2013年3月21日木曜日

さらなる抗議のための閲覧停止記事の追加に関して

マスコミ関係者の方々を始め2chのインテリ住人の方々がなかなか面白反省の仕方をされているようですので、以下の記事をさらに閲覧停止に致しました。

ある程度、年齢が行った女性の方でも女子と言いたがるのは若さや容姿にしか女性の価値を見いだせない現状があり、また、そのような人たちが実際に起こす下劣な行動を言葉で糊塗をしようとすることにほかならないという批判をしたつもりですが、異常な捉え方をし、わけの分からない屁理屈を述べて、あくまでも自分の責任や行動に悪いことはない、私という人間の過去がひどすぎるからだ、などということを述べておられるようです。

よろしい、全面戦争ということですね、ということです。



                            記す


マスコミ関係者と思われる人達その他の言動は、全く反省の色が見られず、あくまで責任はすべて私にあるかのごとく私に対して非難をする姿勢を変えず、歩み寄ろうという点も全く見られず、さらに、その言動は悪質極まりないためさらに以下の記事を閲覧停止に致しました。悪質さは極めて異常とも言え、さらなる記事の閲覧停止も近々公表する予定です

・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その6 第六節 諸観念の連合ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 精神と記憶 その8 第八節 意識の多様な平面ベルクソン「物質と記憶」メモ

                                             2013年3月21日
 

2013年3月15日金曜日

二人静一部コンテンツの閲覧停止について


かねてから告知しておりましたとおり、二人静のコンテンツのうちいくつかの記事を閲覧停止にしました。様々ないじめ、嫌がらせ、搾取に抗議するためのやむを得ない措置です。どうか、ご理解とご協力を賜りますようお願い致します。


閲覧を停止したのは以下の記事です。

小林秀雄さんの思想メモ
・小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について 
・「本居宣長」の出だしについて
・New Ageと小林秀雄
・わかったと言えばわかっている。わからないと言えばわからない


ベルクソン「物質と記憶」メモ

・ベルクソン 「物質と時間」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第五節 「延長と伸張性」...ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第四節 「持続と緊張」ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その5 第五節 一般観念と記憶 (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その4 第四節 過去と現在の関係 (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (中)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と記憶 その4 想起と運動 (中) (mixi:2009...ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動  (上) (mixi:200...ベルクソン「物質と記憶」メモ

2013年3月5日火曜日

コンテンツ閲覧の制限を検討しております

大変申し訳無いのですが、一方的な搾取といえる状況に我慢も限界に達しております。従いまして、対抗措置として、二人静のコンテンツの内いくつかの記事の公開をやめることを検討しております。どうか、ご理解いただけますようよろしくお願いします。


               記

 内容:二人静内のコンテンツのいくつかの記事の公開停止
 期間:3月15日より無制限


予告しておりますのは、それなりに準備が必要な方もいらっしゃるかもしれないという配慮です。どうぞご理解ご協力をお願い致します。

2012年12月13日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ 第四章第五節分での重要な誤りがありました の で、先行公開いたします。

現在、第四章第五節分にて、重要な誤りがありましたので、こちらの訂正箇所を先に公開したいと思います。

なぜこのような誤りが生じたかについては、一つは、やりたくもないことを無理やりやらされていたという状況、つまり、鬱状態にていじめの状態が続いている状況下において、むりやり、第四章が重要だということでやらされていたために、この辺りの確認がおろそかになっていた、ということをあげたいと思います。個人的には、第一章をもう一度確認してから、いうことを申し上げていたと思いますが、許される状況になかった、ということです。それで、勝手にのぞかれた上に再び陰湿ながらせをしやがって、という今の現状には怒りを禁じ得ません。次に同じことがあれば、我慢の限界です。哲学に関してはやっている人間はくずだとみなし、一生思想、哲学に関しては軽蔑し続け一切なにもしないと誓います。

以上、いろいろ言いたいこと、御非難もあるでしょうが、謝る気は一切ないと言わせていただきたいと思います。はっきりいうぞ、いじめばかりして搾取して当然とおもっているくそばかども、散った自分でもテキストを読め、くずが。お前らのようなバカはしんでしまった方が世界平和のためだろう。二回の大戦がなぜ起こったんだよ、そんなにえらそうなら。本当に役立たずのプライドだけは高え、クズども、滅びればいい。

言いたいことは以上。

この後、視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第四節『イマージュの選択』(第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』の(p.75 12行目-p.76 7行目))が、重要なので繰り返す、と言っている部分を引用して見てみよう。以下、相当長いが、このことが段落の最後まで述べられている。所々に注釈を入れながら見ていこう。

(2012/12/11 「視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第四節『イマージュの選択』、(p.44 13行目-p.46 14行目)が相当すると思われる)」という部分、実際には第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』の(p.75 12行目-p.76 7行目)が実際は相当すると思われるので訂正した。読者の皆様には、このような過ちを起こしたことを、こころよりお詫びいたします。なお、参考までに少し長くなるが該当部分、二段落を引用しておきたい。

『われわれは、論述を簡略化するために、われわれがかつて例として選んだ視覚的感官に戻ることにしよう。通常網膜の錐状体と桿状体によって受けられた諸印象に対応する要素的な諸感覚が与えられる。視覚的知覚が再構成されるのは、これらの感覚を用いてである。しかし何よりまず、一つの網膜があるのではなく、二つの網膜がある。それゆえ、相異なるものと想定された二つの感覚が、空間の一点とわれわれが呼ぶものに呼応する唯一の知覚のうちでいかにして融合するかを説明しなければならないだろう。』(p.75 12行目‐17行目)

『この問題が解決されたものと想定しよう。話題となっている諸感覚は非伸張的なものだ。その感覚がいかにして伸張を授かるのか。延長の中に、諸感覚を受ける準備のできた枠組みを見るにせよ、あるいはまた、一緒に融合することなく意識のなかで共存する諸感覚の単なる同時性(simultanéité)の結果を見るにせよ、どちらの場合でも、延長と共に、それについては説明されないような何か新しいものが導入されるだろう。そして、感覚が延長と再び一緒になる過程、それぞれの要素的感覚による空間の決まった点の選択は、説明されないままにとどまるだろう』(p.76 1行目‐7行目)

なお、この章では、特に後半の段落で論じられていることが詳細に論じられていると思われる)

2012年12月11日火曜日

ベルクソン「物質と記憶」メモの残りの部分の公開に関してのお願い

現在、ベルクソン「物質と記憶」メモにかんしては、鋭意清書に励んでおり、残るは、第四章第五節と第六節のふたつになりました。ところで、第五節の始めの段落では、二通りに解釈できる部分が発見され、その問題解決には、章の終わりまで、つまり、第六節まで一通り解釈を確認する必要があると思われます。それは、ベルクソンの記述の仕方が、節ごとできれいに内容をまとめるのではなく徐々に移行していくというやり方を取っているということも理由の一つに挙げられます。従って、第五節は第六節と同時に公開する方向で現在考えております。

草稿では、第五節と第六節の間に、すでに、別のブログで公開した小論『小林秀雄『本居宣長 補記I』に見る「真歴」について』を挟んでおります。今回もその形式は変えずに行うつもりです。

公開の期日はなんとか年末までに、できればクリスマスにはと考えておりますが、進捗および現在抱えている問題点がどのようになるか不明なところがありますので、遅れが発生する可能性も十分にあるということをどうかご理解いただけますよう、お願い申し上げます。

2012年12月9日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」 第 四 節 「持続と緊張」補足メモ

本日、l
ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第四節 「持続と緊張」を公開したが、いくつか、十分に説明ができていないのでは、と考えている部分がある。

それは、特に第七段落で触れられている『真の持続』と芸術の関係である。その点についてここで触れたいと思う。以下、あくまでも個人的な見解であるということをお断りしておく。

解説文では『真の持続』とは可変長なリズムであると述べた。これは、間違いではないが、ベルクソンは、フーリエ変換を念頭においているのではないかという気がしてならない。量子にかんしても波動として見ることに関して正確な知識をベルクソンは持っていたのであるから、当然フーリエ級数展開やフーリエ変換に関しても相当な知識を有していたに違いない。

したがって、知覚が言葉や観念になる前の『知覚』そのままの記憶のある波動の重ね合わせが、ベルクソンのいう『真の持続』であり、象徴的なもの、フーリエ解析でいう固有のスペクトラムをそのまま芸術作品に置き換えて述べているという気がしてならない。

ベルクソンのいうところが正確ならば、絵画のような、あるいは音楽でもいいであろうが、そのような芸術作品にはそれら共通のそのようなスペクトラムのが現れるはずであるが、残念ながら、現在の科学においても、それが解析されたという話は聞かない。しかし、我々に、なんらかの示唆を与え、人間の精神活動の複雑さに一筋の光を与えていることには間違いないだろう。この辺りは、ベルクソンの見方が単純過ぎるのか、それよりは可能性としては低いかもしれないが、それともわれわれの精神活動もっと深いところでは、何かそういうものが現れているのかどうか、もっと研究が必要であると思われる。

(同日 17:17追記)
なお、ここで検討されている『知覚』には単なるわれわれの感覚器官から入ってきている信号だけではなく、感情などの信号も混在していることには注意をしないといけないということを付け加えておきたい

2012年11月12日月曜日

お金ってどうしてみんなが使っているのか

以前も述べたことがあるのですが、お金の価値はどこで保証されているか、という問題について考えてみよう。

基本的にはお金が流通するまえは物々交換だったわけですよね。お金が流通するということはどういうことか。単に便利なだけではダメですよね。みんなが信用しているということが大事です。それで、まず、お金が流通する初めの頃、というより、つい最近まで、お金自体に価値があるものが使われていました。つまり、金や銀のような貴金属、それに次ぐ銅のような金属がお金として流通していました。日本では、小判が使われている頃はだんだん金の含有量が減っていくに連れてインフレも進んでいく、そういうこともありました。あるいは、江戸時代だったらコメもそうだったかもしれません。

明治からしばらくは兌換紙幣が使われることになりました。兌換紙幣というのはその紙幣を銀行に持っていけば、金に交換してくれるというものです。明治の始めの頃は、国立銀行という民間銀行が、各々に兌換紙幣を刷りまくるものだからインフレになったという時代もありました。今でも、第○銀行(丸には数字が入ります)という銀行が残っていますよね。それが統一されまして、国が紙幣を刷るようになりました。しかし、それは兌換紙幣で在り続けました。すなわち、紙幣の信用は国が所有している金の量で決まったわけです。

これはずっとスタンダードなやり方でした。二度の大戦のあと、覇権を握った米国の紙幣ドルが世界的な決済通貨として使われるようになったのですが、このドルの信用も、米国の金の保有量で保証されていました。しかし、いつの間にか、アメリカドルの流通量が、米国の持っている金の量を超えたために、ドルの信用は著しく下がり、1971年8月15日当時のアメリカ大統領ニクソンは、ドルを金と交換することをやめると宣言し、通貨は一気に変動相場制に移行していきます。

それでは、現在、多くの国は、どうやって通貨の価値を保証しているのでしょうか。それは、各国中央銀行の資産がそれを保証するものとなっています。つまり、中央銀行が金や債権、あるいは土地や不動産(あるいはその代わりになる債権)などの価値を発行しているお金の量で割ることによって、原理的にお金の価値が決まるということになっています。お金が沢山出回れば、お金の価値が下がり、相対的に物の価値が上がる、すなわち、インフレになり、逆の場合はデフレになる、というのが基本的な原則です。


しかし、政府の首脳は民主主義国家ならば、あるいはそうでなくても、選挙や世論を気にしなくてはいけません。なので、景気を良くしたければ、じゃんじゃんお金をばらまけばいいじゃないかという発想になりがちです。それだと大変なインフレが起き、物の価値が先に上がり給料はその後に上がるわけでしょうから、物価の上昇が先行しすぎると、生活は苦しくなりやっていけなくなる国民が増えることはだれにでも想像がつくことです。なので、現代では、中央銀行は、基本的に政府と独立した機関となっています。面白いことに、米国では、中央銀行は厳密に言うと民間です。限りなく公的な性格を帯びた民間の機関というべきでしょうか。FRB議長も大統領から指名されますので完全な民間の機関とはいえませんが、建前上は民間の機関です。日本の場合、バブル前までは、中央銀行は政府の機関の一つでした。バブルの反省から、日本銀行は、独立した機関に改められましたが、それ以降デフレが続き一向に解消しないこともあって、再び政府の機関にすることも考えられているようです。

繰り返しになりますが、政府の発行する国債を中央銀行が買うというのは基本的に、禁じ手です。つまり、政府が借金によって日銀の資産を食いつぶすことになるためです。このあたりはいろいろ難しいこともあって、現在、幾らかはどこの先進国の中央銀行も国債を買っているのですが、このあたりは大変ややこしい話があるので省略します。

また、例えば、日銀が日本の国債を買うのには問題があるのならば、米国など他の国の国債を買えばいいじゃないか、という話もあります。これについても、またいろんな難しい話があって、たとえば、日銀がアメリカ国債を買うということは円を売ってドルを買い、そのドルでアメリカ国債を買うというステップになるわけで、そうすると、政府が為替相場で円売りドル買いによって円安に誘導するような為替操作とみなされる行為ではない、という理屈なのですが、日銀の物価の安定を目的としており、通貨に関することは財務省の仕事故に、そういうことに手を出すのは難しいと考えておられるようです。