2011年12月29日木曜日

最近考えている事・思っている事

結局、母も妹もよく似ているなあ、それも嫌なところが、と彼女らが自分でも言っていた事ではあるけれども。

愛とか恋とか無私とか道とか。ベルクソンさんの「物質と記憶」は、何度も読んでいるうちにその文体に確かに神の愛を感じるなあ、他のは実は読まなくても良いのじゃないのか、そういう意味でも小林秀雄さんは偉かったなあ。しかし、ソクラテスの神がかりは本当に面白い。道と仏教と無私と無とどう繋がるかなあ。あるいは恋と愛と、さらには道と。これが今一番悩んでいる事ですかね。

あとは、日経新聞に連載されている松本幸四郎さんの「私の履歴書」が本当に面白い。非常に勉強になります。続ける事は本当に大事ですよね、と心から思いました。

あとは少し大事な事を何か考えていたけど忘れたなあ。今日はよい天気で、昼寝にも良いなあ、大掃除夕方からにしようかなとか下らない事を今感じています

ああ、思い出した。iPhoneには愛と思想を感じるなあということだった。Appleについてはもう一つ大事な事をずっと以前に思いついてはすぐに忘れたけど、それはまあ良いか、どうしても思い出せないし。




2011年12月28日水曜日

家庭教師の事

今日、アルバイト先の家庭教師先に、少し早く伺いたいと連絡しようと思ったら連絡がつかない。なんだろう、先週ずいぶんお説教したからなんかあったかな、などといろいろ心配しながらも行ってみるといたずら電話がひどく電話から電話線を外しているとの事だった。

帰りにコンビニに行けば、コンビニではどっか見た事のあるような顔のお兄さんがニヤニヤしている。ははーん、なるほど、と思った。人とはなかなか想像力の発達した生き物であるな。

私が今、家庭教師をさせて頂いている家庭は中学3年生の受験生の男の子の指導だがの経済上の都合から、月に3回、各1時間の予定で指導となっている。しかし、受験生の上、隔週の指導になる事も多いので、その場合2週分の指導をして、その間の宿題を出す事となる。

どうしてそこまでしないといけないかというと、もともと、小学生の時からアレルギー体質で学校を休みがちだったため、基本的な学力が著しく不足しているため、まず、指導しないと予習という事からすでに難しいのである。なので、隔週になるような時は2週間分の指導をする事になる。それで、復習してもらった事を確認するのだが、それにも時間は掛かる、というのは、たいていの方にも想像がつくと思う。

確か9月から指導となったのだが、中学一年生の初めの部分からやっている。受験にも役にたつだろうが、高校に入ってからまた、学校の勉強について行けないと今度は退学になるだろう。そういう高校に入ってからの事も考えて一生懸命指導しているのである。

また、月末になると、指導報告書を書かないといけない。今年は大震災や原発事故があったせいもあって、どこの中学三年生のお子さんも勉強しないそうだ。そういう勉強しないお子さんを抱えてるお母様の悩みというか一緒に勉強するように強く説得する事もたびたびある。全く手間暇が掛かるわけである。


しかし、わたしにもいくらかのメリットはある、中学生ぐらいの人がどのような事を考えているかという事は、私のブログを書く時にも参考になるし、指導書を見ていて改めて参考になる事も多い。また、うちから遠いところなのだが交通費もバス代換算のためかやや多めに頂いている。時給の半分強となっている。つまり、時給の1,5倍の収入があるわけだ(勿論私の車のガソリン代は別途必要だが)

何隠すことなく書いた。受験生のお子さんのいるご家庭に、いたずら電話など、馬鹿な事はお止めになるようにお願いしたい。




2011年12月26日月曜日

美を求める心と万葉以前


美を求める心」という小林秀雄さんの講演を元にした評論に、こういう言葉があったと記憶している。

「すみれを見て、そのすみれの美にじっと向き合うことは難しい。大抵の人は、ああ、すみれか、と思ったらすみれを見ることをやめてしまう。美に言葉は邪魔なんです」

文字を使うようになったわれわれは、文字がもたらす観念の世界に生きている。すみれをみてすみれという観念を思い出せばそれで十分なのである。しかし、美とはそういうものではない。すみれをじっと見続けることに我々の唯一無二の体験があるだろう。そのすみれは、すみれという観念の元に括られるだろうけれども、そのすみれはわれはれがじっと見続けることで、われわれに一期一会と言うべき唯一無二の姿を見せるだろう。それこそが本当のすみれの美しさというものであろう。その姿は互いに生きているがゆえにもう二度とは見ることはできない。そこにはスミレの現在の姿と共にわれわれ自身が映し出される。

「美に言葉は邪魔なんです」という言葉をもう一度味わって欲しい。われわれは、言葉に支配されて、あらゆる観念を自由に使いこなしているようで実は観念の制限するもとにしか物事を見てはいない。

これが、万葉以前、古事記の神話の世界を理解しようとするときに最も重要な概念、というよりむしろ行動と言った方が正確であろうが、であり、文字を使うことによって、そこでわれわれが失ったものなのである。

2011年12月21日水曜日

小林秀雄の「道」


最近も様々なストレス要因に悩まされているのですが、その大きな要因の一つに、まだ何か隠しているんだろう、と疑われる事があります。私は何も隠していないのに。それは、見ていれば(そして見ているはずなのに)分かるはずの事だと思うのですが。

そのことについて、いろいろ考えていました。私のようなしょっちゅう大小様々なミスをやる田舎者と「間違わない」という事を重視する文化の違いか、言い方を変えれば「とんこつラーメン」と揶揄される私の行動か、「醤油ラーメン」に象徴されるような、粋な文化かの違いなのか、という事を考えていました。

そういうことも否定はできないかもしれないと思います。しかし、私のやり方として、振り返って思うのは、無心に考えていれば、何かこういうものがあるのではないかなあ、という着想が得られ、それが結果までたどり着くと、として学問の道に沿って歩いていたという事になるのではないか、と思うのです。それが、小林秀雄さんの「無私の精神」であり、学問の「道」ではないかと思います。

小林秀雄さんの作品の集大成は「本居宣長」であり、そこには、小林秀雄さんの学問の道というものが詳細に描かれている、と私は今日、いろいろ考えている時にはっと気付きました。(なので、所用で外出のあとしんどいけれど、今書いています。)だからこそ、アレはまるっきり全部読み通さないと分からないものでもあります。と、私は、自分がそのことを言いたかったけれど、今までうまく言えなかったという事にほんのつい先ほど気が付きました。

くどいようですが、小林さんの著作を読み返したりしてこの考えの考察をするということをやっていない以上この考えは十分ではないであろうけれども、私が基本的に隠し事はしないと証明するためにも、今書いています。

つまり、言い換えれば、まだほんの思いつきの段階で書いているのですが、それはそれとして、何処まで思いついているか、という事も書いて皆さんにわかって頂きたいとも思っています。

ここまで、「小林秀雄の学問の道」というもの、そしてその集大成が「本居宣長」であり、それを通読しない限り、小林秀雄さんが本当に残したかった「学問の道」の軌跡は分からない、という事についてふっと気付いたという事を述べました。実は、このような事を書いてある作品が、小林秀雄さんの「モーツアルト」の評論ではないかと思います。私は、楽譜がきちんと読める人間でもないし、モーツアルトの膨大な作品群を詳細に調べたなどという経験もないので、ではないかと思います、という事になってしまいますが(そして、それは、この文章の性質上、仕方なくやっている事をご理解頂きたいのですが)、私は、小林秀雄さんがモーツアルトの天才は才能ではない部分にあるということで、モーツアルトの手紙からこのような分を引用してた、という部分を記憶によって書きます。(記憶によるのも、この文章の資料的な意味を重要視するためで、調べようと思えば調べられない事はないのですが、敢えて調べずに書きます)

「自分の才能があるとしたら、それは一度思いついた曲を忘れない事にある。曲はあるとき一遍にわき出してきて、それを忘れない事が、私の才能になっている」

以上のような事を小林さんはモーツアルト手紙から引用していたように思います。(繰り返しますが、この文章の資料的な意味を重要視して、記憶のみに頼って書いています)

小林さんは、『天才には天才すら容易に思える時が来る、ゲーテは「天才とは努力しうる才能の事だ」、云々』、と「モーツアルト」の中に書かれていたと思うですが、このことは、端的に小林秀雄さんの「道」を示す部分だと思います。(ちなみに日本では、この部分はかなり有名となり「天才とは努力しうる才能の事だ」というゲーテの言葉は小林秀雄の言葉だと多くの人が思っていたくらい。

(実は、生半可に読んでいた時の自分もそうでした。これをきちんと指摘したのは谷沢栄一(Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%B2%A2%E6%B0%B8%E4%B8%80))

さて、私の思いつきを端的に書いたのですが、これが「道」として証明されるには、小林秀雄さんの「本居宣長」の解説をやる事によるでしょう。正直、様々な案件が溜まっており、また、私の将来が不透明である以上、いつになるか分かりませんが、いつかこの道すなわち、学問の「道」というものをを証明できれば良いなあ、と思います。

あと、最後にこういう文章を残しておきます。ここまでの文章も含めた、本居宣長の解説の前書きになろうか、という部分です。(勿論思いつき)

『小林秀雄の『本居宣長』を解説する事になった。非常に重荷であるが重い荷を運ぶ役を今度は自分が仰せつかったのであろうとあきらめて書くのである。ここには様々な要素が詰まっている。その最大のものは「学問の道」であろう。『道』というのは文字通りの意味で、そこを辿っていさえすれば、野っぱらや山の中で遭難するような事はなく、いつか目的地にたどり着く、という意味だ。何処にも道は通っている。学問においてもその通りなのであり無心に「如何にせん」と問うていれば、必ず『道』は見つかるのである。「本居宣長」には、小林秀雄の無心の問いとその通った道のりが描かれている。それは、「本居宣長」という人の一生を描く事でしか表現できなかったという道なのである。今回の解説では、心脳問題の中心的課題である二心論の重要なポイントがまず初めに書かれている。これが、こうではないか、という小林秀雄さんの着想だ。無心に問うた結果、こうではないかという結論が得られた。そして、「学問の道」に沿ってその「道」自身を描きながら、その思考の行程を見せている。そのことを読者に十分に味わって頂くという事が、私のこの重い荷を背負って辿る文章の目的となるだろう。』

以上、何一つ隠さず書きました。ずっと問うている事がこの文章という結果になっている事をどうぞ、私の誠実さとご理解下さいませ。

2011年12月23日−追記

小林秀雄『モーツアルト』より、より正確に引用すると、以下の通り(ただし難読と思われる漢字はひらがなに直した)

「天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、ほとんど理解されていない。努力は凡才でもするからである。しかし、努力を要せずに成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもそうあって欲しいのである。天才はむしろ努力を発明する。凡才が容易と見るところに、何故、天才な難問を見るという事がしばしば起るのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだという事になろう。自由な創造、ただそんな風に見えるだけだ。制約も障碍(しょうがい)もないところで、精神はどうしてその力を試す機会をつかむか。どこにも困難がなければ、当然進んで困難を発明する必要を覚えるだろう。それが凡才には適(かな)わぬ。抵抗物のないところに創造という行為はない。これが、芸術における必然性の意味でもある。あり余る才能も頼むに足らぬ。隅々まで意識され、何の秘密も困難もなくなって了(しま)った世界であってみれば、、− 天才には天才さえ容易とみえる時期が到来するかもしれぬ。モツァルトには非常に早く来た』



2011年12月14日水曜日

本当にどうしたらいいのか分からない。

今やっている事はできるだけ続けていこうと思っていますが、やっぱり生活というものもあるわけで、さらに、その生活のための働き口がどうにも見つからない、となると本当にしんどいです。もう、出るのは愚痴だらけ。きょうなんか、SNSにも、ローカルの日記にもどれだけ愚痴を書いたか分からない位なのにまたここでも書いているぐらい。本当に苦しいです。 仕事を始めるとなると、今までやっていた事も、もう続けていくのは難しいかも。そう考えると、せめて、ベルクソンの物質と記憶メモだけは、なんとかケリを付けておきたいとは思っているのですが。どうしたものか。本当にどうしたらいいのか分からないような状況。

2011年12月13日火曜日

TwitterをやめたかわりにGoogle+のストリームでつぶやいています

Google+というSNSは御存知でしょうか?わたしは最近そこのストリームでつぶやいている事が多くなりました。公開しているストリームはGoogle+に入会されてないかたでも読めます。
https://plus.google.com/u/0/115531123311454646785/posts

最近はスマートフォンも普及し始めているために、Googleのアカウントを持っている方も多いと思います。Google+に入会したというかたは是非私もサークルに入れて頂くとうれしいです

2011年12月12日月曜日

少し外に出てみました

ハロワにも行ったけど、これといった仕事もなく、元々求職回数が多いため、以前に求人に応じた会社だったりとかも多く、また、今度も続かないようなところに行っても仕方ないと考えるとなかなか難しいものがあります。贅沢言っていますかねえ。結構、期間採用のものにも応募してはいるんですが、ことごとくダメだったりとか。期間採用で働ける事を証明して、という考えも難しそうです。

そういうわけで、なかなか仕事は見つからず、どこかで少しだけでも本を読もうかと思ったのですが、最近、あそこのマック人が多くてねえ、とかいう事もあり、体調も優れない事もありコーヒーだけ買って帰ってきました。

なかなか難しいですね、何もかも。

本当にもうなんと言うべきかも分からない

普通に考えると、とっとと就職すべきなんだけど、
その就職先すらなかなか見つからないと来れば、
まあ、鬱でやめて6年も仕事してなければ当たり前なんだけど、
本当に、もう行き詰まって、どうしようもない状態。

今日も、体調は今ひとつで昼過ぎまで横になって
今少し食べ物を食べた。

本当に私が何をしたんだろうね。
暴走族とか様々なデマで苦しめられ、
ようやく鬱も治ってきたと思ったら、
仕事もないし、体調も悪くなるしで。

もう本当に愚痴しか出ません。
しんどい。世の中全部が私を苦しめようとしているのか?
という気にすらなってくる。もしそうなら自業自得な面も
大いに思い当たるが、ここまでされるほどの事なのか?
とも思うし。ほら、デマとかの部分ね。で、いま仕事もないと。


そういう愚痴の繰り返しループ。
今日は晴れたからな、少し外に出た方が良いかな。
気は進まないがハロワに行くか。

2011年12月11日日曜日

色々ありますが、明日からも頑張ろう。

どうせ言っても仕方ないので、長いものには巻かれろともおもうのですが、言いたいこと言っておこうと思います。

いいときに他産業のことを見下し(テレビポーンなど)、悪くなったら、税金の補助とか減税だとか要求する。上から下まで嫌がらせも平気でやる。そういう、傲慢で不遜なところが、自動車産業の人たちが気に入らないところです。客も見下しているのがみえみえ。本当に嫌いですね。

今日は、あまり食事もとらず一日寝ていたわけですが、本当に気分の悪いことばかり不思議に起こるわけでね。なんでこうなんだろうと思うと、やっぱりこういう性格なのかなと。自分では思うわけです。

こんな軟弱なのに、言いたいことは言うもんだから、良いターゲットになっているのでしょう。本当に吾ながら、おかしな人間ですよね。

とりあえず、元気も少し出てきたし、気持ちを切り替えて明日からは頑張ろうと思います。

なぜ電子部品は海外製か

2011年12月10日土曜日

ツイッターやめました。

ツイッターは便利だけど、記録として後で振り返るのはちょっと不便だと最近思っていたところに、昨日の書き込みでどうにも、お気に召されなかった方々も多くいらっしゃったようで、ちょっともう本格的に参ってしまいました。

というのも、最近余りよく夜眠る事ができなくて、昨日は少し寝付きは良かったけどいったん起きたあとなかなか眠れないなどあって、少し参っているところに、この寒さ。で、お気に召されない方々からのパンチ()

どうにもこうにもですね、やる気を無くしてしまいました。何かがぷつんと切れた感じと言えばいいですかね。

というわけでこうやってブログに戻ってきて、いろいろ書こうと思うわけです。

別に、みんなが脳科学の産業に移れというわけではないんですよ。たとえば、価格競争が厳しいものは、人件費の安いところに移していき、日本では、価格競争力のあるものを、という事がベースとしてあるわけです。

もう一つは、年を取って退職して、でも、お金でお金を増やすという事に乗り遅れた時にですね、それでも皆さんは賢くて、お金でお金を増やす事も国益にかなうけどなあ、という時にですね、やっぱり、自分が知ってる事に投資するのが一番良いじゃないですか。そういうことも考慮に入れた上での提案なんですけどねえ。

はあ。本当に参りますよ。いろいろ質問して来るなりなんなりすれば良さそうなのに、いきなり中指をたてられるような真似をされるとですね、こちらとしても、精神的もどう反応するべきかという点においても困るわけですよ。

今日は本当に疲れ果てました。

2011年11月4日金曜日

P=NP?問題で計算量が減るもう一つのパターン


以前、このブログのP=NP?問題の証明のもっとも肝心な部分についての考察という記事で、計算量が著しく減るパターンとして、{{a,b},{a,not(b)}}={{a}} (SAT形式で記述)というものを挙げていましたが、ほかに、{{a,b},{not(b),c}}={{a,c}}というパターンがある事に最近になって気付きました。つまり、b=Tの時には{{a,T},{F,c}}=cとなり、b=Fの時には{{a,F},{T,b}}=aとなるため、全体としては{{a,b}}となるようなパターンです。こちらの方は計算量の減り方はやや落ちるものの、ブール変数aに対しnot(a)のブール変数があれば、必ず計算量は少なくなります。この場合は、削除されるブール変数の対(例えば、aとnot(a))以外は何でも良いので、P=NP?問題の証明のもっとも肝心な部分についての考察の時に対して、計算量が減る確率は多くなります。

つまり、ブール変数の個数mと節集合Cの節の元の数rが増えるにつれて、P=NP?問題の証明のもっとも肝心な部分についての考察のパターンは無視できるほどの出現確率になりますが、それに対しこのパターンは、最大で節の数rの半分の節の数だけ計算すれば良いという、計算量の減るパターンであるという事です。

これをもう少し詳しく場合分けしてみてみたいと思います。

まず、

a).部分的に{{a,b},{not(b),c}}={{a,c}}とできる場合

 この場合、ある節にbが含まれ別の節にnot(b)が含まれる確率を考えます。そうすると、確率は2/9となる事が分かります。その場合に減る計算量は上の式の左辺の計算量は単純に3これが右辺では1ですので減少する計算量は2。確率的な平均を出すと2/9の減少量となります

さらに、
b). {{a,b,not(c)},{a,not(b),c,d},{e}}={{a,c,not(c),d},{e}}={{T},{e}}={{e}}となるパターン
があります。
つまり、部分的に{{a,b,not(c)},{a,not(b),c,d}}={{a,c,not(c),d}}=Tとなるペアの発生確率は、問題となる二つのブール変数のとりうる3x3x3x3通りのうちの1パターンであるので1/81と意外に大きい事が分かります。つまり、2/81の確率で、最大mx2の計算量が減少します。つまり、その場合があったとして、減少量は節の平均の長さを確率的にm/2と考えた時に、減少量は平均でmです。

まとめると、つまり、ある節集合Cにおいて、任意の二つのブール変数を取り出し、その二つの ブール変数が、部分的に節集合{{{a,b,not(c)},{a,not(b),c,d}}のb,cような形で取り出される場合は12/81の確率で発生するので、減少量は平均でm/81となります。


他に、例外的に、

.{{a,b,c},{a,not(b),c},{a,b,not(c)},{a,not(b),not(c)}}
   ={{a,c},{a,not(c)}
   ={{a}}

となるパターンもあるでしょうが、これは、P=NP?問題の証明のもっとも肝心な部分についての考察で考えた場合と同様に確率的に0に近づくと考えられ無視できます。

さて、上記a),b)は節集合Cの元の数rが増えると発生する場合の数はそのrに比例して多くなり、それはブール変数mのうちからa)の場合一つ、b)の場合二つに注目すればいいという事が分かると思います。

まず、a)の場合から考えましょう。

r個の節から2つを取り出し、その平均m/2の節内の変数がa,not(a)となっているようなパターンは、
節は同じものが二つあってもかまいませんから(計算量は2倍になるがオーダーとしてみた時は大丈夫)

{rx(r-1)/2x1}x{1/9xm}

この場合の計算の減少量は2であるから、オーダーとしてみた場合、O(mr)で計算量が減る事になります。



 b)の場合も同様ですが、計算量の減り方がmに比例しますのでオーダーとしてみた場合O(m^2r)( ^はべき乗の記号 ) となってきます。


 とりあえず、ここまでにしておきましょう。ここまでが間違ってないかどうかが問題ですから。この先の検討は、また次の機会に。

2011年11月1日火曜日

二人静のコンテンツをいったん公開停止

かねてから、ツイッターでも予告しておりましたが、本日、ただいまをもちまして、二人静のコンテンツの公開を一旦停止いたしました。読者の皆様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、なにとぞご了承下さい

2011年10月22日土曜日

私は、一生、学生扱いで終わるんだろうなあ、きっとw

P=NP?問題の覚え書きのこれからの進め方という原稿を一応書きました。しかしながら、実は、再開するかどうかを迷っています。というのも、ここからが更に内容も難しくなります。また、Cookの定理までがテキストいえば一五ページまでです。これに隔日で書いても三ヶ月ほど掛かった記憶があります。これから、テキストで言えばあと九〇ページほど紹介するつもりですが、つまり、週に一度ぐらいのペースでやっていれば、この問題の説明には下手すると一生掛かってやるという事になるかもしれないという覚悟が必要です。

どうしようかな、と真剣に考えています。

とりあえずですね、原稿は書きためようと思いますが、アップはしないつもりです。少し見えないところで原稿を進行させて、進行の具合を考えてみたい。試行錯誤という奴です。

そういうわけでどうかご理解をお願いいたします。

2011年10月2日日曜日

ベルクソン 「物質と時間」メモの草稿が一応完成。

まだ草稿とはいえ、何とか最後まで続けることができました。様々な嫌がらせや妨害行為も多かったですが、様々に応援して頂いた方々もいらっしゃいました。黙って応援して頂いた方々もいらっしゃると思います。心より感謝申し上げます。

あとは、ブログ版を完成させるために何度か推敲する必要もあります。すでに、二章の部分でも特に構成の記述に少し誤りがあったりと見直す必要もあります。しばらくはそちらの方に時間を割くことになるでしょう。なお、無知無学な私に対してのご指摘ご感想など、心よりお待ち申しております。

これからの予定ですが、現在、他に、いろいろ仕掛かっている物もあり、また、『試論』のメモも早く始めたいと思っています。ただ、現在目途はついていません。

いまは、2,3日休んで、「小林秀雄 『本居宣長 補論I にみる真歴について」を今週中には仕上げたいと考えてはいます。

それ以降は、基本的には、「物質と記憶」メモの推敲をやり、余力があれば、『試論』メモかなと思っていますが、他に中途半端になっているブログもありますので、そちらを完成させたいという気持ちもあり、はっきり決めておりません。試行錯誤しながらかなと考えてもいます。


とりあえず、数年間にわたったこのメモも一つの区切りを迎えることができたことを感謝し喜びたいと思います。
どうもありがとうございました。

2011年9月22日木曜日

小林さんの二つの『本居宣長 補記』について

小林秀雄さんの『本居宣長』には二つの補記がある。その二つの補記は、一つ目はベルクソンの言うところの「持続」の問題、宣長の言葉で言えば「真暦」。二つ目は、言葉の問題を扱っている。

依然、この本居宣長の「真暦」について扱った文章を書いたのだが、思うように意を伝えることができなかった反省がある。そこで、今週メモお休みさせていただき、『本居宣長』の下巻からだけでも読み直して改めて文章を起こそうと思った次第である。

ようやく少し考えがまとまりつつあるのだが、まず、少し補記についても整理をしておこうと思いこの文章を記してみたのである。明日から簡単ではあろうが、再び小林さんの『本居宣長』補記をテキストとしてに宣長の言う「真暦」について述べてみたいと思う。

2011年8月13日土曜日

小林秀雄さんの本居宣長について

小林秀雄さんの本居宣長では、ベルクソンが主張する記憶の全保存について本居宣長がそれらしいことをすでに19世紀に考えていたことが指摘されている。その部分について、やむを得ず触れたものをやはりmixiの日記に書いているのでそれを公開したい。小林秀雄さんが、日本においての心脳問題の先駆者だったというのが私の主張だが、これを読んで頂ければ、そのことをご理解して頂けるのではないかと思う


「本居宣長」の出だしについて 2011年03月08日22:08

小林さんの「本居宣長」は宣長のお墓の話から入る。その前に若干、若い頃に、民俗学の大家、折口信夫を訪ねたときのエピソードが載っているのだが、まあ、お墓の話から入ると言って良いだろう。お墓を尋ねていったときのエピソードに始まり、宣長の遺言に及ぶ出だしであるからだ。

そこが一番の謎だった。なぜなら、「本居宣長」の最後には、これで最初に戻る、ということが書かれているのである。

今日、ぼんやりしているとここが最も重要かもしれないとも思われた。

この『最初に戻る』、というのは私が理解している限り二つの意味があるようだ。原点に戻る、ということと、もう一つはやはり、過去に過去を語ることに関する自己言及パラドックスのことであろう。

原点に戻る。というのは難しい。追々説明していくことになろう。もちろん、太陽の周期から時という概念を持つようになった、ということもできる。しかし、生命の始まりと終わりの繰り返し、それが長いときを通じて、それぞれの生命の一度きりしかない瞬間が死で終わると捉えた方が良いように思う。

原稿を依頼されてからしばらく経ったある日、天気が良かったので、宣長の居た松坂へ行こうとした。旧跡を尋ねていくと、旧邸宅は鈴屋遺跡として大切に保存されていたが、お墓は地元の松坂駅に止まっていたタクシーに聞いても分からないという。

そのような形で、徐々に宣長の遺言の話に入っていく。遺言書から入るのは、宣長の人柄を知るのに良い資料であると同時にその思想の結実と言って良い最後の著作であると小林さんは位置づけている。思想の結実、から入っているので、『本居宣長』の最後が最初に戻るというのが一番分かりやすい解釈かもしれないとは思う。主題とも言える結論をまず示しておき、変奏曲のように変奏をしていく。実際、『本居宣長』では、そのような記述をされているところもあるからだ。

宣長は遺言に、お墓ついて、葬られ方について、後々の祀られ方について詳しく指定している。

お墓は二つあるらしいが、これは当時の人に普通のことであった。ただ、そのお墓の一つは図示をしてまでいろいろ指図している。墓はとにかく質素で良い。しかし、大好きだった桜も植えて欲しいなどなど。

そして、細かく自分の送られ方を二通り書いている。まず、遺体は夜中、密かに寺へ送れ。そして世間並に葬式をせよ。葬式の際には空の棺桶を墓に送れ、仔細などない。しかし、これはさすがに、当時でも異様だったらしく、役所にとがめられているが、宣長には、彼が到達した思想より、そうするよりほかどうしようもなかった、と小林さんは書いている。

ここが大事なポイントだと思われる。つまり、小林さんは、宣長があたかも記憶には2種類あり、ベルクソンが言う、「運動図式」もしくは「感覚-運動系」などとも呼ぶ「純粋記憶」が表だった葬式の時に運ばれる空の棺、そして、先行してひっそりと夜中に密やかに寺へ送られる実際の遺体が「イマージュ記憶」と言うように考えていたのではないか、と密かに指摘しているように思えてならない。

そして、祀られ方について述べているが、これはもちろん、個人の死とその生前を忍ぶ、という意味で記憶が演繹されているならば、自己言及パラドックスに陥る。ということを表現しているのだろう。このことについては前稿で述べたので詳しくは説明しない。

補足して説明しておくと、宣長が寺へ葬られたのは、当時、日本で戸籍を管理していたのが仏教の寺であったためだ。当時、日本は鎖国中でキリスト教を排除するための制度でもある。

さて、「原点に戻る」という意味をもう少し補足しよう。宣長は実は遺言を書く前に、死後のことを研究するのは弟子に禁じていた。それが、急に遺言を書くために、墓所を探したりに出かけたりなどするものだから、弟子も大変に不審がっていたようだ。

すでに前稿で書いたように、宣長は自分の思想が自己言及パラドックス陥るのを防ぐために、全て考えたことをありのままに後世に残そうとした。そこでは、死ねば皆、黄泉の国に行くのであり、仏教の言う輪廻転生などない、と教えているのである。

さくらは繰り返し咲き、そしていつか枯れるだろう。枯れたら新しいのを植えよ、というのが宣長の遺言にある。

繰り返す季節の中で、生命は一続きの時間を繋いでいく。これが、『最初に戻る』という意味ではないか。見る人によっては、少々、無理矢理かもしれないが、私にはこう思えてならない。

P=NP?問題の証明のもっとも肝心な部分についての考察

私の知っている範囲で言うとP=NP?問題では全て肯定的なリラテル(論理式の最小単位)の場合P=NPであることが証明されています。

残る問題は否定のリラテルがあった場合、計算量を減少させられる事が知られていますが、それがどれくらいの影響があるかと言うことでしょう。

そこで考えたことを、以前mixiの日記にメモ書き程度に残したことをここに公表したいと思います。ちなみにRotaTRはわたしのIDです。


否定のリテラルによって減少する計算量は0 2010年09月28日14:29
SATに於いて計算量を減らせるのは、
あるブール変数以外がまったく同じ場合

節集合Cの各節はブール変数の論理和で表されるが
そこに表されていないブール変数の値はFとしてよい。

従って各節はブール変数の二つのリテラルとFの3つの値を取り得る。

ブール変数の集合Uがm個のブール変数を持ち、mが十分大きいとする。
また、節集合の元の個数rとする

このときある節が節集合Cに現れる確率はr/3^m
それと対になり消滅する節が同じ節集合に現れる確率もほぼ同じ

一方それによって少なくなるTMの計算量はO(r/2)

従って、mが十分大きいとき否定のリテラルによって減少する計算量は0
コメント
コメント

RotaTR2010年09月28日 14:41

> SATに於いて計算量を減らせるのは、
> あるブール変数以外がまったく同じ場合
> 説集合Cの各節はブール変数の論理和で表されるが
> そこに表されていないブール変数の値はFとしてよい。
> 従って各節はブール変数の二つのリラテルとFの3つの値を取り得る。
> ブール変数の集合Uがm個のブール変数を持ち、mが十分大きいとする。
> また、節集合の元の個数rとする
> このときある節が節集合Cに現れる確率はr/3^m
> それと対になり消滅する節が同じ節集合に現れる確率もほぼ同じ
> 一方それによって少なくなるTMの計算量はO(r/2)
> 従って、mが十分大きいとき否定のリラテルによって減少する計算量は0

少なくなる計算量は平均でm/2の定数倍が正しいです。
お詫びして訂正いたします

RotaTR2010年09月28日 19:45
リラテル=>リテラル
説集合=>節集合

と修正

RotaTR2010年09月29日 03:45
しまった。いろいろ間違ってる。

{{a,b},{a,NOT(b)}={a}

だw

まぁ、こんな感じで減らせるんでしょう。
節の出現確率のところだけは使えるな(笑い)

RotaTR2010年09月29日 03:50
情けないなぁ、まったく

補足しておくと、{{a,b,c},{a,b,NOT(c)}}={{a,b}}

まぁ、減らせる計算量は同じだけど、更に減らせる可能性があるよね

RotaTR2010年09月29日 03:52
{{a,b,c},{a,b,NOT(c)},{a,NOT(b})}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a}}

とかね。

RotaTR2010年09月29日 03:55
あ、しかし、そういう節の出現確率も上記の出現確率だから、良いのか。
あははw

ま、まぁ、出先でのメモということで許して下さい。
いろいろと検討が足りなくてすいません。

RotaTR2010年09月29日 04:10
しかし、ごくまれだと思うけど、


{{a,b,c},{a,b,NOT(c)},{a,NOT(b})}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a}}

の例のように計算するブール変数の量が減らせるときは、計算量は著しく減る場合もあるね。そこの変まできっちりと計算する必要があるのかな。ないと思ってたけど、検討すべきですか?うーん、ちゃんとすべきかもね。そこ変が残る課題か。

RotaTR2010年09月29日 04:19
あ、いいか。そういえば、昼に頭の中で検討したときには、パターンは出現確率がr/3^mに対し、そのようなパターンで削減される計算量はO(2^m)なので、削減量は確率を考えると、最大でO(2^m/3^m)なはずで、mが大きくなると、0に近づくと考えたのだけど、大丈夫だよね?

RotaTR2010年09月29日 04:20
なんか、本当にいろいろダメだなぁ(苦笑)

少し昔話をしよう

パーセプトロンやP=NP?のブログをやらないことでいろいろいわれるようになった。

ところで、ちょっと前のmixiの日記を見たらこういうことを書いていた。なんでもそうだけど、某とかが私のやることにくちばしを突っ込んでは、要らんことばかり言われていた一つの証拠をお見せしたい。

ちなみに、P=NP問題に関して私なりの解答は考えたのでそれは後ほど公表したい

(以下その日記)

P=NP?問題を考えてみたい理由 2009年05月27日19:11

私は、残念ながらお金にはならなかったが、
動画の超解像技術の元になったアルゴリズムや、
その他、クラスNPと思われる問題の解決に於いて
いくつかのヒューリスティックアルゴリズムを考え出した
実績がある。


また、非線形な問題を考えるときには、ある種の変換を持って
線形な問題として解くともあれば、シミュレーションによって
最適解を得ようとする場合もある。

私の場合、人工知能の研究などでしばしば、
ヒューリスティックアルゴリズムを持って解決するということが多い。

一体、ヒューリスティックアルゴリズムという問題解決方法
一種の知識は、ただの試行錯誤の結果なのか?
そもそも、問題を解決するとはなんなのか?

その根本はどこから来るのか?という意味でP=NP?問題は
大変に興味深い。

非線形がある種の経験論、言い換えれば、経験の知識の組み合わせで
あるかもしれないのに対して、
つまりは、非線形性を線形に置き換えて解くか、
経験というデーターベースによるシミュレーションによって
最適解を探すか、ということに置き換えられる可能性が高いのに対し
NP問題に何らかの解決をもたらそうとする
ヒューリスティックアルゴリズムは経験上全く別種のものである
ということが言える。

それは、ヒューリスティックアルゴリズムは、アルゴリズムというように
何らかのアルゴリズムがあるからである。

精神の一部がヒューリスティックアルゴリズムの集合であるということは
否めない。それは、我々の感性が教育によって共有されることからも判る。

そういうわけで、P=NP?問題は私には非常に興味深い問題なのである。

だから、あまりうるさく言わないように。

2011年7月23日土曜日

シュレディンガーの猫のパラドックスを私なりに説明してみた

一般に量子力学では、一般的な常識とは全くかけ離れたことが起こる。最たるものはERPパラドックスもしくはシュレディンガーの猫のパラドックスなどの一般に観測問題と呼ばれる問題が起こる。このことは、量子力学のようなミクロスケール(およそ10のマイナス6乗以下のスケールと言われる)で起こるような現象を説明する物理学で発生する問題である。

私なりにシュレディンガーの猫の話を解説してみたい。

シュレディンガーの猫のパラドックスは、簡単に箱を開けるまで猫は生きてるか死んでるか分からないという言い方で説明される。なんだ当たり前じゃないか、という人は常識人である。量子力学の世界では、猫は生きてるか死んでるか観測されるまでは両方の状態が重ね合わさっていると説明している。こうなると常識ではないだろう。

箱の中に猫は居ることは分かっているのである。しかし、その状態が分からない。本当は分からないのではなく、生きてる状態と死んでる状態が重なっている。これがシュレディンガーの猫のパラドックスというものだ。

ん、量子力学はミクロスケールを扱う話じゃなかったの?といった人は偉いと思う。一般に、われわれの生活する単位ではニュートン力学、天文学的なスケールではアインシュタインの相対性理論が適用されるのが現代物理学の常道であり、シュレディンガーの猫のパラドックスは、じつは、ミクロスケールの話がマクロスケールに及ぶという点も大事なのだが、ここでは分かりやすく猫が生きてるか死んでるかの状態が重なっていると説明している。まぁ、なんだ、要するに、あるミクロスケールの量子の観測結果で箱の中の猫ちゃんを殺すようなスイッチがオンになるかオフのままかと言うことが問題となってくるということを端的に示しているとここでは考えてもらうと良いだろう。

さて、結構パラドックスの説明に手間が掛かったが、まず、歴史的背景から説明しておこう。

ニュートンの時代、光は波であると考えられていました。例えば屈折で本来影の部分がやや明るくなるとか回折で明るい部分とくらい部分の縞ができるとか。

ところが、科学が進んで、アインシュタインが特殊相対性理論を提唱する前になってくると、次のようなことが分かってきます。(以下、Wkipediaの特殊相対性理論の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/特殊相対性理論)から抜粋しながら引用します)

まず、節「量子力学と特殊相対性理論の関係」から引用しましょう

量子力学と特殊相対性理論の関係 [編集]
詳細は「光量子仮説」、「量子力学」をそれぞれ参照
量子力学や相対性理論の登場する以前の物理学は、ニュートン力学によって物体の運動が、また、マクスウェルの方程式によって電磁波の振る舞いが記述されていた。
量子力学が発展する過程で1905年にアルベルト・アインシュタインは、電磁波に粒子としての性質があることを仮定しなければ光電効果などの物理現象を説明できないことを見出した(光量子仮説)。この光量子仮説は、アーサー・コンプトンが電子によるX線の散乱にコンプトン効果を見出したなど複数の有力な証拠により支持された。これによって光が波(電磁波)としての性質をもちつつ、粒子としての振る舞いをするということが明らかになった。
運動する物体の振る舞いと電磁波の振る舞いが本質的に同じものであるということが示唆される一方で、それらがニュートン力学やマクスウェルの方程式では記述できないことという矛盾は、ド・ブロイによって物質波の概念が与えられ、実験的に支持されるようになると一層顕著になった。

(引用終わり)

つまり、光を含めた電磁波は粒子の性質があるということがアインシュタインによって唱えられそれが様々な観測によって立証されたわけですね。

これを解決するために唱えられたのが、アインシュタインによる相対性理論な訳です。つまり、一般的な物体の動きを説明する古典力学と古典電磁波学を統合したのが相対性理論とも言えるわけです。

つまりは、相対性と光速度普遍の原理。ここもWikipediaから引用しましょう。

相対性原理の導入 [編集]
当時、エーテルという仮想の物質が空間に充満しており、電磁波はエーテルを媒体にして空間を伝播すると考えられていた。しかし、エーテルに対する地球の相対速度を検出すべく1881年に行われたマイケルソン・モーリーの実験では、そのような相対速度は検出されなかった。この結果は、地球が宇宙に対して絶対的に静止しているか、そもそも絶対静止空間という考え自体が間違っていることを意味していた。このような背景のもと、アインシュタインは、次の二つの仮定(公理)のみをもとに思考実験をするとどのような結論が得られるかをまとめた。
1. 力学法則はどの慣性系においても同じ形で成立する(相対性原理)。
2. 真空中の光の速さは光源の運動状態に無関係に一定である(光速不変の原理)。
これらの仮定を満たすためには、それまで暗黙のうちに一様で変化しないとみなされていた空間と時間を変えるという方法を用いる。

これが相対性理論の骨子です。

さて、問題のシュレディンガーの猫のパラドックス量子力学の話でしたね。アインシュタインは光電効果の説明でノーベル賞をもらい量子力学の基礎を開いた人ですが、後の量子力学には大変に強い不満をもらしています。(ちなみに、アインシュタインは相対性理論ではノーベル賞をもらっていないというところが面白いところです)

それは、量子の状態が確率的にしか求まらないと言うことからです。

では、いよいよ量子力学の不思議について徐々に説明していきましょう。

先ほども述べましたが、光には、波の性質と粒子の性質があります。粒子の性質と言いましてもだいたい粒子ってというところから始まってねぇ、そこがそもそもややこしいところです。

量子力学ででてくるスケールでの単位があります。プランク定数と呼ばれるものです。例えば電磁波のエネルギーを示す式に

E=hν

という式があります。エネルギーはh(プランク乗数)かけるν(振動数=周波数の逆数)という式で表せるということです。

この式を見てもらうと分かるように、電磁波のエネルギーはプランク定数の何倍になっているかで表せます。つまり、プランク定数は量子のエネルギーの基本的な単位となり、また、電磁波のエネルギーはプランク定数ごとの飛び飛びの値しか取らないということが分かります。

つまり、光のような波と粒子の性質を持つものはエネルギーがプランク定数単位で飛び飛びの値しか持ち得ないということも意味しています。お金なら一円単位ですよね。量子のエネルギーでその一円に相当するのがプランク定数と考えて下さい。
(じつは、このようにエネルギーがプランク定数単位で飛び飛びの値しか取らないということが量子の名前の由来なんですけどね)

さて、光が量子であるということは分かりました。ところが、この結果から、ド・ブロイという人が全ての物質も波の性質を持つことを言い出しました。このことは後に証明され、全ての物質は波であり粒子であるということが分かってきたのです。(Wikipedia、ド・ブロイ波参照(http://ja.wikipedia.org/wiki/ド・ブロイ波)

ところで、量子はあまりに小さいので観測すると観測自体が量子に影響を及ぼし、その運動量と位置を同時に正確に把握することができないという、量子の不確定性原理というものがハイゼンベルクによって提唱されるようになりました。(Wikipedia、不確定性原理(http://ja.wikipedia.org/wiki/不確定性原理)の項参照)


この原理は、その後、量子の基本的な波の性質記述する波動方程式(Wikipedia、波動方程式(http://ja.wikipedia.org/wiki/波動方程式))が確立することによりその解釈を巡っての話に吸収されます。

さて、この波動方程式が意味するところは、量子の位置は確率的にしか求まらない。ということ。そして、観測するまではその位置は確定しない。ということを意味していたのでさあ大変、大論争が起こりました。しかし、実験の結果、やっぱりのこの波動方程式は正しいと言うことになったわけです。

これが、先ほどのシュレディンガーの猫のパラドックスにつながってくるんですね。つまり、観測されるまで猫が生きてるか死んでるかというのは、重なり合わさった状態だということです。

実はですね、この観測された時に波動関数が収縮して位置が決まるという考え方は、波動関数のコペンハーゲン解釈といいます。

かの有名な、ホーキング博士は多世界解釈という考え方にたたれているそうです。多世界解釈というのは、量子はたくさんの波の重なり合わせの一番強い部分であり、その位置はわれわれが観測する時に確率的に決まっているように見えるが、全ての取りうる可能性の一つを観測しているに過ぎず、他の可能な事象を取る世界はまた別に存在するという解釈です。

かくも不思議な解釈が成立するのが量子力学(特に波動関数)の世界であり、他にもいろいろな解釈があるようですが特に代表的な解釈を示しました。

しかし、こうなると、哲学の存在論も何もあったもんじゃないような世界となります。物質が波であり粒子だなどといわれてもわれわれの経験的認識にとってはごく特殊な世界ですよね。

だから、われわれはその辺りについては、ニュートン力学で説明する範囲で哲学的経験論、認識論というものを考えるということがまず重要になってくる、私はそう思います。

もちろん、この辺りを統合しようとされている方もいらっしゃいまして、それが、たとえば、イギリスのペンローズ先生がやっておられる、ツイスター理論や量子脳理論などにつながってくるわけです。(Wikipedia、ロジャー・ペンローズ(http://ja.wikipedia.org/wiki/ロジャー・ペンローズ)の項参照)


ペンローズ先生の理論は私が支持しているベルクソン哲学とは大変違う考え方ではあるようですが、また大変に尊敬している方の一人でもあります)

2011年7月5日火曜日

宗教について

私は、どんな伝統的宗教を否定するつもりもありません。しかし、新興宗教の教祖様になるつもりもありません。絶対にないです。

私が興味があるのは、哲学であり、そこでは、形而上という、形のあるものより上という意味ですが、それを考えることはしばしばあります。それは、しばしば形而上学とも言います。

ベルクソンの『創造的進化」の第四章では、無という概念を批判し、それを用いることで、旧来の哲学がさまざまな問題を持つことを論証しています。そこでも、形而上の存在についてはしばしば考えられています。また、同じく「創造的進化」ベルクソンは本能、生命のバネなどのことばで、それら形而上の存在を立証しようとしています

しかし、一方で、信仰が時に人に信じられないくらいの力をもたらすことには興味を持っています。

私がしばしば例に用いるのは、シベリア抑留の極限状態において観音経を唱えながら壁に観音様を彫ってしのいだ兵隊さんの例です。

やっぱりそういう不思議はあると思いますが、それは私は、生命のバネで説明できるのではないかと考えています。


しかしながら、そのような力を発揮するのには信仰を持つということが前提なので、そこが難しいと思います。信仰ということ自体には、やはり、なんらかの働きがあるのではないか?ということから始まって、とくに、われわれ日本人にとって西洋文明と付き合っていく場合に、キリスト教というものに関してあるいは、ユダヤ教やイスラム教でも良いのですが、一神教という、大変に理解するのに難しい問題も背景に有るわけです。その辺については、この先少しずつ考えていくことになるのでは、考えています。まぁ、まだまだ、先の話ですけどね

2011年6月27日月曜日

経済状態について

いま、まだ病み上がりと言うこともあって、親の老後の貯金をがじがじとすねかじりしているようなとてもみっともない状況です。本当に来年の4月までに職が決まらないとまずいんですよ。そこが現在もっとも憂慮している点。

2011年6月22日水曜日

ベルクソン 「物質と時間」メモ 更新停止のお知らせ

どうにも体調が優れなく、吐き気が止まらない集中できないなどということもあり、しばらくの間ベルクソン 「物質と時間」メモ の更新を停止させて頂きたいと思います。原因は、様々だと思います。ただ、どうにもストレスを受ける機会とその度合いがこれまで以上と言わざるを得ない状況ですので、このままでまた鬱がぶり返してしまうということを心配しております。

また、ベルクソンのほかの著作と同時にこのメモを書くということは非常に負荷が高く、また、ほかの著作を一通り読んでしまってからの方が、解説もより書きよいのではないか、特に、『意識に直接与えられたものについての試論』は読むべきではないかかと思っているのも、それぞれ理由の一つです。

そもそも論を申し上げますと、タイトルからしてご理解頂けるように、そもそもは、読書メモでありました。それが様々な良くいうならば叱咤激励のおかげで解説をするようになり、それが当然のごとくなって今に至っております。そういうわけで、現在の著述の形式は私が望んでいるものでは必ずしもないということも、申し添えておかなければなりません。


以上のようなわけで、多大なストレスにより最近著しく体調を崩しておりますので、読者各位には大変ご迷惑をおかけすることになりますが、なにとぞご理解頂きますようお願いいたします。

2011年5月26日木曜日

原子力安全委員会とは一体何なのか

福島第一原発事故の情報があまりにも嘘まみれであることが事故発生から2ヶ月半、IAEAの査察が来ると漸くいろいろ分かってきたということから、政府や東京電力に対する強い不信感を持つなか、言った言わないの責任逃れの水掛け論で国民をあきれさせている、官邸と原子力安全委員会・班目氏。

その中でも、あまりに、班目氏という人の言動が不思議に見えることから、原子力安全委員会というものをすこし調べてみようという気になりました。

まず、私のような素人にわかりにくいのは、原子力安全・保安院との区別ですね。Wikipediaによりますと、

・原子力安全・保安院(ソース:Wikipedia、http://ja.wikipedia.org/wiki/原子力安全・保安院)は、
  • 経済産業省の一機関であり、法令上の位置付けは「資源エネルギー庁の特別の機関」とされる(「概要」から引用)
  • 本院は「原子力安全」と「産業保安」とが主な所掌事務で、決して原子力関係のみを専門としている組織ではない。(「任務」より引用)

となり、私なりにまとめると、東京電力のような電力会社の監督省庁である経済産業省・資源エネルギー庁の「特別の機関」であり、「原子力安全」がその大きな任務の一つと言うことになるでしょうか。

一方、注目の人班目氏の原子力安全委員会、
・原子力安全委員会(ソース:Wikipedia、http://ja.wikipedia.org/wiki/原子力安全委員会)
  • 原子力安全委員会(げんしりょくあんぜんいいんかい)は、日本の行政機関のひとつで内閣府の審議会等のひとつ。(最初の説明より引用)
  • 原子力安全委員会の職務は原子力の研究、開発および利用に関する事項のうち、安全の確保に関する事項について企画し、審議し、および決定することである。(「概要」より引用)
  • 具体的な職務の一つに、「原子力緊急事態宣言の技術的事項について原子力災害対策本部長に助言すること」というのが同じく「概要」にあります。


つまり、原子力安全委員会というのは、元々学者さんの集まりである、「内閣府の審議会等のひとつ」という位置づけですね。それで、今回の東京電力福島第一原発の事故のようなことが起こると、「原子力災害対策本部長」に「技術的事項」を「助言する」と言うことになるわけでしょうね。

では、この、「原子力災害対策本部長」とは一体誰なのか、というと、原子力安全・保安院のWebサイトから引用すると

引用始まり---------

原子力災害対策本部

0333

原子力災害時に臨時に内閣府に設置される本部。原災法第15条 により、内閣総理大臣が原子力緊急事態宣言 をしたときは、当該原子力緊急事態 に係る緊急事態応急対策 を総合的見地から迅速、的確かつ効果的に推進するため、閣議にかけて、臨時に内閣府に必ず設置される。内閣総理大臣が本部長を務める。
  
---------引用終わり

とあり、つまりは、総理大臣になるわけです。

だったら、言っただろうし、聞いただろう、と思うのが普通でしょう。

要するに、首相と、班目氏の責任のなすりつけ合いで、班目氏が
「ゼロではない」は『ほとんどゼロということ」、
実際に海水注入は続けられていた、
「私はなんだったのか」
という発言につながるというわけですね。

しかし、どうしようもないな、この国の上の人たちは。結局現場の判断で助かったということでしょう。これで、万が一再臨界が起きていても、菅総理はもちろん班目氏も言い逃れていたことでしょう。そのようなことが分かっているから、現場は独自の判断をする。なんだったのかではなく、なんなんですか、あなた方は、ということです。

ちなみに、先ほどのWikipediaの原子力安全に委員会の記事にこういうのがあったので引用しておきましょう。

  • 「原発は構造上爆発しません」−水素爆発により複数の建物の外壁が飛び散る
  • 「復旧作業員の造血幹細胞の事前採取は不要と判断」
  • 「汚染水処理への対応−班目春樹委員長は福島第一原子力発電所の建屋に溜まった高放射線量の汚染水処理について、「知識を持ち合わせていないので、東電(東京電力)と原子力安全・保安院にしっかりと指導をしていただきたい」と発言し、批判をあびた」
  • 「放射能予測システム遅い情報開示に批判 」
  • 「事故から1か月以上経過しての視察 
     本来、原子力安全委員会は専門的知識を持つ調査委員が現地で「情報の収集・分析」を行うべき組織であるが、4月19日に委員が初めて東京電力福島第一原子力発電所の視察を行った。現場入りまで1ヶ月以上を要したことについて、視察した小山田委員は、「当初は、現場が次から次へと事象が変化するのに対応することで手いっぱいだった」と釈明し、「ずっと助言活動に対応していた」などと語った。[18] (JOCウラン加工工場臨界事故では発生の約半月後に総勢19名の事故調査委員会で現地調査を行っている)[19]」

とあります。現場から信用されないのも当然ですね。というより、原子力安全委員会は全くの役立たずと言って良いぐらいです。

Wikipediaの班目春樹氏の項目(http://ja.wikipedia.org/wiki/班目春樹)における、今回の原発事故の対応の部分を全文引用して終わりたいと思います。

引用はじめ---------

福島第一原子力発電所事故対応

  • 2011年3月11日に発生した福島第一原子力発電所事故で、事故発生から12日間にわたり取材を拒否し続けた。その理由を「官邸や文部科学省へ伝えれば良いと考えていた」[3]と語り、市民へ情報を伝えることを委員長の役目と考えていなかったことを明かした。
  • 3月12日午前6時すぎ、菅直人首相は陸自ヘリで官邸屋上を飛び立ち、被災地と東京電力福島第1原発の視察に向かったが、機内の隣にいたのが班目だった。原発の安全性をチェックする機関の最高責任者として「総理、原発は大丈夫なんです。(原子炉は)構造上爆発しません」と述べた。[4]その日の午後3時半過ぎ、建屋で水素爆発が起きた。
  • 3月22日の参議院予算委員会で、2007年2月の浜岡原発運転差し止め訴訟の静岡地裁での証人尋問で、非常用ディーゼル発電機や制御棒など重要機器が複数同時に機能喪失することまで想定していない理由を社民党の福島瑞穂に問われ、「そのような事態は想定していない。そのような想定をしたのでは原発はつくれないから、どこかで割り切らなければ原子炉の設計ができなくなる」と回答した。
  • 3月28日の記者会見では、高放射線量の汚染水への対応について質問された際に、「(汚染水への対応実施については)安全委はそれだけの知識を持ち合わせていない[5]」などと、原子力安全委員会の見識と存在意義について疑問を抱かせる発言を行った。
  • 4月27日の衆議院決算行政監視委員会において、政府の防災基本計画では原子力災害発生時に「緊急事態応急対策調査委員」らを現地に派遣すると定めているが、3月11日の地震発生直後に派遣したのは事務局の職員1人だけだったこと、また安全委員会が福島市の現地対策本部に専門家2人を派遣したのは4月17日となったことについて、委員会議員から質問があった。これに対して班目は、原子力安全専門家の現地派遣が遅れたことを認め、「これは本当に失敗だったと反省しております」と述べた[6]。

---------引用終わり

2011年5月11日水曜日

PS3のハッキング問題についての小考

ソニーの顧客情報流出問題の根は、PS3のハッキング問題に端を発していると言われている。

それについては否定できない側面があるだろうが、そもそもクラッカーという人種は、そうやって個人情報を引き出して企業を困らせたり、あるいはその情報を売買したり、そのようなことを目的としているのであって、全く関係ないとは言えないだろうけれども、動機として精神を高揚させるものの一つに過ぎないだろう、と私は推測する。もちろん、東京電力の社員寮にいたずらをするような輩と同じ動機というのも必ずしも否定はできないだろうが。しかし、実際のところは分からない。あくまで個人的な推測、というより希望に近いかもしれない。

ところで、ソニーをはじめゲーム機メーカーがゲーム機をあくまでプロプライエタリ(と言って良いかどうかむずかしいが、とにかく閉ざされた)ハードウエアシステムにしておきたいのは、ゲーム機の普及のために、ゲーム機本体は赤字でも良いから安価で提供しておき、プロプライエタリなソフトウエアで利益を上げようというビジネスモデルであるからであって、ここをオープンにすることは、非常に困難であると言わざるを得ない。

ハッカーは何を考えてPS3をハックする(した)のか。名誉のため(あくまでコミュニティーの中だけの話であろうが)と言うこともあるだろうが、大きく分けて二つの動機があると思われる。それは、一つ目にそれが、閉じたシステムであるならこじ開けたいという欲求。そこに山があるからと言った登山家と同じ動機と言っても良いかもしれない。二つ目は、PS3を自由に使いたいという願望。自分のものだから、どうして自分の好きなように使えないんだ。という不満も含まれているかもしれない。

しかし、あくまでビジネスとして行っているソニーはこのビジネスモデルを死守する必要がある。ゲームビジネスの根幹に関わる問題であるからだ。

ソニー側ができる対応として候補を挙げれば、すぐに思いつくのは残念ながら一つしかない。CELL.B.Eを載せたLINUXパソコンを販売することだ。しかし、これは売れるだろうか。その意味では可能性としてはほとんど無いと言って良いかもしれない。ソニーはできる限りオープンでありたいと願っていると思うが、私企業である以上、その活動はどうしても利益を生むものでなければならない。PS3と交換でということで安価で売るなどの可能性はあるかもしれないが、持っているゲームソフトウエアが動かないのは嫌と言われれば、それまでだろう。PS3を買えば、そのPS3と交換の形でレンタルするというのはあるかもしれない。10万円ほどで販売と、PS3を持っている人はそれと交換の形で、無償レンタル。これがソニーにできる精一杯の譲歩かもしれない。

2011年5月4日水曜日

Novikoffの定理の証明まで記事を書き終えました:パーセプトロンのブログ

ようやくですが、Novikoffの定理(収束定理)の証明までブログ「パーセプトロンが線型分離可能であることについて」の記事を書き終えました。三日連続で記事を挙げるのは結構大変でした。計画したときより実際に書いてみると、分量が増えてしまって、計画性のないやり方になってしまいすこし反省しています。

あすは、以前発表したパーセプトロンの学習プログラム(Java版)をNovikoffの定理に基づいたかたちの学習プログラムに変更したものを発表説明させて頂くつもりです。


2011年4月29日金曜日

「パーセプトロンが線型分離可能であるということについて」についてのおわび

お恥ずかしいことながら、私、そもそも、パーセプトロンがトレーニング集合によってどれだけの計算量で収束するかということを証明した「Novikoffの定理」をどれくらいの確率で学習済みのパーセプトロンが間違うのかとここまで、すこし勘違いして説明してきました。


「Novikoffの定理」いったん説明した後、あらためて、説明させて頂きます。
つまり、もう少しでは終わらないということになります。
自らの未熟をお詫び致します。


2011年4月28日木曜日

ありがとう

今日は3号線沿いのマクドナルドでたくさん男の子がWMで音楽を聴いたり、PSPで遊んだりしててくれた。私が良く行くから、待ってて元気づけようとしてくれたに違いない。ありがとう。

2011年4月27日水曜日

二人静の正式なURL

私がこれまでにブログなどWeb上でやってきたことをまとめたサイト、二人静の正式なURLは次のようになります。

www.futarisizuka.org

ふつつか者ですが宜しくお願い致します

ソニーPSNの顧客情報流出問題

ソニーのPSN顧客情報問題における謝罪文
http://cdn.jp.playstation.com/msg/sp_20110427_psn.html

(注:2011年4月27日19時33分:日経新聞の記事へのリンクより変更)


厳しいなんてもんじゃなく、日本でも米国でも国家レベルの問題となってしまった。もちろん、最も問題なのは不正アクセスをするような犯罪者であるが、企業がインターネットを使って活動を行う場合、現在はそれを防ぐセキュリティ対策をするのが常識であるので、そのような言い訳は許されない。

問題を大きくしているのは、はじめは障害と説明していたことが一週間経ったのちに不正侵入と説明したこと。日本の政府や企業の情報公開の遅れはこれまでもたびたび指摘されてきたことだが、ソニーがその最新の事例になってしまったことが問題を大きくしている。これは大変に困った問題。リチウム電池の発火事件ののち、このようなガバナンスとコンプライアンスに関わる問題が再び起きてしまったことは大変残念に思う。ストリンガー会長が就任してから、make.beleaveをグループグランドメッセージとして来ただけに、顧客の信頼を失うようなことがいま最も、ソニーとしては痛いとも言える。

必ずしも私に責任があるというわけでもないとは思う。しかしながら顧客の皆様には私からも心よりお詫びを申し上げる次第です。

2011年4月26日火曜日

私のサイト(暫定版)

私のやっていることをまとめたサイトを作りました。

Google Appsを利用していますが、
まだ、良く分からない点があるので暫定版のアドレスです。

https://sites.google.com/a/futarisizuka.org/www/

2011年4月25日月曜日

今日からこの日記が主戦場

とりあえず、ブログを作ってみました。
今日からここと、ツイッターが主戦場になることでしょう。
それにしても、サイトの立ち上げから、ブログの立ち上げ
ツイッターの登録といろいろ忙しいです。まさに悪戦苦闘中。

未熟者ですが宜しくお願い致します。