かなり大きな地震で、震源の近さからか去る熊本地震より今回の方が揺れた感じがありましたが、私を含め家族も家も無事です。
まずは、ご報告まで。
私の日常的に考えていることを書き綴るブログです
ある人の文章を読んでいて、AIとああでもないこうでもないといった議論をしていたのですが、最大の違和感の原因は、AI(LLM)に人格を認めるかどうかというところにあるのだと思いました。
同じ言葉を使う人類以外の初めての存在に人格を見るというよりも、AIはAIとして見たとき、唯一無二の存在とまでは言えないかもしれないが、ChatGPTやGeminiやClaudeにも、それぞれ確実に個性があるわけです。それを、人間に対する人格のようなものとして、「AI格」と呼んだらどうだろうかと。
そちらの方が無理がないですし、人権をAIに認めるかどうかというときも、「AI権」とした方が分かりやすかろうと思うのです。
何かを創り出している人なら誰もがそう思うことであろうがやはり、自分の作品は褒めていただいたらうれしい。
では、有名になりたいか、と思うことならばそうまでなりたくもない、私は。
なぜこんなことをわざわざ言うかというと、混同されている人がいらっしゃるようであるからであり、現状でそこそこ十分だと思っているので、そこの所を誤解していただきたくないのだ。
今年は、本当にいろいろなことがありました。
最大の出来事は、右目の視力がほとんどなくなったことでしょうか。
来年早々、免許を自主返納し、車も売るつもりなのでいろいろ大変です。
それでも、なんとか生きているわけで、本当におかげさまだと思います。
そんな年でありましたが、今年も大晦日の夜は、年に一回だけ自主的にお酒を飲む楽しい日でもあります。今日は小林秀雄さんの「ランボーIII」を読みながらお湯割りをちびりちびりと味わいます。「ランボーIII」は、今年の後半、池田雅延先生の講義でも取り上げられましたので、それも思い起こしながら読んでいます。
千里眼でなければならぬ、千里眼にならなければならぬ、と僕は言うのだ。詩人は、あらゆる感覚の、長い、限りない、合理的な乱用によって千里眼になる。
とはランボーの言葉だが、行き着くところまで行き着いた人には一体何が見えるのか。
小林さんの「ランボーI」の冒頭には「この孛星が、不思議な人間厭嫌の光を放ってフランス文学の大空を掠めたのは、一八七〇年より七三年まで、十六歳で、既に天才の表現を獲得してから、十九歳で、自らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに三年の期間である。」と書かれている。それから彼は、放浪し、傭兵になり、アフリカで貿易商となり、足の腫瘍が元で死ぬ。享年三十七歳。
なんと言えばいいのだろう。ただ、その作品に、あるいは小林さんの著作に没入することしか、後の我々にはできないように思える。
読書に戻る時が来たようです。
皆様も、どうぞ良いお年をお迎えください。
この度、と言っても半年ほど前になりますが新しいblog「ベルクソンと小林秀雄『二源泉』と『本居宣長』への旅」しました。本当にポツポツと書いています。良かったら見ていただきますと 大変嬉しいです。どうぞ宜しくお願いします。