本日、l
ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」 第四節 「持続と緊張」を公開したが、いくつか、十分に説明ができていないのでは、と考えている部分がある。
それは、特に第七段落で触れられている『真の持続』と芸術の関係である。その点についてここで触れたいと思う。以下、あくまでも個人的な見解であるということをお断りしておく。
解説文では『真の持続』とは可変長なリズムであると述べた。これは、間違いではないが、ベルクソンは、フーリエ変換を念頭においているのではないかという気がしてならない。量子にかんしても波動として見ることに関して正確な知識をベルクソンは持っていたのであるから、当然フーリエ級数展開やフーリエ変換に関しても相当な知識を有していたに違いない。
したがって、知覚が言葉や観念になる前の『知覚』そのままの記憶のある波動の重ね合わせが、ベルクソンのいう『真の持続』であり、象徴的なもの、フーリエ解析でいう固有のスペクトラムをそのまま芸術作品に置き換えて述べているという気がしてならない。
ベルクソンのいうところが正確ならば、絵画のような、あるいは音楽でもいいであろうが、そのような芸術作品にはそれら共通のそのようなスペクトラムのが現れるはずであるが、残念ながら、現在の科学においても、それが解析されたという話は聞かない。しかし、我々に、なんらかの示唆を与え、人間の精神活動の複雑さに一筋の光を与えていることには間違いないだろう。この辺りは、ベルクソンの見方が単純過ぎるのか、それよりは可能性としては低いかもしれないが、それともわれわれの精神活動もっと深いところでは、何かそういうものが現れているのかどうか、もっと研究が必要であると思われる。
(同日 17:17追記)
なお、ここで検討されている『知覚』には単なるわれわれの感覚器官から入ってきている信号だけではなく、感情などの信号も混在していることには注意をしないといけないということを付け加えておきたい
2012年12月9日日曜日
2012年5月13日日曜日
メモ 第三章第五節辺りから出てくる『隣接』の定義を間違っているようです
第八節至り、『隣接』という言葉の使われ方が、時間的継起に関係してくることがはっきりしてきたため、色々調べてみると、『隣接』という概念は、デビット・ヒュームが観念の連合で用いた考え方の一つで、たとえば、風が吹いたら桶屋が儲かる的な、物理法則がもたらすところの因果律とは違った形の因果関係を日本語で「隣接」あるいは「近接」あるいは「接近」と訳されているようです。この辺は、本を買うか、図書館へ行って調べ直してみようと思います。
読者の皆様には申し訳ありませんが、メモ第三章第六節分で、『隣接』について以下のように説明していた部分は、このことを改めて調べ直した後、修正する方向で考えておりますので、まずは、告知させて頂きます。
註記しておくと、『隣接』の定義がここまで出てきていないが、この節最後まで見てみると、例えば「信号機」という一種の連合観念において、「青」と「赤」という観念は互いに『隣接』していると見なせるような関係だと思われる
読者の皆様には申し訳ありませんが、メモ第三章第六節分で、『隣接』について以下のように説明していた部分は、このことを改めて調べ直した後、修正する方向で考えておりますので、まずは、告知させて頂きます。
註記しておくと、『隣接』の定義がここまで出てきていないが、この節最後まで見てみると、例えば「信号機」という一種の連合観念において、「青」と「赤」という観念は互いに『隣接』していると見なせるような関係だと思われる
2012年5月12日土曜日
「メモ」のメモ第二章の『再認』あるいは『注意』についてと第三層第五節における『反省の努力』の関連性について
第三章第五節の例えば以下の部分と
『この構想は反省の努力を必要とし、この努力によってわれわれ、表象から時間と場所の特殊性を消し去るのだ』(p.226 7行目-8行目)
第二章の『再認』について、あるいは『注意』の働きが関連性を持つかどうかをもう少し検討した方が良いかもしれない。
忘れないようにメモとして残しておく。
『この構想は反省の努力を必要とし、この努力によってわれわれ、表象から時間と場所の特殊性を消し去るのだ』(p.226 7行目-8行目)
第二章の『再認』について、あるいは『注意』の働きが関連性を持つかどうかをもう少し検討した方が良いかもしれない。
忘れないようにメモとして残しておく。
2012年5月5日土曜日
ベルクソン、「物質と記憶」における『純粋想起』と『純粋記憶』といいう言葉について
ここにおいて、第3章第5節ででてきた純粋記憶、と純粋想起を区別すべきかどうかを悩んでいる。運動習慣を純粋想起、純粋記憶をイマージュ想起という考え方も可能であるからである。しかし、第三章ではまず、知覚と純粋想起がまったく別の質が異なったものと考えたのであるから、そうもかんたんにいかないところがある。
つまり、運動習慣とは純粋想起が知覚と結びついたもの、純粋記憶は純粋想起とイマージュ想起の双方の性質を持ち、なおかつイマージュ化されていない純粋想起についても含んでいる、と言って良いかもしれないところがややこしい
つまり、運動習慣とは純粋想起が知覚と結びついたもの、純粋記憶は純粋想起とイマージュ想起の双方の性質を持ち、なおかつイマージュ化されていない純粋想起についても含んでいる、と言って良いかもしれないところがややこしい
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