私なりの解釈を書いてみた。

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