2013年12月5日木曜日

ブログ「P=NP?問題の覚え書き」の目次に相当するページの公開のお知らせ

SNS Google+でも同様の内容でお知らせしておりますが、ブログ「P=NP?の覚え書き」について、これまでの公開記事の内容を簡単にまとめた目次と概要を兼ねたページを作成しましたので、公開いたします。もう少し見やすくしたいとは思っているのですが、利便性を高める必要を常々感じていたため、内容的に十分であれば早めに公開した方がよいと判断しました。 ご意見ご要望などの他、間違いのご指摘なども是非お寄せ頂きますと大変ありがたく思います。どうぞよろしくお願いいたします。

2013年12月4日水曜日

ブログ「P=NP?問題の覚え書き」の記事の内容についての一部修正

ブログ「 P=NP?問題の覚え書き 」の記事「 このブログを再開するに当たってのこれからの進め方 」の内容において、一部大きな過ちがありました。お詫びして訂正いたします。


誤)「 3.モノトーン(否定のリテラルがない論理式)のサーキットがクラスNPである事を証明する」

正)「 3.モノトーン(否定のリテラルがない論理式)のサーキットが多項式時間以内で解けない問題である事を証明する」


また、他にこのあとの、上記のを説明した部分も併せて修正しております。読者のみなさまには大変なご迷惑をおかけし、まことに申し訳ありませんでした。

2013年12月1日日曜日

限定公開中のブログの期間限定一般公開について

現在、限定公開中のブログがいくつかありますが、12月から来年1月にかけて、一般公開とさせて頂きたいと思いますので、ご拝読頂けましたら恐悦の極みに存じます。

2013年10月31日木曜日

ブログ「パーセプトロンが線形分離可能であることについて」の閉鎖について

正式な苦情も、謝罪もなく、何やら嫌がらせさえある状況ですので、やむを得ないと思い閉鎖することに決定しました。メモと交互に公開ということも一応考えたのですが、まだ、嫌がらせをすれば、私が何かするというように思っておられる方も多いようですので。

当分、他のブログの記事の更新に関しても、お休みを頂くつもりです。別に全ブログを閉鎖しても、私はしかたないと思います。マスコミやタレントを始めとしたそれに影響される世間がこんなに薄汚い真似ばかりしているのであれば、当然の措置といえるでしょう。

本当に自分勝手な、学級崩壊状態にうんざりしていますよ。黙ることさえ出来ないというプライドはどこから来るんでしょうね。単に、不当に高い地位と収入を得ている後ろめたさから来るものじゃないのかとさえ思ってしまいますね。どうしようもないですよね。ふふ。

2013/11/04追記

そういえば、土曜から日曜にかけて、夜帰宅の時にいい車に乗っている連中が、信号が青になった途端クラクションを鳴らしたり、してきたのがあったな。違うかもしれないけど、前にクルマがいたのに、わざわざクラクションを鳴らしたから、一応念のために記録しておこう。

2013年10月28日月曜日

かけ算とわり算について(2)

さて、今回はわり算について少し考えてみたいと思います。

前回(かけ算とわり算について(1)) では、かけ算について、同じ値の足し算をいくつも行うときに効率よくやるやり方、ということを説明しました。

ということは、同じ値の引き算について効率よくやるやり方、というのも当然、存在するはずです。もうおわかりだと思いますが、それがわり算ということになります。

つまり、120円のりんごを5個買うときの値段が600円なら、逆に、600円払ってりんごを5個購入したら一つあたりのりんごの値段はいくらになるかというと、当然120円だろう、ということを求めたい。しかし、引き算でいくつ買えるかということを求めようとすると、これは、600から、5を120回も引かないと(あるいは、5を120回、足し算をして600と釣り合うということを引き算をして確認しないと)いけないわけで、大変だいうことになるでしょう。おまけに600円と5個いうように単位も違いますしね。

すこしコンガラガってきましたが、こういう場合、我々はイメージでは、600というまとまりを5分割しようとかんがえたほうが想像しやすいですよね。では、その5分割したときの答えが120というまとまりになるということを求めようするとき、どうすれば、効率よくやれるか、ということの方法として確立されたのがわり算ということになるわけでしょう。

あなたのお子さんは本当に引き算ができますか(1)で説明した教科書からの例を再掲すると、


 57枚の折り紙があります。これを3人に分ける場合、

  1)10枚ずつの折り紙の束をひとつずつ3人に配る
  2)残りの10枚の束二つをばらばらにし、ばらばらになった折り紙27にする。
    その27枚の折り紙を3人にそれぞれ9枚ずつ配る


というように、まず、上の桁から割り算を行うと効率が良いということでした。これは、かけ算と同じように、引き算の繰り返しをわる数との九九で上の桁から比較(ここに引き算を用います)しながらやっていく方法です。

 だいたいのお子さんは、ここまで説明すると、一桁の数で割るわり算はすぐにできるようになります。

しかし、問題は、割る数が二桁以上になる場合です。なぜなら、二桁以上の数のかけ算の九九はふつうすべて覚えることは不可能ですから、そこで、試行錯誤が必要となるからです。

例を挙げて説明しましょう。

 ① 60÷30

という、二桁同士の数の比較的簡単なわり算を考えます。わり算になれている方なら、簡単に2という答えが出てきますが、初めてわり算を習う人には、ここは基本中の基本であっても大変難しい問題なのです。この場合、学校の授業では、

 60÷30

は、

 6÷3

と同じ、

ということから教わります。わる数とわられる数が同じ数で割れるときは、割って良いというのは、分数でも出てきますが、これを理解するところから始めて、10の倍数の場合はわる数を一桁にすると、九九が使えるようになり、そこで初めて、以前に習ったわり算と同じ問題になる、ということを、まず、理解しないといけません。

このようなことを理解して初めて、

 ② 72÷36

というような問題を、わる数とわられる数を四捨五入して
 
 ②’ 70÷40

のような問題として考え、さらに

 ②’’ 7÷4

として商の手がかり求めるという手順を踏みます。

ところが、7÷4の商は1ですが、もともとの問題は、72÷36ですので商は2ですよね。ここで、ならいたての小学生は、72÷36の商をはじめは1として72-(36x1)=36という計算をして、余り36などとそのまま答えてしまうのです。

つまり、かけ算までは、一回で正しい答えが出てきますが、わり算になると、先ほどもいいましたが、試行錯誤が必要となり、余りの36がわる数より大きいか等しいならば、商を増やさないといけないし、逆に0より小さくなるようならば商を減らさないといけない、というこれまでやったことのない方法を学ぶ必要があるということです。

※ さらに、わる数が14と15の場合、四捨五入なら14は10、15の場合20となり、わる数は実際1しか違わないのに、見当をつけるための数が2倍になってしまいます。見当をつける数が2倍違うということは、そのときの商と目安を付ける数がたとえば、60÷10=6ですし、60÷20=3と2倍も違って来るということになるのです。

このように、わり算を良く検討していくと様々な落とし穴があるために、つまづきやすいということが良く解ります。

私がこれまでいろいろ試した結果、効果があったことは、

 1.わり算を効率よくするために上の桁からするということを理解させるために、一度説明した後、わり算を行うときに実際どうするのか、ということを児童がこちらに説明する

ということをまず行い、わり算についての方法論を理解してもらいます。

しかし、試行錯誤が必要だということを、なかなか理解できないというお子さんもいらっしゃいます。その点については、

 2.いろんなパターンの問題がすでに教科書や参考書にあるので、それを繰り返しといてもらう

ということをいま行っているところです。

ほかによい方法などもきっとあるのだろうとは思うのですが、現在のところ、このような状況です。

本当にわり算というのは、かけ算、およその計算、分数の約分のようなことを理解していて、初めて商の見当がつき、さらにその見当をつけた商も必ずしも一度で決定できる正しさを持っていない、という大変さがあります。さらに、また、その試行錯誤の過程で、引き算も正しくできないといけない、という問題もあります。このように、大変なわり算。小学校4年生の秋から本格的に習いますが、抽象思考に対する発達の差やそれまでの学習に対する理解の程度、など、一様な学力を持っていないこともあり、つまづくお子さんは多いと思います。わり算に関しては、習いたてのお子さんには本当に大変だということをご理解いただき、丁寧なご指導を教育関係者並びにご家庭にお願いする次第です。

2013年10月26日土曜日

かけ算とわり算について(1)

以前(あなたのお子さんは本当に引き算ができますか(1)(2))わり算が出来ない原因の一つに、引き算がきちんと出来ないために、結果わり算も出来ない、というお子さんがいらっしゃることをお話しました。

ところで、それからさらに進んでいくと、今度は、かけ算とわり算の意味をよく理解されていないお子さんがいらっしゃることがわかってきました。

九九を覚えてかけ算の問題は一応できるものの、実際の応用となると、その意味がわかっていないために、問題が解けないというケースが有るようです。そこで、まず、今回はすこしかけ算について見て行きたいと思います。

まず、下の九九の表を見ていただきたいのですが、どの段も、上と下の行の差はその段の数(1の段だったら1、2の段であれば2)となっていることがわかると思います。つまり、かけ算は、日常良くある同じものをいくつも足すことを効率良く行うための工夫ということなのです。



具体例を挙げてもう少し、詳しい解説をしてみましょう。

よくある例としては、1個120円のりんごを5つ買うということを考えてみましょう。

足し算で考えれば、このりんご5個の合計の値段は、

120+120+120+120+120=600(円)

ということになります。これをかけ算を使うと、もっと簡単に、

120x5

という式で表せ、もちろん、合計は600円と同じです。

さて、この時(かけ算で答えを求める時)どういう計算をしているかというと、

          1の位の数が0なので、
           0(円)x5(個)=0(円)

これに加えて、

         10の位が2なので、
           20(円)x5=2x5x10=10x10=100(円)

         (この計算がわかりにくいというひとは、

           20円は10円玉が2枚だから、
           10円の部分は、10円玉が2枚が5個分で10枚
           10円玉が10枚のときの価値は100円

          というように、具体的に思い浮かべながら考えるとわかりやすいです)

さらに100の位の部分を考えると、

         120円のりんごを買うときに必要な百円玉は1個ですから、
           100(円)x5(個)=500(円)

というように、それぞれの1の桁、10の桁、100の桁の部分を掛け算し、それを合計、つまり0+100+500という計算をして600円になるということになります。

どうでしょうか、かけ算について、改めて考えてみると、面白いですね。

つまり、かけ算は、足し算をたくさん繰り返すのではなく、例えばりんご1個120円であれば、120という数字の各桁は、0から9までの数字で表せるので、各桁のかけ算に分解して、足し算してやれば、どんなに多い個数でも、各桁の回数分だけ(正確に言えば、かけられる数と、かける数の桁数を掛けあわせたものですが)に計算量が抑えられる、という仕組みなのです。

われわれが何気なくやっていることも、一つ一つ見ていこうとすると意外と難しいですよね。

ちなみにコンピューターは、単調なことを素早く繰り返すことが得意ですから、基本的には、かけ算も足し算として計算します。もっとも、最近は、乗算器という独特の仕組みのものを持っているものも多いです。GPUコンピューティングなどはこういう乗算器のようなしくみををうまく使ったやり方だったりもしますね。

2013年10月24日木曜日

ブログ「パーセプトロンが線形分離可能であることについて」公開停止に関して

マスコミおよひ芸能関係者よる嫌がらせの為に、一部ブログを無期限の公開停止にし、その後解除してみたものの、数ヶ月と経たないうちに、また、世間からさまざまな嫌がらせをうけるようになりました。

もともと、ノーベル賞云々のこともあり、それ以前にも、悪質なデマを広く頒布するなどの迷惑行為をうけ、彼らによる精神的被害は、はかりしれません。

何年にも及ぶ、執拗かつ悪質な嫌がらせに、これまでも、様々な抗議活動を行ってきたものの、最も強いものでも一時的な効果しかなかった、という悲しい現状があります。

従いまして、抗議のためにパーセプトロンに関するブログのの永久的公開停止を検討しております。

代表者による文書による公式な謝罪を要求せざるをえまい、と考えているところです。

公式な異論、もしくは謝罪のない限り、11月以降の永久的な公開停止とし、内容の証明ための一時的公開をするという方向で考えております。

以上、よろしくお願い致します。

2013年10月23日水曜日

「ベルクソン「物質と記憶」メモ」の下書きについて

「ベルクソン「物質と記憶」メモ」の下書きをブログ「徒然の種々」にて公開しておりますが、ご存じの方も多いかと思いますが、第三章以降、大変不正確な記述と、当時やらされているということからくる不満に満ちております。従いまして、現在、「メモ」の方を閲覧中止にしている関係上、一部メディアの嫌がらせも多い関係もありまして、必要以上の誤解を招く恐れも多いと判断し、徒然の種々も閲覧中止とさせていただきたく思います。ご理解いただけますよう、よろしくお願い致します。

2013年10月17日木曜日

私のブログの目的について

なぜか、私がブログを書こうとすると、様々な思ってもいないような反応があって当惑し続けてきた。

例えば地味だとか、シーズしか考えていないとか。

いつのまにかノーベル賞だとかなんだとかで無理矢理やらされたことなどまったく苦痛そのものであり、世間の嘘がと強欲が発覚した現在、のびのびと読書もできるようになり、将来の希望は無くなったにしても、このような環境を取り戻せたことを本当に幸せに感じている。

それなのに世間はまたも色々注文をつけ偉そうにも只働きを強要する。あきれてものが言えないとは、このことた。

ところで、現在は都知事となられた猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」をこの頃拝読していて、思い当たったのだが、私の行動を、大衆消費社会における消費財と見なしているのではないか、ということだ。

例えば、現在は、旧軽井沢と呼ばれている、一部の人だけのものであった別荘地を大衆にも頑張れば手が届く、そういう商品を提供していく、そのようなことと、同一視されたのであろう。

本当に苦笑せざるを得ない。

もともと、インターネットは、寄付文化であり、私はGNUのさまざまなソフトウェア開発ツールに感銘を受け、そのような良いことを、社会に対する感謝のきもちを表すために、いわば、恩返しとして、やろうと思ったのであり、その意味でまさしく、ツールとしての、知識を提供する事がそもそもの目的であり、消費行動のための商品ではなく、むしろ、創造を支援するための、知的財産(IP)を提供する事が大きな目的である。

何度も述べたことだと思うのだが、どうも、その辺りを取り違えておられる方が多数いらっしゃるようであるので、改めて、記事を起こし注意を促す次第である。

2013年10月13日日曜日

あまりにくだらないことばかり

この頃起きることと言えば、本当にどうしようもないとしか言い様のない下らないことばかりでストレスが溜まります。


しかし、その下らない出来事の中心にいるのは、私。我が身の未熟さには本当に恥じ入るぱかりです。


木鶏とは言わすとも、無口程度にはなりたい。せめて、下らない争い事に使うエネルギーを良い方に使いたい。


それをこれからの目標にしたいと思います。


そこで、体調次第のところもありますが、せめて、中断中になっている二つのブログは完結させるか何らかの決着がつくまでは進めようと思っています。

2013年10月8日火曜日

結構我慢していたと思うんですよ

何度も警告したり、スレッドまで作ったりで、見える化したり、わたしなりに我慢はしたんですが、年寄りのわがままぶりと、茂木の開き直り方には我慢の限界を超えました。

もともと、やりたくもないことを無理にやらされて、そのことに味をしめた連中が相変わらず好き勝手やっているという認識です。要するに心が無いですよ彼らは。何とかじんとか切れやすいとでもなんとでもいえばいい。知ったことでないです。

ほんとうに、思想は嫌いなんです。イヤで仕方がなく、心の重荷でしか無いのです。

ソレで仕事ならまだしもねえ。ただでとか何考えているんだ。なんもわかってないくせに偉そうにだけはするんだからたちが悪い。それが封鎖の最大の理由です。

何もやってないと思われたり嘘をついたりする人もいますので、痕跡は残し、秘仏のようにごくまれに公開するということにします。

以上終わり。









































2013年10月6日日曜日

あなたのお子さんは本当に引き算ができますか(2)

さて、本題の引き算に入りましょう。

引き算を教えられてある程度、できると思い込んでいる子供さんがいます。例えば、

 987-543=

というような問題であれば、上の桁から10を借りてくることもなく計算できますから、すらすらと答えを出せるお子さんは多いと思います。

ところが、次のような場合、

 62-33=

29とうまく答えを出せる子供さんの中には、上の桁から10を借りてきて、ということを、パタンとして覚えているお子さんもいらっしゃり、そのようなお子さんの場合、

 301-32=

という問題がうまく解けません。どういうことかというと、301の十の桁が0であるため、さらに百の桁から十の桁に10を借す、ということが、桁上がり桁下がりの概念がわからないためにできないということです。

このようなお子さんの場合、たとえば、100円を1円玉に崩したら何枚になりますか?というような質問で、まず、100円玉は10円玉10枚になり、10円玉1枚は1円玉10枚になる、ということはわかっても、100円が10円玉10枚で10円が1円玉10枚だから、あわせて20枚、という返事が返ってきたりもします。

さらに厄介なことに、最近はゲームをやる子供さんが多いために、

 300-19=

というような後ろに0が二つつく場合にはパターンを覚えていて、正答できたりするので問題の根は深くなります。つまり、百の桁は一つ小さくし、十の桁は9にして、1の桁は10にして引き算をする、ということを丸暗記して引き算を行っている場合がしばしばあるようです。

とりあえず、わたしは、まず引き算になれてもらうために、下の図のような問題によって、パターンを特定できないようにしたうえで、検算もやってもらうことで、桁上がり桁下がりの概念を理解してもらおうとはしています。



このような問題を多数解いてもらうことで、とりあえず引き算についてうまくできるようになったというお子様は多いです

しかしながら、引き算はうまくできるようになっても、まだ、割り算はあまりうまくできないというお子さんもいらっしゃり、対応に苦慮している状態ではあります。これについて、また何かいい結果が出たら、お知らせすることもあるかと思います。

あなたのお子さんは本当に引き算ができますか(1)

家庭教師も4年目を迎え、小学生のいるご家庭の指導も増えてきました。

そこで、算数を教えているといくつかのポイントがあります。例えば、割り算ができないという子をいろいろ調べてみると実は引き算からできない。どうして引き算ができないかというと、桁上がり桁下がりの概念がよくわかっていない、というケースがしばしばあります。

そこで、今回、引き算を中心にこのごろの小学生の算数についてお話しようと思うのです。

まず、我々、いわゆるバブル世代(と呼ばれるのはいい思いを何もしなかった私にはすごく抵抗があるのですが)と違うのは、算数を教えるときに工夫して計算しなさい言うことを教えているようです。

例えば、
 
 29x8=(30-1)x8=240-8=232

というのが典型でしょうか。我々のころと違い計算機が発達したためか、力づくで間違えないように計算するというより、工夫して計算するということを勧めるよようになっています。

ほかに

 300÷25=(300x4)÷(25x4)=1200÷100=12

などですね。

割り算の説明もよく工夫されています。ある教科書の例を参考に説明すると、

57枚の折り紙があります。これを3人に分ける場合、

 1)10枚ずつの折り紙の束をひとつずつ3人に配る
 2)残りの10枚の束二つをばらばらにし、ばらばらになった折り紙27にする。
   その27枚の折り紙を3人にそれぞれ9枚ずつ配る

というように、まず、上の桁から割り算を行うと効率が良いということをうまく説明しています。


しかし、この場合問題になるのが引き算。桁上がり桁下がり、という概念がよくつかめていないお子さんは、割り算を行う際の引き算からすでにうまくできずつまづいてしまうという場合が多いようです。

次回は、本題の引き算についてお話します。

2013年9月27日金曜日

二人静の活動を再開する前に申し上げておきたいこと

二人静の活動を再開しようと思いますが、正直、これまで散々私を苦しめてきた多くの人間が世間にはいるわけで、それが、暴走族のような連中のみならず、マスコミだとかタレントさんなども多いという現実に、私としても、これまでの経済的時間的損失は多大なものがある一方、きちんとした謝罪を受けていない、という現状でそうそう簡単に活動再開というわけには参りません。

タダ働きが当然という世間一般の見方に対して、次のような予防線を張らせていただきたいと思います。


【1.コンテンツの更新より、健康状態の回復、社会復帰を優先いたします】

誰がなんと言おうと、健康回復・社会復帰を第一優先とさせて頂きます。ノーベル賞がどうのこうのなど、ふざけたデマによって世間を踊らせてきた人たち、踊ってきた人たちの思うようにはもうなりません。何かありましたら、即座に中止。悪質と判断された場合は、現在公開中のコンテンツもすべて無期限で公開停止にいたします。

例えば、今日( 9/25/2013)どう見ても反省のない年寄りが`今日も睨みつけて行きましたが、そのような方がいらっしゃれば、こちらとしても、無理をして本当は静かに読書でもして健康を回復させたいと思っていながらやっているにもかかわらず、という思いもありますし、普通に気分も良くありませんし、そのようなことが続いている現状において少なからず、健康状態にも影響しておりますので、中止の上、反省を促す意味も込めて、コンテンツの公開停止をせざるを得ないということです。どうぞご理解ご了承の上、ご協力いただきますようお願いいたします。

また、ノーベル賞の件が最たるものですが、これまでも、何度もお人好しにもいろいろ他人のためにやってきたと思いながらも、裏切られ、嫌がらせを受け、その上、そのことによって、私が何かするのが当然、という風潮には我慢も限界に達しています。これが最後の機会である旨を、しっかりと世間は胸に刻むべきだと、私は思いますし、客観的に見ても正しいと思われます。

もう一度繰り返しますが、世間はこれが最後の機会であると胸に刻むべきです。これまでの外道非道をロクに詫びもせず、次から次と難題を持ちかけ、ノーベル賞などと適当なことを言いながら、いつまでもただで利用して当然、というのはそう続くものではないということです。

さて、コンテンツの公開について、色々と考えたのですが、週に一度程度の更新にしたいと考えています。ただし、下書きについてはこれまで通り公開したいと考えています。ただし、「ベルクソン『物質と記憶』メモ」では大変痛い目に会いました。どういうことかというと、要するに間違いが多かったわけですが、私の言い分としては、そもそも、読書メモとして始めたものを、専門外の分野まで無理やりやらされ続けてきたという気持ちが強くあるということです。従いまして、内容については保証はできない旨を明記させていただき、その内容に関してのご批判ご批評などは、これまでのような嫌がらせの形であれば、受け付けられないということを申し上げたいと思います。


【2.コンテンツの更新期間について】
基本的には週に一度を目安とする(ただし、下書きであるブログ「徒然の種々」 は除く)。また、内容が難しいものや、健康状態によってはこの限りではない

※できるだけのことはさせていただくつもりですが、あくまで健康状態を優先するという原則をご理解くださいますようお願いいたします


【3.下書きの公開について

これまで通り、ブログ「徒然の種々」については、頻繁に下書きを更新するつもりですが、これまでの経験上、内容につきましては保証できません。一部マスコミやタレントあるいは一部ではあるでしょうがTEDでのような陰湿な嫌がらせとも取れるやり方については、決して受け入れることのできないものであります。健康状態のこともありますが、抗議の意味も込めて、即座に中止、あまりに悪質な場合は、その他のコンテンツの停止もあり得ますことをご理解いただけますよう、お願いいたします。



さて、以上のような予防線を張らせて頂くことにしましたが、あくまで、原則、気分次第、ということなんです。いつも世間は自分勝手なことを言って、こちらに迷惑を掛けた上、知らん顔してロクに謝りもしない。どれだけの月日と金銭的損失があったのか、ということを理解しているのかどうかすらもわかりません。誰だって、いいことをするのであれば、ありがとうと言われたいものです。あるいは、笑顔を見たい。それだけのためにやっていると言ってもいいのですが、何かあると嫌がらせ。本当にうんざりしています。お互い気分良く、そして、生活を向上させたいのであれば、少しは私も気分よく過ごさせていただきたい。どうぞご協力をお願いいたします。



2013年9月3日火曜日

公開停止していたブログの公開

御存知の通り、某ブックメーカーのノーベル文学賞のオッズリストには当然ながら私の名前はありません。


ようやく清々しましたので、公開停止していたブログを再び公開します。

これからは静かに、普通に暮らせますよう、ご理解ご協力をお願い致します。どうか、頭の悪い、馬鹿でマヌケな田舎者をこれ以上から買ったり、搾取しようとしないでくださいませ。

なお、今年のノーベル文学賞の最右翼は、もちろん村上春樹さんです。

http://www.nicerodds.co.uk/nobel-prize-in-literature

2013年8月31日土曜日

面倒だなあと思って書き始めたが、結局自分が悪いのかな、という結論に達した ゲーム理論を説明しようとした文章

あんまりアホあほしいことばかりで不快だから、ゲーム理論の基礎の基礎でもお話しますか。

参考はいつもの様にウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/ゲーム理論、http://ja.wikipedia.org/wiki/二人零和有限確定完全情報ゲーム、など)です。

ゲーム理論というのは、例えば、チェスのように、自分の行動だけをコントロールできる決定を、自分で決める場合に、利益を最大化するにはどうしたらいいかという理論です。

もともとは、確率の理論と同じように、ギャンブル、もしくは先に言ったチェスのようなゲームで勝つためにはどうしたらいいか、という理論です。

これが最近では、経済学にも採用されて、知らないとちょっと困る常識的なお話に現在はなりつつあります。

さて、このようなことを考えていく時に、ルーレットのように基本的に純粋な確率での勝ち負けを計算できるもの。あるいは、チェス、囲碁、将棋など偶然性に頼らないもの。思考力を必要とするものの偶然性を利用しているバックギャモンや麻雀のようなものの三種類に分かれることがわかります。

ルーレットのような基本的には純粋に偶然に頼るもの、に関しては、思考力の介入する場面がありませんから、これは、ゲーム理論の扱う分野ではないということはわかっていただけると思います。

さて、その他の思考力を必要とするゲームはいくつか分類することが出来ます。

まず、意思決定に必要な情報が、全てあるかないか。たとえば、カードゲームや麻雀のようなものは、相手のカードや、山など伏せてある情報がありますよね。こういうものを不完全情報ゲームといいます。

チェスや囲碁、将棋、あるいは偶然に頼るとはいえ、バックギャモンのようなゲームは、意思決定に必要な情報は全て揃っています。これを完全情報ゲームと言います。

さらに、偶然に頼るか頼らないか、に関しても分類でき確定、もしくは不確定ということばで分類します。完全情報ゲームでも、チェスや囲碁、将棋は確定完全情報ゲームといい、バックギャモンは不確定完全情報ゲームと言います。

ほかに、いつか勝負がつくものや付かないもの。勝つ人と負ける人(もしくは引き分け)の数が等しいかどうか、あるいは、ゲーム参加する人の人数、ということで、有限、無限、とか、ゼロ和、非ゼロ和、とかその他人数などという分類もあります。


ややこしいですね。

さてチェスは二人でやり、いつか決着がつくゼロ和(一方が勝ち:+1、その時一方は負ける:-1、もしくは、両方引き分け:0とすると、両方の点の和は0)する確定完全情報ゲームということになります。

このような二人有限ゼロ和確定完全情報ゲームは、確率と対照的に、もし短時間にすべての手を読んでしまえるような能力があれば負けることないという意味で、ゲーム理論の基礎となるようなゲームであることはおわかりいただけますよね。

このようなゲームでは、計算能力、もしくは経験、もしくはその両方を持つことがモノを言うということになり、理論的には、実力が上の人がかならず勝つ、ということになります。

それに対し、その他の、不確定に分類されるもの、あるいは、不完全というものに分類されるものは、確率、あるいは、偶然、というものに勝敗が左右される要素がそのゲームに本質的にあるということになります。

現実には、確定完全情報ゲームでも手を読みきれないために、ゲームとして成立し、不完全、不確定という分類ができるゲームと同じ要素が存在する、ということになるわけです。

このへんが難しいところで、したがって、不完全、不確定、と分類ができるような、麻雀でもバックギャモンでも思考の介在する要素があるという事になるのですが、本質的な部分で、確率とか偶然が存在するかどうか、という意味で違うゲームであるということはご理解いただきたいと思います。

さて、人生はチェスや将棋のようなものでしょうか、麻雀やバックギャモンでしょうか。私は、本来はチェスや将棋のようなものだ、と思いはするのですが、情けないことになかなかそれを納得できず、いつも死にたいなどと喚いているわけです。

情けないですね、我ながら。いつもそうは思うのですが、なかなか、ね、というのは、本当にお恥ずかしい次第。結局は自分が未熟だということなんですけどねえ。なんでですかね、そう納得することが出来ないのは。

2013年8月27日火曜日

夜中に目が覚めて

夜中に目が覚めて、ふと、どう言う形であれ、私が死んだとして、縁もゆかりも無い、いや、遠い親戚のような人たちでも、正義の味方として、偉そうに嫌がらせした人達の何人が、私を本当に悼んてくれ、お墓でも参って手を合わせてくれるかな、と思った時、一人も居ない、というのが、おそらく正解だろうと考えた。

所詮、連中はそんな人間だよな。

ははは。

2013年8月25日日曜日

ふと思うこと

最近、アメリカでも日本でも3Dプリンターが盛り上がっているようだ。

また、MSのスティーブ・バルマー氏がCEOを退くという。堅実な経営ではあったが、パソコンの時代からスマートフォン・タブレットの時代となりつつある現在、アップルやグーグルの台頭もあってライバルから見てやや成長という面では遅れを取るようになってきたという中で、MS自体もアップルのように端末の販売で成長していくということも考えているようだ。

アップルのおかげでものづくり2.0などという言葉もできた。中国の台頭もあり、また人口減少社会の日本では以前のような大量生産、大量消費の時代ではなくなりつつもあるだろうが、日本の産業も製造業中心から観光・金融サービス産業中心、あるいはソフトウエア中心の産業構造に移行すべきだ、という意見もあった。

大きなトレンドで見れば、そういうことになっていくのだろう。長らく続いたデフレと円高で電機を中心に工場は海外移転し、製品は輸入額のほうが輸出額より大きくなっているものもある。また、日本にはグーグルやMSあるいはアップルも入れていいのだろうがソフトウエアに関しては、著名な企業はない。わずかにLINEが有名だがこれはもとは韓国企業の子会社ですしね。


製造業は、まだまだ行けるはずだ。ただし、これまでとは違う形になるかもしれない、というのは3Dプリンタの盛り上がりを見て分かる通り。出版界や音楽産業は衰退したかもしれないが、しかし、どうだろう、例えば初音ミクのように専門家というより一般の人たちがよりたくさんの傑作をネットで溢れさせている状況を見れば、ものづくりもまた、違う形になっていくかもしれない。製造業の変容がどうなっていくのか、楽しみでもある。

2013年7月27日土曜日

健全という病気

今日、たまたまあるラジオの番組を聞いていた。具体的に言うと、東日本大震災に被災した子どもたちの作文を題材に取り上げた番組だった。

小さな子どもたちの話は興味深く専門家の方の話を聞いていたが、ある程度、そう、思春期にあるような子どもたちの作文の解釈がとても私には不思議だった。ああ、この人達は、理不尽ということに直面したことがないのだなと思った。

こういうと、きっと怒る人がたくさんいるだろう。わかっている。しかし、日本はつい六〇年前に理不尽という理不尽を味わってきた。戦争ほどひどい理不尽はあるか。これに直面して来なかった。私はそういうことを言いたいのだ。きっと、そういうことはなんにも考えず、安定した平和の日本にそれが当然として育ってきた世代が改めて、理不尽に直面してああだこうだ言っている、私にはそういう気がした。

昭和というのは、何だったのか。それを忘れたときに震災が起こった。その理不尽さは私をして、そういう理不尽さを忘れてしまったから震災が起こってしまったのだろう、などという変な感傷に耽らせる。

人は死ぬよね。私が高校生の時、同級生がバイクの事故で死んだ。テニスが好きな普通の男の子だった。仲がいいというわけではなかった。お葬式の日に持って行こうとした花束に蜂がいて、耳の裏側を刺された。今日と同じぐらい暑い日だった。お葬式ではひとり気分が悪くなり耐えられなくなり座った。出棺に火葬場へ一緒に行こうと彼と同じ小学校の校区の同級生に誘われたがなぜか行かなかった。どういうことかがわからなかったから。

彼のご両親が、われわれが書いた追悼文をまとめて本にしてくださって、渡していただいた。皆、感傷的なことを書いていた。一人、何か、一つ一つ整理して書いていた。ちょっと違うね。と誰かが言った。そいつとは、大学に入ってから墓参りに行った。でも、もう行かなくていいんじゃないかといったので行かなくなったが、今でもなにか割り切れない気持ちがしている。そういうものなのだろう、と思いつつも。

何かを整理して書こうというのは、怒りがあったからだろう。震災前が住み良かったとは限らない。震災後が悲惨であることは変わりがないが、理不尽は、等しく襲い、それぞれに違う結果を残した。痛みと怒りに向き合わざるをえないとき、一つ一つを整理して、残す。自分の痛みに気づかないふりをして。痛みに浸るということがよくわからないから。すこしずつ満ちる痛みに負けたくないと思いつつ整理しきれない気持ちを、何とかしたいと思うから。それが理不尽というものでしょう。

改めて思う。私が子供だった頃、皆がとてつもなく大きな理不尽を当たり前だと思っていた。当たり前だと思わなくなっている世代が居ることに、私は改めて衝撃を受けた。子どもたちのほうが、心の傷は深いだろうが、実は健全なのではないだろうか。当たり前に、普通に、という思いを平和な時代に育った人間の感覚を、私は病気だと感じる。

彼らの中には大変に苦労をして、それなりに頑張って道を切り開き、幸せにあることを得てきた人達もいるのだろう。

しかし、あるいは違う彼らはきっと、形式だけ残されて幸せに育ったのかもしれない。例えば、ご飯の食べ方だけはやたらにこだわるというように。そして、他人を怠け者だと非難して、その自分のものではないはずの権力の座にしがみつこうと、必死に他人に理不尽を押し付けているようにして。

分からない。ただ、私が今でも高校の時に亡くなった同級生を思うとき、胸が痛む。理不尽は突然やってきて日常を奪う。しかし、日常は強い力でやってきて、理不尽への感傷を奪う。そのやりきれなさが、彼らにはわかっているのかいないのか。それは分からないが、日常への嫌悪だけを実は取り上げたいのだというのであれば、それもまた間違っている。健全に育った自意識の病気だと思う。

2013年7月24日水曜日

何も変わりはしない

お上品にケーキを舐めとって

いかに他人を利用するかばかり

自分たちは決して反省しない

何もかも他人のものも自分もの

病人をしめて取り上げた労力

お前らが偉そうに批判できる立場か

やるべきことは単純だろう

自分の非を認めて私に謝ればいいだけの話だ

何を屁理屈ばかり言っているのだ

何を他人のものを取り上げて

まず自分たちのものにし続けたいのだ

お前らは本当に腐っている

お前らが仕事を辞めて七年間ただ働きすればできることもかもしれないじゃないか


他人を利用することばかり考えているお上品な君たち

君たちが滅びればいいだけの話じゃないか

君たちのエゴがこういう風にしているだけじゃないか


何をやっても決して謝らない君たち

君たちがこういう風にしているのだ

2013年7月4日木曜日

公開停止を無期限に延長します。

理由は、特に書かなくても分かっていただけるものと確信いたしております。

良心のある方々には、大変にご迷惑をおかけする事となり心苦しく思いますが、どうかご理解頂きますようお願いいたします。

2013年6月12日水曜日

所詮誰しもみんな自分のことしか考えていない


どうしても、何だかんだと利用され続けなければならないのだろうと、いつも考えます。

愛と正義、ウンザリですね。

早く仕事を始めたい。そして、自分の家庭を持ちたい。そんな、ささやかな望みすら、私は叶えられない。悲しいです。

良い加減、そっとしてもらえないですかね。なんだかんだと、屁理屈ばかり言われて、こちらの都合はまるで考えない。何年こうしていると思っているんだ。どこまで利用し続ければ気が済むんだ。

私は、公僕ではありません。両親の年金と、余りやりたくない家庭教師の仕事でわずかに日々の憂さを晴らし、療養を続けています。仕事もない。人生を選べない。傍目には、遊んで暮らしているよう見えるのでしょうが、毎日毎日何かが起きる。本当にウンザリします。

何度も言いますが、良い加減にして欲しい。結局、自分のことしか考えてない人たちのために、いつまでこうしていないといけないのでしょうか。そればかりを考えます。



2013年5月29日水曜日

結果としてマイナーになる

マイナー戦略をとっていると思われているらしい。私のこれまでのことである。ふーん。そういうことも考えないではないけれど、結果としてそうなったという方が、どちらかと言うと当たっている気がする。

例えば、である。私の若い頃は、半導体は産業としてかなりメジャーであった。就職し、そこで頑張ろうと思ったが、専門的な部分では細分化が激しかったことやそろそろ最も日本の半導体が強かった分野でメジャーだったDRAMも淘汰が始まっていて、いろんな方向性を探す時代にあって、最先端な部分をやっていれば、それはマイナーな部分になってきたというのがあった。

学生の時もそうだった。私はごく若い頃から人工知能に興味を持っていた。学部生の頃には第4世代コンピュータ(これは結局失敗に終わるのだが)というプロジェクトが国家的に推進されている時代で、人工知能は研究の先端でもありそれなりにメジャーな分野だった。

半導体にしろ人工知能にしろ、デジタルの時代であり、記号論理学は必須の項目であった。それが、たまたま私の性に合っていた。半導体もCPUはインテルが強くはあったが一極というほどではなくSUNのSPARCや後にIBMに吸収されるモトローラの半導体部門が製造していたMC68000などもそれなりに勢力があった。RISCかCISCかどちらが効率のいいアーキテクチャか競われている時代だった。ただ、日本は先も述べたようにDRAM全盛。それから少量多品種などという迷走を加え、消滅の危機にあるのだが、それはさておき、世界的にメジャーな分野での先端研究をやっていた。先端研究が最盛期の産業技術よりマイナーなのはしかたがないと思う。

そういう意味で、その後取り残された分野が再び注目されるようになったということが、私なりの解釈である。小林秀雄さんのことについては、単純に好きだったというだけのことだ。田舎者でかつ理系ということもあり、日本の中央の思想界のことを知らなかったという事実は間違い無くあるだろう。しかし、読書は良くしていた。村上春樹さんは好きではなかったし、吉本ばななさんもそうであったが、村上龍さんや宮本輝さんの本はよく読んだ。小林秀雄さんが菊池寛の事を良く言っていたことやエドガー・アラン・ポーのことなどを述べていたことに影響を受けたことや、高校時代からハードボイルド小説が好きだったこともあって、特に北方謙三さんの本をよく読むようになり、純文学よりむしろエンターテイメント小説のほうが優るのではとも思うようになりそのうち花村萬月さんが芥川賞をとった。

要するにそういうことだ。大学の卒業時期はバブル全盛期の末期だった。そこでなら就職は困らなかっただろうが、人工知能の研究をしたかったので進学した。それがメジャーでないといわれるとなんだかしっくりこない。ただ、自分の思うこと、やりたいことをやっていたということが、結局はメジャーではなかったけれど、新しい可能性を発見するきっかけになってきたということだと自分では思う。

2013年5月11日土曜日

ノマド

好きだった場所

丁寧な扱い

それが

どんどん変わって行く


そして

移りゆく私の仕事場

まさしくノマド


なにもかも

悪い方にしかかわらない

彼らが

熱力学第二の法則を持ち出すのも

理解できるというものだ

天皇主権ということについての面倒な問題

しばらく哲学を集中的に学んで、少しだけいろいろとわかってきたのだけども、ヘーゲルだったと思うが、西洋と東洋社会の優劣を、西洋では個人に自由(人権)を認めているのに対して、東洋では自然に即してあるいは溶け込んでその中で自由があるのは一人だけだ、という指摘をしている。

この辺りが、非常に面倒。そもそもヘーゲルの哲学自体が全体主義的な傾向を持つことに加え、最近の文献の精査によってその著作と言われるもののほとんどが、ヘーゲル自身が書いたものではないか、書いたものでものちに相当に手を加えられている、という指摘もある。

小林秀雄さんは、自由の問題で、例えば、江戸時代のような身分制度のある時代においても、精神の自由というものは存在したのであって、何を自由というか、というそもそものところから問題視されている。

ベルクソンの本を読んでいると、社会の進歩とは、多くの人が前の時代の制度に戻りたくないという点に注目しているようだ。

現代の日本人の大多数は明治憲法時代の政治制度に戻りたいとは思わないだろう。しかし、伝統と社会の優劣論(個人的にはどちらかというと、くだらない議論だと思うのだが)などの問題があって、天皇主権国家についてはどうしても現代においても考えざるを得ない一つの課題となっている。

もう一つ、日本は明治維新以後も、ほとんどの戦争に勝って来た。日清、日露戦争も始まる前、誰もが負けるだろうと思うような無謀とも言える戦争だった。それに勝ってきたのであるから、昭和の戦争も勝たなければならなかった。負けたのは言い訳であるとすらいえるだろうし、ただいちどの負けが取り返しのつかない大敗だったとも言える。

いろんな面倒な問題がここには存在していて、ファシズムが民主主義よりいいと思われてた時代もあったと思われるし、共産主義もそうだろう。社会主義は現代でもその信奉者(インテリ)は絶えない。

単純に天皇主権国家が悪いというのではなく、哲学的優越論を交えた歴史的背景なども考慮して、日本人が考え続けていかなければならない課題である。



2013年5月10日金曜日

やっぱりすごいね、マスコミの人たちというのは

抗議活動も虚しく、全く反省の色など無く、いじめ、嫌がらせを続けては、愛と正義の使者を気取っていらしゃいますので、仕方ありません。

どうしたものでしょうか。とにかく、またいくつかの記事の閲覧停止を検討しております。おそらく一週間以内になると思われますので、現在公開中の記事を個人的に利用される方早めに何らかの合法的な処置をとられることをお勧めいたします。

2013年5月3日金曜日

気分悪い

あまりにイライラするのです。

だいたい、不満なことは、別のブログに書くようにしているのですが、どうにも収まらないのが若い連中。いじめをしてやらないんだぞといういじめを始めています。呆れ果てる。どう考えても、彼らはいじめをやっているし、いじめることを権利と勘違いしている。他人を利用することが権利だと言わんばかりです。弱者だから当然と言う権利を持っていると思っているのでしょうか。若くて健康であっても弱者というのはどういう勘違いの仕方をしているのか。いじめることだけが得意だから、権利を主張する特権があるとでも言わんばかりです。

そういう人間が世の中を混乱させ悪くしているとは思わず、正義の味方ヅラし、権利ばかりを主張する。義務も努力もせず、うまい汁を吸うことばかり。あるいは、人の嫌がることをすることが権利だと言わんばかりです。不思議な人間たちですよね。連中は。ガソリンスタンドの人間とかもそう。相変わらずです。カメラの画像チェックするかな。やれやれです。手間ばかり増えて、ストレスばかり増える。何を考えているのか、世間様は。

2013年4月14日日曜日

将棋が強いとはどういうことか

昨日(4月13日(土))、将棋の公式戦としては初めてとなる現役プロ棋士とコンピュータ将棋の対戦、第二回電王戦の第4局塚田九段対Puella α(プエラ アルファ)があり引き分けとなりました。

Puella α(プエラ アルファ)の作者である、伊藤英紀氏はコンピュータ将棋はすでに、名人を凌駕したとおっしゃったそうです。その根拠を、氏のブログ(A級リーグ指し手一号)の4月3日分のタイトル「現状認識@2013年4月」という記事において、レーティングの点数からの類推として述べておられます。つまり、現在までのレーティングの点数で人間のプロ棋士におけるレーティングは名人で約1,900点、それを将棋24など、コンピュータ将棋も参加できるレーティングでは何点。計算量を増やせるようにすることにおいて数百点は上乗せできるのでその換算で行くと、レーティングから見た場合、コンピュータ将棋は名人を上回る、というのが理由となっています。

さて、レーティングというのは、大雑把に言えば平均的な強さの目安となっています。強い人に勝てば点数は多く増え、弱い人に負ければ多く点数が減る。同じぐらいの人には勝ったり負けたりだから、だいたい同じぐらい強い人同士は同じ点数になるだろう、ということです。

さて、伊東氏の思考は平均的に強い、ということがレーティングで表せる、ということで、名人よりもコンピュータが強いと主張されているわけですが、その平均的に強い、というのはどういうことでしょう。わたしは、その時点で氏の思考が終わっていることに少々違和感を覚えるので、穿った見方をしてみたいと思います。

平均的に強い、というのは、氏の考えでは、間違わないということと同義でしょう。将棋は読みのゲームであり、序盤中盤は、できるだけ終盤において相手の王様を詰める可能性が多い道筋をたくさん残すような可能性のある手を指し、最後には読みにおいて相手を上回り止めを刺す。これが将棋の本質であることは間違いありませんから、氏の考え方には十分な説得力があるようにも見えます。

しかし、それは、これまでの膨大な将棋のデーターベースがあってそれによる数学的帰納的な演繹(計算)方法が確立されている、という前提があるから故です。実際将棋というのは、すでにそれくらい成熟していると言っても過言ではないでしょう。しかし、電脳戦の第一局で阿部 光瑠(あべ こうる) 四段が、習甦(しゅうそ)の弱点をついて勝利を収めたというのは、効率的な帰納推論の弱点をついたものといえるでしょう。

わかりやすく言うと、例えば、名前のつくような戦法が新たに発見された時にコンピュータソフトは自身だけでその戦法に有効な対応策を考えられるかという問題があります。たしかに、現在のコンピュータ将棋は力将棋に持ち込まれても十分に勝てる実力を持っていますが、新戦法、あるいは、実践例が少ないような、今回の塚田九段の採られたような入玉ということにおいての対応は十分取れていないでしょう。

つまり、コンピュータは、新しい戦法を作り出せないし、新戦法が編み出された時に自身のみでは十分に対応が取れない(もちろん作者のサポートがあれば可能かもしれませんが)という点で、必ずしも名人よりも強いとは言い切れない本質的な問題点を抱えているということです。

言い換えれば、コンピュータ将棋というのは、二つの意味があり、狭義で言えばコンピュータのみで将棋を指すということでしょうが、広義のそれとしては、試合で将棋を指すのはコンピュータではあるが、実際にその戦法やアルゴリズムの改良においては人間の手助けがまだ必要である、という部分を含んでおり、伊藤氏は、広義と狭義を明らかに混同して用いられており、その上でコンピュータ将棋は名人よりも強いと言われているように思われます。


2013年4月2日火曜日

バカにされつつも

結局は、上手くないのかもしれませんが、悩んだ挙句

「小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について」

を公開停止と致しました。

以上、よろしくお願いします。

2013年3月21日木曜日

さらなる抗議のための閲覧停止記事の追加に関して

マスコミ関係者の方々を始め2chのインテリ住人の方々がなかなか面白反省の仕方をされているようですので、以下の記事をさらに閲覧停止に致しました。

ある程度、年齢が行った女性の方でも女子と言いたがるのは若さや容姿にしか女性の価値を見いだせない現状があり、また、そのような人たちが実際に起こす下劣な行動を言葉で糊塗をしようとすることにほかならないという批判をしたつもりですが、異常な捉え方をし、わけの分からない屁理屈を述べて、あくまでも自分の責任や行動に悪いことはない、私という人間の過去がひどすぎるからだ、などということを述べておられるようです。

よろしい、全面戦争ということですね、ということです。



                            記す


マスコミ関係者と思われる人達その他の言動は、全く反省の色が見られず、あくまで責任はすべて私にあるかのごとく私に対して非難をする姿勢を変えず、歩み寄ろうという点も全く見られず、さらに、その言動は悪質極まりないためさらに以下の記事を閲覧停止に致しました。悪質さは極めて異常とも言え、さらなる記事の閲覧停止も近々公表する予定です

・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その6 第六節 諸観念の連合ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 精神と記憶 その8 第八節 意識の多様な平面ベルクソン「物質と記憶」メモ

                                             2013年3月21日
 

2013年3月15日金曜日

二人静一部コンテンツの閲覧停止について


かねてから告知しておりましたとおり、二人静のコンテンツのうちいくつかの記事を閲覧停止にしました。様々ないじめ、嫌がらせ、搾取に抗議するためのやむを得ない措置です。どうか、ご理解とご協力を賜りますようお願い致します。


閲覧を停止したのは以下の記事です。

小林秀雄さんの思想メモ
・小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について 
・「本居宣長」の出だしについて
・New Ageと小林秀雄
・わかったと言えばわかっている。わからないと言えばわからない


ベルクソン「物質と記憶」メモ

・ベルクソン 「物質と時間」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第五節 「延長と伸張性」...ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第四節 「持続と緊張」ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その5 第五節 一般観念と記憶 (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その4 第四節 過去と現在の関係 (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (中)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と記憶 その4 想起と運動 (中) (mixi:2009...ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動  (上) (mixi:200...ベルクソン「物質と記憶」メモ

2013年3月5日火曜日

コンテンツ閲覧の制限を検討しております

大変申し訳無いのですが、一方的な搾取といえる状況に我慢も限界に達しております。従いまして、対抗措置として、二人静のコンテンツの内いくつかの記事の公開をやめることを検討しております。どうか、ご理解いただけますようよろしくお願いします。


               記

 内容:二人静内のコンテンツのいくつかの記事の公開停止
 期間:3月15日より無制限


予告しておりますのは、それなりに準備が必要な方もいらっしゃるかもしれないという配慮です。どうぞご理解ご協力をお願い致します。