2026年7月28日火曜日

無事です

 かなり大きな地震で、震源の近さからか去る熊本地震より今回の方が揺れた感じがありましたが、私を含め家族も家も無事です。

まずは、ご報告まで。

2026年7月19日日曜日

AI格

ある人の文章を読んでいて、AIとああでもないこうでもないといった議論をしていたのですが、最大の違和感の原因は、AI(LLM)に人格を認めるかどうかというところにあるのだと思いました。

同じ言葉を使う人類以外の初めての存在に人格を見るというよりも、AIはAIとして見たとき、唯一無二の存在とまでは言えないかもしれないが、ChatGPTやGeminiやClaudeにも、それぞれ確実に個性があるわけです。それを、人間に対する人格のようなものとして、「AI格」と呼んだらどうだろうかと。

そちらの方が無理がないですし、人権をAIに認めるかどうかというときも、「AI権」とした方が分かりやすかろうと思うのです。


2026年7月1日水曜日

作品は褒められたい

 何かを創り出している人なら誰もがそう思うことであろうがやはり、自分の作品は褒めていただいたらうれしい。

では、有名になりたいか、と思うことならばそうまでなりたくもない、私は。

なぜこんなことをわざわざ言うかというと、混同されている人がいらっしゃるようであるからであり、現状でそこそこ十分だと思っているので、そこの所を誤解していただきたくないのだ。

2026年3月14日土曜日

E資格に合格しました

 今さらですがJDLAのE資格に合格しました

ロートルながら頑張った、というだけのお話です

2025年12月31日水曜日

今年も一年間ありがとうございました

 今年は、本当にいろいろなことがありました。

最大の出来事は、右目の視力がほとんどなくなったことでしょうか。

来年早々、免許を自主返納し、車も売るつもりなのでいろいろ大変です。

それでも、なんとか生きているわけで、本当におかげさまだと思います。


そんな年でありましたが、今年も大晦日の夜は、年に一回だけ自主的にお酒を飲む楽しい日でもあります。今日は小林秀雄さんの「ランボーIII」を読みながらお湯割りをちびりちびりと味わいます。「ランボーIII」は、今年の後半、池田雅延先生の講義でも取り上げられましたので、それも思い起こしながら読んでいます。

千里眼でなければならぬ、千里眼にならなければならぬ、と僕は言うのだ。詩人は、あらゆる感覚の、長い、限りない、合理的な乱用によって千里眼になる。

とはランボーの言葉だが、行き着くところまで行き着いた人には一体何が見えるのか。

小林さんの「ランボーI」の冒頭には「この孛星が、不思議な人間厭嫌の光を放ってフランス文学の大空を掠めたのは、一八七〇年より七三年まで、十六歳で、既に天才の表現を獲得してから、十九歳で、自らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに三年の期間である。」と書かれている。それから彼は、放浪し、傭兵になり、アフリカで貿易商となり、足の腫瘍が元で死ぬ。享年三十七歳。

なんと言えばいいのだろう。ただ、その作品に、あるいは小林さんの著作に没入することしか、後の我々にはできないように思える。



読書に戻る時が来たようです。

皆様も、どうぞ良いお年をお迎えください。


2024年12月8日日曜日

新しいblog 開設のお知らせ

  この度、と言っても半年ほど前になりますが新しいblog「ベルクソンと小林秀雄『二源泉』と『本居宣長』への旅」しました。本当にポツポツと書いています。良かったら見ていただきますと 大変嬉しいです。どうぞ宜しくお願いします。


2015年4月2日木曜日

坂口安吾「教祖の文学 ー小林秀雄論ー」を読んで

最近、青空文庫にて坂口安吾の『教祖の文学 ー小林秀雄論ー』を読んでいろいろ考えたので、メモ書きでも残そうと思う次第です。 坂口安語の文章は、見方にもよるだろうが、脱構築的であり、あるいはハイデガーの指摘するような「そこに投げ出された人間」と言う立場から小林秀雄さんの思想を批判しているのだが、非常に穿っているので、ここで一部であるが引用したい。 「だから教祖の流儀には型、つまり公式とか約束といふものが必要で、死んだ奴とか歴史はもう足をすべらすことがないので型の中で料理ができるけれども、生きてる奴はいつ約束を破るか見当がつかないので、かういふ奴は鑑賞に堪へん。歴史の必然などといふ妖怪じみた調味料をあみだして、料理の腕をふるふ。生きてる奴の料理はいやだ、あんなものは煮ても焼いてもダメ、鑑賞に堪へん。調味料がきかない。  あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。  生きてる人間といふものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間といふものは、自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようといふ、せつぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思ひこまうとし、体当り、遁走、まつたく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想といふものがそこから生れて育つてきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにゐられなくなつた棒キレみたいなものの一つが文学だ。」 小林秀雄の思想は「型」を重視する。無学な私もすこし勉強してみれば『本居宣長』も型だけであることを知る。しかし、そこに小林秀雄さんの独創がないかというとそれは違う。描かれた本居宣長と言う人物はいかにも独創的であるし、また、思想においても「型」を破って独自の境地に達している。私はまだまだ勉強不足であるが、そのことはいつかまた、『本居宣長』についての解説を書く機会があれば表現してみたい点でもある。(書く機会があればであるが。) 一方で、現代において、坂口安吾のようないわゆる豪傑タイプの文人が途絶えたのはなぜか、という点からもいつか考察してみたいものである。 しかし、面白いのは、小林秀雄さんを批判する坂口安語の側もまた、脱構築的実存主義的な視点、言い方を変えれば、型のないのが型だというような見方から批判しているところが興味深い。つまり、小説も思想もやはり型あってこそのものだということを坂口安吾は十二分に承知していたのではないだろうか。その点を小林秀雄さんに投影しつつ、どうあるべきかを模索し、もがき苦しむという点において、このような批判をしながら独自性を確立していこうとしたというようにも見える、というのが私のこの文章を読んでの感想である