2013年12月26日木曜日
2013年12月5日木曜日
ブログ「P=NP?問題の覚え書き」の目次に相当するページの公開のお知らせ
2013年12月4日水曜日
ブログ「P=NP?問題の覚え書き」の記事の内容についての一部修正
2013年12月1日日曜日
限定公開中のブログの期間限定一般公開について
2013年10月31日木曜日
ブログ「パーセプトロンが線形分離可能であることについて」の閉鎖について
当分、他のブログの記事の更新に関しても、お休みを頂くつもりです。別に全ブログを閉鎖しても、私はしかたないと思います。マスコミやタレントを始めとしたそれに影響される世間がこんなに薄汚い真似ばかりしているのであれば、当然の措置といえるでしょう。
本当に自分勝手な、学級崩壊状態にうんざりしていますよ。黙ることさえ出来ないというプライドはどこから来るんでしょうね。単に、不当に高い地位と収入を得ている後ろめたさから来るものじゃないのかとさえ思ってしまいますね。どうしようもないですよね。ふふ。
2013/11/04追記
そういえば、土曜から日曜にかけて、夜帰宅の時にいい車に乗っている連中が、信号が青になった途端クラクションを鳴らしたり、してきたのがあったな。違うかもしれないけど、前にクルマがいたのに、わざわざクラクションを鳴らしたから、一応念のために記録しておこう。
2013年10月28日月曜日
かけ算とわり算について(2)
2013年10月26日土曜日
かけ算とわり算について(1)
ところで、それからさらに進んでいくと、今度は、かけ算とわり算の意味をよく理解されていないお子さんがいらっしゃることがわかってきました。
九九を覚えてかけ算の問題は一応できるものの、実際の応用となると、その意味がわかっていないために、問題が解けないというケースが有るようです。そこで、まず、今回はすこしかけ算について見て行きたいと思います。
まず、下の九九の表を見ていただきたいのですが、どの段も、上と下の行の差はその段の数(1の段だったら1、2の段であれば2)となっていることがわかると思います。つまり、かけ算は、日常良くある同じものをいくつも足すことを効率良く行うための工夫ということなのです。
2013年10月24日木曜日
ブログ「パーセプトロンが線形分離可能であることについて」公開停止に関して
2013年10月23日水曜日
「ベルクソン「物質と記憶」メモ」の下書きについて
「ベルクソン「物質と記憶」メモ」の下書きをブログ「徒然の種々」にて公開しておりますが、ご存じの方も多いかと思いますが、第三章以降、大変不正確な記述と、当時やらされているということからくる不満に満ちております。従いまして、現在、「メモ」の方を閲覧中止にしている関係上、一部メディアの嫌がらせも多い関係もありまして、必要以上の誤解を招く恐れも多いと判断し、徒然の種々も閲覧中止とさせていただきたく思います。ご理解いただけますよう、よろしくお願い致します。
2013年10月17日木曜日
私のブログの目的について
なぜか、私がブログを書こうとすると、様々な思ってもいないような反応があって当惑し続けてきた。
例えば地味だとか、シーズしか考えていないとか。
いつのまにかノーベル賞だとかなんだとかで無理矢理やらされたことなどまったく苦痛そのものであり、世間の嘘がと強欲が発覚した現在、のびのびと読書もできるようになり、将来の希望は無くなったにしても、このような環境を取り戻せたことを本当に幸せに感じている。
それなのに世間はまたも色々注文をつけ偉そうにも只働きを強要する。あきれてものが言えないとは、このことた。
ところで、現在は都知事となられた猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」をこの頃拝読していて、思い当たったのだが、私の行動を、大衆消費社会における消費財と見なしているのではないか、ということだ。
例えば、現在は、旧軽井沢と呼ばれている、一部の人だけのものであった別荘地を大衆にも頑張れば手が届く、そういう商品を提供していく、そのようなことと、同一視されたのであろう。
本当に苦笑せざるを得ない。
もともと、インターネットは、寄付文化であり、私はGNUのさまざまなソフトウェア開発ツールに感銘を受け、そのような良いことを、社会に対する感謝のきもちを表すために、いわば、恩返しとして、やろうと思ったのであり、その意味でまさしく、ツールとしての、知識を提供する事がそもそもの目的であり、消費行動のための商品ではなく、むしろ、創造を支援するための、知的財産(IP)を提供する事が大きな目的である。
何度も述べたことだと思うのだが、どうも、その辺りを取り違えておられる方が多数いらっしゃるようであるので、改めて、記事を起こし注意を促す次第である。
2013年10月13日日曜日
あまりにくだらないことばかり
この頃起きることと言えば、本当にどうしようもないとしか言い様のない下らないことばかりでストレスが溜まります。
しかし、その下らない出来事の中心にいるのは、私。我が身の未熟さには本当に恥じ入るぱかりです。
木鶏とは言わすとも、無口程度にはなりたい。せめて、下らない争い事に使うエネルギーを良い方に使いたい。
それをこれからの目標にしたいと思います。
そこで、体調次第のところもありますが、せめて、中断中になっている二つのブログは完結させるか何らかの決着がつくまでは進めようと思っています。
2013年10月8日火曜日
結構我慢していたと思うんですよ
もともと、やりたくもないことを無理にやらされて、そのことに味をしめた連中が相変わらず好き勝手やっているという認識です。要するに心が無いですよ彼らは。何とかじんとか切れやすいとでもなんとでもいえばいい。知ったことでないです。
ほんとうに、思想は嫌いなんです。イヤで仕方がなく、心の重荷でしか無いのです。
ソレで仕事ならまだしもねえ。ただでとか何考えているんだ。なんもわかってないくせに偉そうにだけはするんだからたちが悪い。それが封鎖の最大の理由です。
何もやってないと思われたり嘘をついたりする人もいますので、痕跡は残し、秘仏のようにごくまれに公開するということにします。
以上終わり。
2013年10月6日日曜日
あなたのお子さんは本当に引き算ができますか(2)
引き算を教えられてある程度、できると思い込んでいる子供さんがいます。例えば、
987-543=
というような問題であれば、上の桁から10を借りてくることもなく計算できますから、すらすらと答えを出せるお子さんは多いと思います。
ところが、次のような場合、
62-33=
29とうまく答えを出せる子供さんの中には、上の桁から10を借りてきて、ということを、パタンとして覚えているお子さんもいらっしゃり、そのようなお子さんの場合、
301-32=
という問題がうまく解けません。どういうことかというと、301の十の桁が0であるため、さらに百の桁から十の桁に10を借す、ということが、桁上がり桁下がりの概念がわからないためにできないということです。
このようなお子さんの場合、たとえば、100円を1円玉に崩したら何枚になりますか?というような質問で、まず、100円玉は10円玉10枚になり、10円玉1枚は1円玉10枚になる、ということはわかっても、100円が10円玉10枚で10円が1円玉10枚だから、あわせて20枚、という返事が返ってきたりもします。
さらに厄介なことに、最近はゲームをやる子供さんが多いために、
300-19=
というような後ろに0が二つつく場合にはパターンを覚えていて、正答できたりするので問題の根は深くなります。つまり、百の桁は一つ小さくし、十の桁は9にして、1の桁は10にして引き算をする、ということを丸暗記して引き算を行っている場合がしばしばあるようです。
とりあえず、わたしは、まず引き算になれてもらうために、下の図のような問題によって、パターンを特定できないようにしたうえで、検算もやってもらうことで、桁上がり桁下がりの概念を理解してもらおうとはしています。
このような問題を多数解いてもらうことで、とりあえず引き算についてうまくできるようになったというお子様は多いです
しかしながら、引き算はうまくできるようになっても、まだ、割り算はあまりうまくできないというお子さんもいらっしゃり、対応に苦慮している状態ではあります。これについて、また何かいい結果が出たら、お知らせすることもあるかと思います。
あなたのお子さんは本当に引き算ができますか(1)
そこで、算数を教えているといくつかのポイントがあります。例えば、割り算ができないという子をいろいろ調べてみると実は引き算からできない。どうして引き算ができないかというと、桁上がり桁下がりの概念がよくわかっていない、というケースがしばしばあります。
そこで、今回、引き算を中心にこのごろの小学生の算数についてお話しようと思うのです。
まず、我々、いわゆるバブル世代(と呼ばれるのはいい思いを何もしなかった私にはすごく抵抗があるのですが)と違うのは、算数を教えるときに工夫して計算しなさい言うことを教えているようです。
例えば、
29x8=(30-1)x8=240-8=232
というのが典型でしょうか。我々のころと違い計算機が発達したためか、力づくで間違えないように計算するというより、工夫して計算するということを勧めるよようになっています。
ほかに
300÷25=(300x4)÷(25x4)=1200÷100=12
などですね。
割り算の説明もよく工夫されています。ある教科書の例を参考に説明すると、
57枚の折り紙があります。これを3人に分ける場合、
1)10枚ずつの折り紙の束をひとつずつ3人に配る
2)残りの10枚の束二つをばらばらにし、ばらばらになった折り紙27にする。
その27枚の折り紙を3人にそれぞれ9枚ずつ配る
というように、まず、上の桁から割り算を行うと効率が良いということをうまく説明しています。
しかし、この場合問題になるのが引き算。桁上がり桁下がり、という概念がよくつかめていないお子さんは、割り算を行う際の引き算からすでにうまくできずつまづいてしまうという場合が多いようです。
次回は、本題の引き算についてお話します。
2013年9月27日金曜日
二人静の活動を再開する前に申し上げておきたいこと
2013年9月3日火曜日
公開停止していたブログの公開
ようやく清々しましたので、公開停止していたブログを再び公開します。
これからは静かに、普通に暮らせますよう、ご理解ご協力をお願い致します。どうか、頭の悪い、馬鹿でマヌケな田舎者をこれ以上から買ったり、搾取しようとしないでくださいませ。
なお、今年のノーベル文学賞の最右翼は、もちろん村上春樹さんです。
http://www.nicerodds.co.uk/nobel-prize-in-literature
2013年8月31日土曜日
面倒だなあと思って書き始めたが、結局自分が悪いのかな、という結論に達した ゲーム理論を説明しようとした文章
参考はいつもの様にウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/ゲーム理論、http://ja.wikipedia.org/wiki/二人零和有限確定完全情報ゲーム、など)です。
ゲーム理論というのは、例えば、チェスのように、自分の行動だけをコントロールできる決定を、自分で決める場合に、利益を最大化するにはどうしたらいいかという理論です。
もともとは、確率の理論と同じように、ギャンブル、もしくは先に言ったチェスのようなゲームで勝つためにはどうしたらいいか、という理論です。
これが最近では、経済学にも採用されて、知らないとちょっと困る常識的なお話に現在はなりつつあります。
さて、このようなことを考えていく時に、ルーレットのように基本的に純粋な確率での勝ち負けを計算できるもの。あるいは、チェス、囲碁、将棋など偶然性に頼らないもの。思考力を必要とするものの偶然性を利用しているバックギャモンや麻雀のようなものの三種類に分かれることがわかります。
ルーレットのような基本的には純粋に偶然に頼るもの、に関しては、思考力の介入する場面がありませんから、これは、ゲーム理論の扱う分野ではないということはわかっていただけると思います。
さて、その他の思考力を必要とするゲームはいくつか分類することが出来ます。
まず、意思決定に必要な情報が、全てあるかないか。たとえば、カードゲームや麻雀のようなものは、相手のカードや、山など伏せてある情報がありますよね。こういうものを不完全情報ゲームといいます。
チェスや囲碁、将棋、あるいは偶然に頼るとはいえ、バックギャモンのようなゲームは、意思決定に必要な情報は全て揃っています。これを完全情報ゲームと言います。
さらに、偶然に頼るか頼らないか、に関しても分類でき確定、もしくは不確定ということばで分類します。完全情報ゲームでも、チェスや囲碁、将棋は確定完全情報ゲームといい、バックギャモンは不確定完全情報ゲームと言います。
ほかに、いつか勝負がつくものや付かないもの。勝つ人と負ける人(もしくは引き分け)の数が等しいかどうか、あるいは、ゲーム参加する人の人数、ということで、有限、無限、とか、ゼロ和、非ゼロ和、とかその他人数などという分類もあります。
ややこしいですね。
さてチェスは二人でやり、いつか決着がつくゼロ和(一方が勝ち:+1、その時一方は負ける:-1、もしくは、両方引き分け:0とすると、両方の点の和は0)する確定完全情報ゲームということになります。
このような二人有限ゼロ和確定完全情報ゲームは、確率と対照的に、もし短時間にすべての手を読んでしまえるような能力があれば負けることないという意味で、ゲーム理論の基礎となるようなゲームであることはおわかりいただけますよね。
このようなゲームでは、計算能力、もしくは経験、もしくはその両方を持つことがモノを言うということになり、理論的には、実力が上の人がかならず勝つ、ということになります。
それに対し、その他の、不確定に分類されるもの、あるいは、不完全というものに分類されるものは、確率、あるいは、偶然、というものに勝敗が左右される要素がそのゲームに本質的にあるということになります。
現実には、確定完全情報ゲームでも手を読みきれないために、ゲームとして成立し、不完全、不確定という分類ができるゲームと同じ要素が存在する、ということになるわけです。
このへんが難しいところで、したがって、不完全、不確定、と分類ができるような、麻雀でもバックギャモンでも思考の介在する要素があるという事になるのですが、本質的な部分で、確率とか偶然が存在するかどうか、という意味で違うゲームであるということはご理解いただきたいと思います。
さて、人生はチェスや将棋のようなものでしょうか、麻雀やバックギャモンでしょうか。私は、本来はチェスや将棋のようなものだ、と思いはするのですが、情けないことになかなかそれを納得できず、いつも死にたいなどと喚いているわけです。
情けないですね、我ながら。いつもそうは思うのですが、なかなか、ね、というのは、本当にお恥ずかしい次第。結局は自分が未熟だということなんですけどねえ。なんでですかね、そう納得することが出来ないのは。
2013年8月27日火曜日
夜中に目が覚めて
2013年8月25日日曜日
ふと思うこと
また、MSのスティーブ・バルマー氏がCEOを退くという。堅実な経営ではあったが、パソコンの時代からスマートフォン・タブレットの時代となりつつある現在、アップルやグーグルの台頭もあってライバルから見てやや成長という面では遅れを取るようになってきたという中で、MS自体もアップルのように端末の販売で成長していくということも考えているようだ。
アップルのおかげでものづくり2.0などという言葉もできた。中国の台頭もあり、また人口減少社会の日本では以前のような大量生産、大量消費の時代ではなくなりつつもあるだろうが、日本の産業も製造業中心から観光・金融サービス産業中心、あるいはソフトウエア中心の産業構造に移行すべきだ、という意見もあった。
大きなトレンドで見れば、そういうことになっていくのだろう。長らく続いたデフレと円高で電機を中心に工場は海外移転し、製品は輸入額のほうが輸出額より大きくなっているものもある。また、日本にはグーグルやMSあるいはアップルも入れていいのだろうがソフトウエアに関しては、著名な企業はない。わずかにLINEが有名だがこれはもとは韓国企業の子会社ですしね。
製造業は、まだまだ行けるはずだ。ただし、これまでとは違う形になるかもしれない、というのは3Dプリンタの盛り上がりを見て分かる通り。出版界や音楽産業は衰退したかもしれないが、しかし、どうだろう、例えば初音ミクのように専門家というより一般の人たちがよりたくさんの傑作をネットで溢れさせている状況を見れば、ものづくりもまた、違う形になっていくかもしれない。製造業の変容がどうなっていくのか、楽しみでもある。
2013年7月27日土曜日
健全という病気
小さな子どもたちの話は興味深く専門家の方の話を聞いていたが、ある程度、そう、思春期にあるような子どもたちの作文の解釈がとても私には不思議だった。ああ、この人達は、理不尽ということに直面したことがないのだなと思った。
こういうと、きっと怒る人がたくさんいるだろう。わかっている。しかし、日本はつい六〇年前に理不尽という理不尽を味わってきた。戦争ほどひどい理不尽はあるか。これに直面して来なかった。私はそういうことを言いたいのだ。きっと、そういうことはなんにも考えず、安定した平和の日本にそれが当然として育ってきた世代が改めて、理不尽に直面してああだこうだ言っている、私にはそういう気がした。
昭和というのは、何だったのか。それを忘れたときに震災が起こった。その理不尽さは私をして、そういう理不尽さを忘れてしまったから震災が起こってしまったのだろう、などという変な感傷に耽らせる。
人は死ぬよね。私が高校生の時、同級生がバイクの事故で死んだ。テニスが好きな普通の男の子だった。仲がいいというわけではなかった。お葬式の日に持って行こうとした花束に蜂がいて、耳の裏側を刺された。今日と同じぐらい暑い日だった。お葬式ではひとり気分が悪くなり耐えられなくなり座った。出棺に火葬場へ一緒に行こうと彼と同じ小学校の校区の同級生に誘われたがなぜか行かなかった。どういうことかがわからなかったから。
彼のご両親が、われわれが書いた追悼文をまとめて本にしてくださって、渡していただいた。皆、感傷的なことを書いていた。一人、何か、一つ一つ整理して書いていた。ちょっと違うね。と誰かが言った。そいつとは、大学に入ってから墓参りに行った。でも、もう行かなくていいんじゃないかといったので行かなくなったが、今でもなにか割り切れない気持ちがしている。そういうものなのだろう、と思いつつも。
何かを整理して書こうというのは、怒りがあったからだろう。震災前が住み良かったとは限らない。震災後が悲惨であることは変わりがないが、理不尽は、等しく襲い、それぞれに違う結果を残した。痛みと怒りに向き合わざるをえないとき、一つ一つを整理して、残す。自分の痛みに気づかないふりをして。痛みに浸るということがよくわからないから。すこしずつ満ちる痛みに負けたくないと思いつつ整理しきれない気持ちを、何とかしたいと思うから。それが理不尽というものでしょう。
改めて思う。私が子供だった頃、皆がとてつもなく大きな理不尽を当たり前だと思っていた。当たり前だと思わなくなっている世代が居ることに、私は改めて衝撃を受けた。子どもたちのほうが、心の傷は深いだろうが、実は健全なのではないだろうか。当たり前に、普通に、という思いを平和な時代に育った人間の感覚を、私は病気だと感じる。
彼らの中には大変に苦労をして、それなりに頑張って道を切り開き、幸せにあることを得てきた人達もいるのだろう。
しかし、あるいは違う彼らはきっと、形式だけ残されて幸せに育ったのかもしれない。例えば、ご飯の食べ方だけはやたらにこだわるというように。そして、他人を怠け者だと非難して、その自分のものではないはずの権力の座にしがみつこうと、必死に他人に理不尽を押し付けているようにして。
分からない。ただ、私が今でも高校の時に亡くなった同級生を思うとき、胸が痛む。理不尽は突然やってきて日常を奪う。しかし、日常は強い力でやってきて、理不尽への感傷を奪う。そのやりきれなさが、彼らにはわかっているのかいないのか。それは分からないが、日常への嫌悪だけを実は取り上げたいのだというのであれば、それもまた間違っている。健全に育った自意識の病気だと思う。
2013年7月24日水曜日
何も変わりはしない
まず自分たちのものにし続けたいのだ
2013年7月4日木曜日
公開停止を無期限に延長します。
2013年7月1日月曜日
2013年6月12日水曜日
所詮誰しもみんな自分のことしか考えていない
2013年5月29日水曜日
結果としてマイナーになる
例えば、である。私の若い頃は、半導体は産業としてかなりメジャーであった。就職し、そこで頑張ろうと思ったが、専門的な部分では細分化が激しかったことやそろそろ最も日本の半導体が強かった分野でメジャーだったDRAMも淘汰が始まっていて、いろんな方向性を探す時代にあって、最先端な部分をやっていれば、それはマイナーな部分になってきたというのがあった。
学生の時もそうだった。私はごく若い頃から人工知能に興味を持っていた。学部生の頃には第4世代コンピュータ(これは結局失敗に終わるのだが)というプロジェクトが国家的に推進されている時代で、人工知能は研究の先端でもありそれなりにメジャーな分野だった。
半導体にしろ人工知能にしろ、デジタルの時代であり、記号論理学は必須の項目であった。それが、たまたま私の性に合っていた。半導体もCPUはインテルが強くはあったが一極というほどではなくSUNのSPARCや後にIBMに吸収されるモトローラの半導体部門が製造していたMC68000などもそれなりに勢力があった。RISCかCISCかどちらが効率のいいアーキテクチャか競われている時代だった。ただ、日本は先も述べたようにDRAM全盛。それから少量多品種などという迷走を加え、消滅の危機にあるのだが、それはさておき、世界的にメジャーな分野での先端研究をやっていた。先端研究が最盛期の産業技術よりマイナーなのはしかたがないと思う。
そういう意味で、その後取り残された分野が再び注目されるようになったということが、私なりの解釈である。小林秀雄さんのことについては、単純に好きだったというだけのことだ。田舎者でかつ理系ということもあり、日本の中央の思想界のことを知らなかったという事実は間違い無くあるだろう。しかし、読書は良くしていた。村上春樹さんは好きではなかったし、吉本ばななさんもそうであったが、村上龍さんや宮本輝さんの本はよく読んだ。小林秀雄さんが菊池寛の事を良く言っていたことやエドガー・アラン・ポーのことなどを述べていたことに影響を受けたことや、高校時代からハードボイルド小説が好きだったこともあって、特に北方謙三さんの本をよく読むようになり、純文学よりむしろエンターテイメント小説のほうが優るのではとも思うようになりそのうち花村萬月さんが芥川賞をとった。
要するにそういうことだ。大学の卒業時期はバブル全盛期の末期だった。そこでなら就職は困らなかっただろうが、人工知能の研究をしたかったので進学した。それがメジャーでないといわれるとなんだかしっくりこない。ただ、自分の思うこと、やりたいことをやっていたということが、結局はメジャーではなかったけれど、新しい可能性を発見するきっかけになってきたということだと自分では思う。
2013年5月11日土曜日
天皇主権ということについての面倒な問題
2013年5月10日金曜日
やっぱりすごいね、マスコミの人たちというのは
どうしたものでしょうか。とにかく、またいくつかの記事の閲覧停止を検討しております。おそらく一週間以内になると思われますので、現在公開中の記事を個人的に利用される方早めに何らかの合法的な処置をとられることをお勧めいたします。
2013年5月3日金曜日
気分悪い
だいたい、不満なことは、別のブログに書くようにしているのですが、どうにも収まらないのが若い連中。いじめをしてやらないんだぞといういじめを始めています。呆れ果てる。どう考えても、彼らはいじめをやっているし、いじめることを権利と勘違いしている。他人を利用することが権利だと言わんばかりです。弱者だから当然と言う権利を持っていると思っているのでしょうか。若くて健康であっても弱者というのはどういう勘違いの仕方をしているのか。いじめることだけが得意だから、権利を主張する特権があるとでも言わんばかりです。
そういう人間が世の中を混乱させ悪くしているとは思わず、正義の味方ヅラし、権利ばかりを主張する。義務も努力もせず、うまい汁を吸うことばかり。あるいは、人の嫌がることをすることが権利だと言わんばかりです。不思議な人間たちですよね。連中は。ガソリンスタンドの人間とかもそう。相変わらずです。カメラの画像チェックするかな。やれやれです。手間ばかり増えて、ストレスばかり増える。何を考えているのか、世間様は。
2013年4月14日日曜日
将棋が強いとはどういうことか
Puella α(プエラ アルファ)の作者である、伊藤英紀氏はコンピュータ将棋はすでに、名人を凌駕したとおっしゃったそうです。その根拠を、氏のブログ(A級リーグ指し手一号)の4月3日分のタイトル「現状認識@2013年4月」という記事において、レーティングの点数からの類推として述べておられます。つまり、現在までのレーティングの点数で人間のプロ棋士におけるレーティングは名人で約1,900点、それを将棋24など、コンピュータ将棋も参加できるレーティングでは何点。計算量を増やせるようにすることにおいて数百点は上乗せできるのでその換算で行くと、レーティングから見た場合、コンピュータ将棋は名人を上回る、というのが理由となっています。
さて、レーティングというのは、大雑把に言えば平均的な強さの目安となっています。強い人に勝てば点数は多く増え、弱い人に負ければ多く点数が減る。同じぐらいの人には勝ったり負けたりだから、だいたい同じぐらい強い人同士は同じ点数になるだろう、ということです。
さて、伊東氏の思考は平均的に強い、ということがレーティングで表せる、ということで、名人よりもコンピュータが強いと主張されているわけですが、その平均的に強い、というのはどういうことでしょう。わたしは、その時点で氏の思考が終わっていることに少々違和感を覚えるので、穿った見方をしてみたいと思います。
平均的に強い、というのは、氏の考えでは、間違わないということと同義でしょう。将棋は読みのゲームであり、序盤中盤は、できるだけ終盤において相手の王様を詰める可能性が多い道筋をたくさん残すような可能性のある手を指し、最後には読みにおいて相手を上回り止めを刺す。これが将棋の本質であることは間違いありませんから、氏の考え方には十分な説得力があるようにも見えます。
しかし、それは、これまでの膨大な将棋のデーターベースがあってそれによる数学的帰納的な演繹(計算)方法が確立されている、という前提があるから故です。実際将棋というのは、すでにそれくらい成熟していると言っても過言ではないでしょう。しかし、電脳戦の第一局で阿部 光瑠(あべ こうる) 四段が、習甦(しゅうそ)の弱点をついて勝利を収めたというのは、効率的な帰納推論の弱点をついたものといえるでしょう。
わかりやすく言うと、例えば、名前のつくような戦法が新たに発見された時にコンピュータソフトは自身だけでその戦法に有効な対応策を考えられるかという問題があります。たしかに、現在のコンピュータ将棋は力将棋に持ち込まれても十分に勝てる実力を持っていますが、新戦法、あるいは、実践例が少ないような、今回の塚田九段の採られたような入玉ということにおいての対応は十分取れていないでしょう。
つまり、コンピュータは、新しい戦法を作り出せないし、新戦法が編み出された時に自身のみでは十分に対応が取れない(もちろん作者のサポートがあれば可能かもしれませんが)という点で、必ずしも名人よりも強いとは言い切れない本質的な問題点を抱えているということです。
言い換えれば、コンピュータ将棋というのは、二つの意味があり、狭義で言えばコンピュータのみで将棋を指すということでしょうが、広義のそれとしては、試合で将棋を指すのはコンピュータではあるが、実際にその戦法やアルゴリズムの改良においては人間の手助けがまだ必要である、という部分を含んでおり、伊藤氏は、広義と狭義を明らかに混同して用いられており、その上でコンピュータ将棋は名人よりも強いと言われているように思われます。
2013年4月2日火曜日
2013年3月21日木曜日
さらなる抗議のための閲覧停止記事の追加に関して
ある程度、年齢が行った女性の方でも女子と言いたがるのは若さや容姿にしか女性の価値を見いだせない現状があり、また、そのような人たちが実際に起こす下劣な行動を言葉で糊塗をしようとすることにほかならないという批判をしたつもりですが、異常な捉え方をし、わけの分からない屁理屈を述べて、あくまでも自分の責任や行動に悪いことはない、私という人間の過去がひどすぎるからだ、などということを述べておられるようです。
よろしい、全面戦争ということですね、ということです。
記す
マスコミ関係者と思われる人達その他の言動は、全く反省の色が見られず、あくまで責任はすべて私にあるかのごとく私に対して非難をする姿勢を変えず、歩み寄ろうという点も全く見られず、さらに、その言動は悪質極まりないためさらに以下の記事を閲覧停止に致しました。悪質さは極めて異常とも言え、さらなる記事の閲覧停止も近々公表する予定です
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その6 第六節 諸観念の連合ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 精神と記憶 その8 第八節 意識の多様な平面ベルクソン「物質と記憶」メモ
2013年3月21日
2013年3月15日金曜日
二人静一部コンテンツの閲覧停止について
かねてから告知しておりましたとおり、二人静のコンテンツのうちいくつかの記事を閲覧停止にしました。様々ないじめ、嫌がらせ、搾取に抗議するためのやむを得ない措置です。どうか、ご理解とご協力を賜りますようお願い致します。
閲覧を停止したのは以下の記事です。
小林秀雄さんの思想メモ
・小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について
・「本居宣長」の出だしについて
・New Ageと小林秀雄
・わかったと言えばわかっている。わからないと言えばわからない
ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と時間」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」 第五節 「延長と伸張性」...ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」 第四節 「持続と緊張」ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その5 第五節 一般観念と記憶 (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その4 第四節 過去と現在の関係 (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (中)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と記憶 その4 想起と運動 (中) (mixi:2009...ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動 (上) (mixi:200...ベルクソン「物質と記憶」メモ
2013年3月5日火曜日
コンテンツ閲覧の制限を検討しております
記
内容:二人静内のコンテンツのいくつかの記事の公開停止
期間:3月15日より無制限
予告しておりますのは、それなりに準備が必要な方もいらっしゃるかもしれないという配慮です。どうぞご理解ご協力をお願い致します。