2012年1月26日木曜日

電子回路化した閉鎖小国経済モデル

リーマンショックのころ、閉鎖諸国経済モデルを電子回路で表わしSPICEなどの電子回路シミュレーターでシミュレーションしたら世の中の役にたつと思い、mixiの日記の中発表したことがある。

これには、税金は損失として表わされている。それについては、政府の税金による再配分化の役割を過小評価しているという批判もあるようだが、そこは、もう一つ電流源なりカレントミラー回路なりを付け加えて頂ければいい話だ。電流の流れ自体の制御は抵抗分割で制御できるわけでもあることも指摘しておきたい。


このモデルでは、リーマンショックみたいなものは、パルス応答、もしくはステップ関数としての応答を調べることになる。つまりお金の流れが(バブル=>バブルの破綻という)インパルスのような形になるか、急な階段状に落ち込むと捕えるかいうことになると思う。したがって、インパルスと考えれば、税金を上げる、ステップ関数と考えれば、逆にお金を供給するという形になる。いずれも、このモデルでは、政府の役割は描かれていないのは問題ではあるが、非常に基礎的で分かりやすい部分だけであるので、応用は比較的やりやすいと思い再掲する


以下以前の日記である。

(2012/02/24追記:日記の口調が乱暴なのは若いということよりも、本来非公開であるということと、それを勝手に覗かれていたということがあって、かなり怒っていたため。事情がわからない方のために念のため)




アナログ回路シミュレータSPICEによる閉鎖小国経済モデル



2009年11月26日22:12





以前も少し書いたことがあるが、アナログ回路シミュレータのSPICEによって 
経済シミュレータを作れば良いんじゃないか?と言ったことがある。 

基本的には、お金を電流、市場をバイポーラのトランジスタとして考える。 

添付ファイルまで見られるかどうか知らないが、 
添付ファイルにその回路図を示す。 

これが良い点としては、過剰流動性を説明できるということと、 
バイポーラトランジスタモデルが確率モデルであること。 
モデルは、自由に記述できるという点も良い。 
また、シミュレータとしては確立されたものがあるし、 
いろんなバージョンもあるので、回路シミュレータ自体は 
無料で使えるものもある。 

実際のモデルを作ること(検証も含めて)が私には難しいので 
とりあえずアイディアだけを公開したいと思います。 

ライセンスは考えてないけど、アイディアの権利と著作権は 
とりあえず私にあります。でも、自由に使ってください。 
商業利用もありです。(笑い)






2012年2月23日追記:証拠のようなものとして、いくつかスクリーンショットを貼っておきます






二源泉メモその5:理性(あるいは知性)について

開いた魂と閉じた魂から開いた道徳と閉じた道徳についてについて述べたあと、ベルクソンは次に「開いたものと閉じたものの間「自己尊敬」について言及する。この二節は理性について言及されている部分と考えられるだろう。

一部引用しながら述べると、道徳においては、閉じたものとされた、純粋に静的なものが知性以下のもの(l’ infra-intellectuel)であったのに対し、開いたものすなわち純粋に動的なものは、知性以上のもの(le supra-intellectuel
)として考えらることがここでは言及されている。すなわち、前回みたそこにいるだけで真似をしたくなるという「英雄的行為」のことをさしていると考えられるだろう。

その中間は、いわば、座っている(静的な状態)と走っている状態(動的な状態)の中間であるような立っている状態であり、それが、知性そのものであるという。

古代から続く「学」と観想に基づく様な哲学は、これに相当するともいう。

これは、あとで「正義」という節で見るように、宗教が社会変革を起こし得たのに対して、知性に頼る伝統的な哲学が社会変革をなし得なかったという反省がある。

そのことについて詳しく述べられたあとに、「自己尊敬」という節では、その自己尊敬は簡単に言えば、品位という言葉に置き換えられることが述べらる。ここでの品位とは思考によって得られる倫理性と定義できる。

少し引用すれば「我々が自分のうちなる人間品位の前で頭を下げ、自己尊敬によって行動していると明言する時、我々の敬意はこの理想社会へささげられているのである」

さて、こうして、知性により、あるいは、理性により、我々は品位と自己尊敬を獲得することができるわけであるが、その人間の理性には、ある種の絶対的な性質が備わっているからこそ、そのようなことが可能になるとベルクソンは、述べる。以下引用。

「それ故、我々各人のうちに現存している理性は、我々の尊敬を強要し、その優れた価値によって我々を服従させる、と言うだけにとどめず、理性の背後には、人類を神的なものとなし、このようにして人類の本質的属性である理性に神的な性格を刻みつけた人々がいる、と付言しよう。」

2012年1月12日木曜日

孔子様は聖人ではないそこが良いと本居宣長は言う

そこが良いと本居宣長は歌を詠んでます。

聖人と人は言へども 聖人の類ならめや 孔子(くし)は良き人

この辺の温度差がこれから二源泉を読んでいく上で私が注目したいと思っているところです

2012年1月11日水曜日

二人静活動再開について

やむを得ない行動だったとは言え、活動中止をにおわせながら、更新停止にしたのはやはり強権的すぎる行動だったかもしれません。


明日をもって更新停止は解除して、がんばって活動したいと思っています。

二源泉読書メモその4 開いた魂

情緒と創造性の関係をのべたあと、ベルクソンは道徳と情緒の関係性を語る。道徳には二種類あり、社会を維持するのに必要な自然法則にも似た道徳と、創造性にも通じる情緒から来た道徳。ここでは仮に後者を真の道徳と言っておくことにしよう。 真の道徳を持つものの行為は、英雄的行動となる。しかし、その英雄的行動というのは、ただそこにいるだけなのだ。それだけで、周りにいるものは真似をしたくなる。そこには物理的障害はなく、歓喜があるために物理的障害は障害として映らない、とベルクソンは言う。 ベルクソンが例をあげているのはソクラテスである。ソクラテスは、政治的に混乱したアテナイの都市国家で、対話(ディアレクティック)によって自分の考えを説いた。それが、後年、弟子プラトンによる著作によって我々にも伝わってきて、知を愛するその生き方は、現代、東洋に生きる我々をも魅了する。

この辺りは、孔子様にも似たところもあり、違うところもある。孔子様は、後年どこの国にも用いられずに、諸国をさ迷った。そこでは、聖人の業績を調べあげ、書物として残した。現実思考で、政治に携わることを望んだ。弟子達とはぐれ、薄汚れた老人として一人たたずんでいる姿も論語には残されているが、そこもまた良い。 こうして比較すると、違うところも多いが、そこにいるだけで、多くの弟子達を魅了し、現代も魅了し続けているというのは似ている。 それはそれぞれの信じたデモンや天と呼ばれるものの違いかもしれない。こうしてみると、知を愛し対話を好んだことは共通しているのだが、それぞれに信じる精霊、あるいは情緒性と呼ぶべきものかもしれないが、その情緒性の違いが、その個性となってきている気がする。

しかし、哲学というものは大変奥が深いものであるな、と改めて思うのである

2012年1月10日火曜日

二源泉読書メモその3 創造性と情緒

ベルクソンは、情緒(émotion)には二種類あり、その深い情緒と創造性が深く結びついていると説明している。

なかなか興味深いと思う。

2012年1月9日月曜日

成人の日に人口減少社会を思う

人口が増加するようになると、年よりも増え、子供も増え、働き手の割合が減るなどという極端な議論もあるようだが、ここでは無視する。人口が減っていてそれが止まらないのが問題だという長期的な議論を

・人口減少を止める=子供の人口がかなり増える
(実際には、若い人の割合が減っているので、出生率が多少上がったとしても子供の数が維持されるぐらいで、実際には減り続けるだろう)

・仮に増加に転じたとしても長いスパンで見れば働き手は増える

など、議論の中心的な問題がすり替えられているからだ。

では、人口減少を止めるためにはどうしたら良いか。団塊の世代に活力を与えれば、あるいは日本は将来に渡って元気になるというものだろうか。

そうではないだろう。若い人がやりがいを感じ、子供を持っても働きやすい環境にすることが大事だろう。

働き手が少なくなるということで、もちろん移民も考えても良い。しかし、移民問題は難しい問題だ。女性の社会進出をサポートするのもひとつの手段だろう。そういう面からも子育て支援は重要だ。

定年延長も、ひとつの手段ではある。しかし、人口が減少している以上、それは根本解決とはならない、どちらかといえば、暫定的な方法であろう。どちらが優先順位が高いかということだ。

と私は思うのだがどうだろうか。

2012年1月8日日曜日

二源泉を読んでいるのだが(二源泉読書メモその2)

ベルクソンの「宗教と道徳の二源泉」やっぱり良く分からないところが出てくる。

例えば、聖人と凡人あるいは、家族愛、国家愛と人類愛は質が違うという記述だ。読んでいるとそうなのだろうと思うが実感として分からないのは凡人だからだろう。
しかし、「愛」が重要なのは何となく実感として理解できる。

ところで、挑発的な記事を読んだのだが、へろへろのパーなので、何にも応えることができない。古典というものの重みを事実か事実でないかということに置き換えると言うことは、自らの経験を事実か事実でないかということに置き換えることなのと同じではないのか。事実としてみれば、別の見方ができる。そういうことは良くあることでしょう、というだけの話だ。

夢の話もそうでしょう。自分が見た夢がものすごく良く当たった。でもそういう夢は少ないよね。ということとどこか等しい。科学的であることと、その人自身の経験とはやはりどこか違うわけでですね。古典を古典として鑑賞することができなければ、はやり、あれでしょう?古事記なんか荒唐無稽なわけでしょう?本居宣長が滑稽な人なんでしょう?そういう議論はしたくないのですよ。おわかり頂けますでしょうか。どうか、ご了承下さいますようお願いいたします。

2012年1月7日土曜日

「二源泉」読書メモその1


ベルクソンの道徳と宗教の二源泉を読み始めたばかりなのだが、社会と人間の関係はある種有機体とその細胞のそれに似ている。社会的規範は意識されない限りは静かに実行され当然のものとして受け止められる、云々という内容が出てきて、それで、孔子様の六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従いて矩をこえず、という言葉を思い出した。

論語には、「郷党」(第十)という篇があり、ここには、弟子たちが孔子様はこういうときにこうされた、などという孔子様の普段からの行状を綴ったものだけでほとんどを占められている篇がある。中江藤樹(ウキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9)は、論語の解説は郷党しか残さなかったことが小林秀雄さんの「本居宣長」に書いてある。そういうことも思い出した。

志学、而立、不惑、知命、耳順、とたどり、心の欲するところに従い矩を超えず、と年齢に沿って辿る一筋の道と、われわれの幼いころから自然と従うように訓練されたところの社会的規範とどう違うかはこれから読書の楽しみである。

読書メモとして書いておいた。

2012年1月6日金曜日

ベルクソン「物質と記憶」メモWeb版について

現在「メモ」の第3章の推敲をやっているのですが、やはり、『純粋知覚』について詳細に書かれた第1章の解説を早めにやるべきかな、と思っています。この第1章の解説は、Web版ということでまとめたいと思っています。すなわち、Web版はより詳細な解説の「メモ」にという形で展開しようか、と考えています。


こちらも、早めに草稿を書こうかと思い始めていまして、


・メモBlog版の第3章、第4章の推敲
・メモWeb版の第1章の原稿書き


を同時に進めようかと思っています。


それで、Web版のほうは、ベルクソン「物質と記憶」解説メモ、と少々名前を変えさせて頂こうかと。
Blog版は初め私の読書メモから始まったこともあり、スタイルも統一していませんし、第2章まで見直したとき内容もかなり省いて説明しているところも多く、全面的にもう少し詳しい説明を加えた方が良いのかな、とも思いまして。悪くはないのですが、テキストがないと少しわかりにくいかなと思うところもありましたので。ただ、摘要だけ知りたい方もいらっしゃるでしょうし、そちらの方が分かりやすいかもしれないと、その辺は少々悩んでいます。


ただ、摘要についてはあとで付加するか、もしくは電子書籍版など発行できるようになったあかつきに付け加えるとかということも考えられるなあと思っていまして、その辺りはこれから検討します。


以上、宜しくお願いいたします。

2012年1月2日月曜日

ブログのデバッグ的修正を行っています。

昨年末から、いったん正式なものとしてアップしたブログの誤字や脱字その他の誤表記を中心に修正を行っています。大きな内容的な誤りは、その都度ブログの中に書き込んでいますが、そのほかのものについては特に注意書きすることもなく変更を行っています。

こっそりというわけでもないのですが、特に言うほどのこともないと思っているのですが、念のためにここに記しておきます。

これからの予定としては、それが終わった後、「メモ」の草稿の修正とアップ、それから、Web版の作成に取り掛かるつもりです。Web版というのは二人静のHPにブログでは大幅に省略している第一章の解説を付け加えた形で、もう一度整理しようというものです。

それが終われば、以前申し上げていたように、『試論』の解説をやりたいと思っています。

本当にやることが多く、わが身の至らなさを省みてはため息ばかりつくような毎日です。