本日、l
ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」 第四節 「持続と緊張」を公開したが、いくつか、十分に説明ができていないのでは、と考えている部分がある。
それは、特に第七段落で触れられている『真の持続』と芸術の関係である。その点についてここで触れたいと思う。以下、あくまでも個人的な見解であるということをお断りしておく。
解説文では『真の持続』とは可変長なリズムであると述べた。これは、間違いではないが、ベルクソンは、フーリエ変換を念頭においているのではないかという気がしてならない。量子にかんしても波動として見ることに関して正確な知識をベルクソンは持っていたのであるから、当然フーリエ級数展開やフーリエ変換に関しても相当な知識を有していたに違いない。
したがって、知覚が言葉や観念になる前の『知覚』そのままの記憶のある波動の重ね合わせが、ベルクソンのいう『真の持続』であり、象徴的なもの、フーリエ解析でいう固有のスペクトラムをそのまま芸術作品に置き換えて述べているという気がしてならない。
ベルクソンのいうところが正確ならば、絵画のような、あるいは音楽でもいいであろうが、そのような芸術作品にはそれら共通のそのようなスペクトラムのが現れるはずであるが、残念ながら、現在の科学においても、それが解析されたという話は聞かない。しかし、我々に、なんらかの示唆を与え、人間の精神活動の複雑さに一筋の光を与えていることには間違いないだろう。この辺りは、ベルクソンの見方が単純過ぎるのか、それよりは可能性としては低いかもしれないが、それともわれわれの精神活動もっと深いところでは、何かそういうものが現れているのかどうか、もっと研究が必要であると思われる。
(同日 17:17追記)
なお、ここで検討されている『知覚』には単なるわれわれの感覚器官から入ってきている信号だけではなく、感情などの信号も混在していることには注意をしないといけないということを付け加えておきたい
2012年12月9日日曜日
2012年11月12日月曜日
お金ってどうしてみんなが使っているのか
以前も述べたことがあるのですが、お金の価値はどこで保証されているか、という問題について考えてみよう。
基本的にはお金が流通するまえは物々交換だったわけですよね。お金が流通するということはどういうことか。単に便利なだけではダメですよね。みんなが信用しているということが大事です。それで、まず、お金が流通する初めの頃、というより、つい最近まで、お金自体に価値があるものが使われていました。つまり、金や銀のような貴金属、それに次ぐ銅のような金属がお金として流通していました。日本では、小判が使われている頃はだんだん金の含有量が減っていくに連れてインフレも進んでいく、そういうこともありました。あるいは、江戸時代だったらコメもそうだったかもしれません。
明治からしばらくは兌換紙幣が使われることになりました。兌換紙幣というのはその紙幣を銀行に持っていけば、金に交換してくれるというものです。明治の始めの頃は、国立銀行という民間銀行が、各々に兌換紙幣を刷りまくるものだからインフレになったという時代もありました。今でも、第○銀行(丸には数字が入ります)という銀行が残っていますよね。それが統一されまして、国が紙幣を刷るようになりました。しかし、それは兌換紙幣で在り続けました。すなわち、紙幣の信用は国が所有している金の量で決まったわけです。
これはずっとスタンダードなやり方でした。二度の大戦のあと、覇権を握った米国の紙幣ドルが世界的な決済通貨として使われるようになったのですが、このドルの信用も、米国の金の保有量で保証されていました。しかし、いつの間にか、アメリカドルの流通量が、米国の持っている金の量を超えたために、ドルの信用は著しく下がり、1971年8月15日当時のアメリカ大統領ニクソンは、ドルを金と交換することをやめると宣言し、通貨は一気に変動相場制に移行していきます。
それでは、現在、多くの国は、どうやって通貨の価値を保証しているのでしょうか。それは、各国中央銀行の資産がそれを保証するものとなっています。つまり、中央銀行が金や債権、あるいは土地や不動産(あるいはその代わりになる債権)などの価値を発行しているお金の量で割ることによって、原理的にお金の価値が決まるということになっています。お金が沢山出回れば、お金の価値が下がり、相対的に物の価値が上がる、すなわち、インフレになり、逆の場合はデフレになる、というのが基本的な原則です。
しかし、政府の首脳は民主主義国家ならば、あるいはそうでなくても、選挙や世論を気にしなくてはいけません。なので、景気を良くしたければ、じゃんじゃんお金をばらまけばいいじゃないかという発想になりがちです。それだと大変なインフレが起き、物の価値が先に上がり給料はその後に上がるわけでしょうから、物価の上昇が先行しすぎると、生活は苦しくなりやっていけなくなる国民が増えることはだれにでも想像がつくことです。なので、現代では、中央銀行は、基本的に政府と独立した機関となっています。面白いことに、米国では、中央銀行は厳密に言うと民間です。限りなく公的な性格を帯びた民間の機関というべきでしょうか。FRB議長も大統領から指名されますので完全な民間の機関とはいえませんが、建前上は民間の機関です。日本の場合、バブル前までは、中央銀行は政府の機関の一つでした。バブルの反省から、日本銀行は、独立した機関に改められましたが、それ以降デフレが続き一向に解消しないこともあって、再び政府の機関にすることも考えられているようです。
繰り返しになりますが、政府の発行する国債を中央銀行が買うというのは基本的に、禁じ手です。つまり、政府が借金によって日銀の資産を食いつぶすことになるためです。このあたりはいろいろ難しいこともあって、現在、幾らかはどこの先進国の中央銀行も国債を買っているのですが、このあたりは大変ややこしい話があるので省略します。
また、例えば、日銀が日本の国債を買うのには問題があるのならば、米国など他の国の国債を買えばいいじゃないか、という話もあります。これについても、またいろんな難しい話があって、たとえば、日銀がアメリカ国債を買うということは円を売ってドルを買い、そのドルでアメリカ国債を買うというステップになるわけで、そうすると、政府が為替相場で円売りドル買いによって円安に誘導するような為替操作とみなされる行為ではない、という理屈なのですが、日銀の物価の安定を目的としており、通貨に関することは財務省の仕事故に、そういうことに手を出すのは難しいと考えておられるようです。
基本的にはお金が流通するまえは物々交換だったわけですよね。お金が流通するということはどういうことか。単に便利なだけではダメですよね。みんなが信用しているということが大事です。それで、まず、お金が流通する初めの頃、というより、つい最近まで、お金自体に価値があるものが使われていました。つまり、金や銀のような貴金属、それに次ぐ銅のような金属がお金として流通していました。日本では、小判が使われている頃はだんだん金の含有量が減っていくに連れてインフレも進んでいく、そういうこともありました。あるいは、江戸時代だったらコメもそうだったかもしれません。
明治からしばらくは兌換紙幣が使われることになりました。兌換紙幣というのはその紙幣を銀行に持っていけば、金に交換してくれるというものです。明治の始めの頃は、国立銀行という民間銀行が、各々に兌換紙幣を刷りまくるものだからインフレになったという時代もありました。今でも、第○銀行(丸には数字が入ります)という銀行が残っていますよね。それが統一されまして、国が紙幣を刷るようになりました。しかし、それは兌換紙幣で在り続けました。すなわち、紙幣の信用は国が所有している金の量で決まったわけです。
これはずっとスタンダードなやり方でした。二度の大戦のあと、覇権を握った米国の紙幣ドルが世界的な決済通貨として使われるようになったのですが、このドルの信用も、米国の金の保有量で保証されていました。しかし、いつの間にか、アメリカドルの流通量が、米国の持っている金の量を超えたために、ドルの信用は著しく下がり、1971年8月15日当時のアメリカ大統領ニクソンは、ドルを金と交換することをやめると宣言し、通貨は一気に変動相場制に移行していきます。
それでは、現在、多くの国は、どうやって通貨の価値を保証しているのでしょうか。それは、各国中央銀行の資産がそれを保証するものとなっています。つまり、中央銀行が金や債権、あるいは土地や不動産(あるいはその代わりになる債権)などの価値を発行しているお金の量で割ることによって、原理的にお金の価値が決まるということになっています。お金が沢山出回れば、お金の価値が下がり、相対的に物の価値が上がる、すなわち、インフレになり、逆の場合はデフレになる、というのが基本的な原則です。
しかし、政府の首脳は民主主義国家ならば、あるいはそうでなくても、選挙や世論を気にしなくてはいけません。なので、景気を良くしたければ、じゃんじゃんお金をばらまけばいいじゃないかという発想になりがちです。それだと大変なインフレが起き、物の価値が先に上がり給料はその後に上がるわけでしょうから、物価の上昇が先行しすぎると、生活は苦しくなりやっていけなくなる国民が増えることはだれにでも想像がつくことです。なので、現代では、中央銀行は、基本的に政府と独立した機関となっています。面白いことに、米国では、中央銀行は厳密に言うと民間です。限りなく公的な性格を帯びた民間の機関というべきでしょうか。FRB議長も大統領から指名されますので完全な民間の機関とはいえませんが、建前上は民間の機関です。日本の場合、バブル前までは、中央銀行は政府の機関の一つでした。バブルの反省から、日本銀行は、独立した機関に改められましたが、それ以降デフレが続き一向に解消しないこともあって、再び政府の機関にすることも考えられているようです。
繰り返しになりますが、政府の発行する国債を中央銀行が買うというのは基本的に、禁じ手です。つまり、政府が借金によって日銀の資産を食いつぶすことになるためです。このあたりはいろいろ難しいこともあって、現在、幾らかはどこの先進国の中央銀行も国債を買っているのですが、このあたりは大変ややこしい話があるので省略します。
また、例えば、日銀が日本の国債を買うのには問題があるのならば、米国など他の国の国債を買えばいいじゃないか、という話もあります。これについても、またいろんな難しい話があって、たとえば、日銀がアメリカ国債を買うということは円を売ってドルを買い、そのドルでアメリカ国債を買うというステップになるわけで、そうすると、政府が為替相場で円売りドル買いによって円安に誘導するような為替操作とみなされる行為ではない、という理屈なのですが、日銀の物価の安定を目的としており、通貨に関することは財務省の仕事故に、そういうことに手を出すのは難しいと考えておられるようです。
2012年9月11日火曜日
人はなぜ将棋をやるべきか
私は、将棋が好きである。将棋が好きな理由は、人によって様々かもしれない。私の場合、単にこのような頭脳ゲームの方がスポーツより得意であったということもあった。あるいは、ポーカーのような心理的な駆け引きを楽しんでいる時もあった。でも、それ以外にいつも、何かこれを続けないといけない、という自分なりの必要性を感じていた。多分、であるが。
その必要性とは何か、今日になって改めて納得した事がある。それは、無意識的に分かっていることをきちんと論理的に表現する、ということのためにやるべきだ、と思っていたということではないか、と思い当たったのである。
手を読むとか、手が見えるという表現がある。相手がこうしたらこうするということと、見えるとか読むということは、よく似ているということを、我々は感覚的に理解してそう表現する。文章を読むということも、何かを見るということも実際は、我々は予測し記憶と紹介・照合しているということだ。そうでなければ、我々は、例えば、ものを立体に見ることができないだろう。左右の目の微妙に違う画像をどうやって認識しているのか、というベルクソンの指摘をここで繰り返すなら、そのことが容易におわかり頂けるのではないか。我々は、無意識の中で予め予測しながら物を見ている、ということと、手を読むとか手が見えるとかほとんど同じ働きをしている、ということになると私は考える。
言い直せば、物を見るということと、手を読むあるいは手が見えるということは、実は非常に近い働きをしており、意識および無意識の中でそれらを組み立てて、照合している過程が手を読むということであり、手が見える、ということは、目的とする手順が実際に見えるがごとく照合・紹介されぴったり合うと実感される、そういう過程なのだろう。
さて、このことは、実は、我々の無意識を意識的に感じる良い訓練となる。我々は、自分では分かっているけれども、他人に伝えることが難しい、という苦い経験を何度も味わう。それは、言葉や経験の不足であったりもするのであろうが、なにより、無意識で考えていることを表現する、という訓練をすることに欠けているせいもあるのではないだろうか。われわれは、慣れてくれば自動車の運転のような未だにロボットではうまくできないような事を無意識のうちでうまくやれるようになる。それほど無意識は高度な処理ができる。我々が、なにかを意識的にやろうとすれば、特別の訓練をしない限り、せいぜい、二桁、三桁の足し算引き算ぐらいであろう。しかし、多少の向き不向きはあろうけれども、自動車の運転などは、誰にでもできると言って良いだろう。
意識的にやることは、瞬間的には実に限られているのに対し、無意識的にやることは非常に複雑なこともうまくできる。これを繋ぐのが私は、将棋のようなゲームではないかと思う。
これは、言わば文章を書くのに近い。我々は、言葉を使ったり、あるいはゼスチャーで相手に何か伝える。特に文章を書くことは、逐次的に文字を書き連ね、順序よく説明をする必要があるところが似ている。さらに、数学とは違い、それぞれの単語にそれぞれの非常に特異的な役割が存在する一方で、単語単独では意味を限定するのは難しい。つまり、文脈によって単語の使われ方、意味がそれぞれ違ってくる。そういうところも将棋と似ている。われわれ日本人の多くは、将棋ができれば理系、と思い込んでいるが、実は将棋は文系の得意とするところに近い、と私は思う。
プロの将棋指しに文章の才能を持つ人は多く、最近では多くなった、有名大学への進学者のほとんどが文系の学部であるようだ、ということは、牽強付会であるかもしれないが、しかし、必ずしも理系の科目が得意だ、ということではないということもまた事実なのである。
では、しかし、文章を書けるのであれば、将棋をしなくても良い、ということにならないか。
われわれの思考は、言葉を使っている。あるいは、数学が得意な方であれば、数学という言語を使っている。それは、思考の道具としてそうなっているわけであろう。
プロの将棋指しの方はまた特殊な構造が脳にあるという研究もあるが、我々のような一般人はそれはないのがふつうであろう。
つまり、我々は、我々の無意識を意識して感じ取る訓練をするならば、思考の道具としての言葉ではないけれども、それに近いような、構造を持っており、なおかつ、その照会・照合過程において、もっとも情報量の多い視覚と同様の機能を使う、将棋を指すということは、実はかなり良い訓練なのではないか。
私のような、下手の横好きが何を言っても、将棋が好きでない方には伝わらないかもしれない。しかし、誠心誠意、私のこれまでの将棋はきっと何かに役にたつ、いや、たっている、という奇妙な確信について包み隠さずお話しさせて頂いた。
将棋に限らず、囲碁においては手談という別名があるところからもそれが言葉に近い間隔を我々は体験的に得ていると思う。将棋と囲碁は大分違うようで似ている。そのことここで論じることはしないし、囲碁をほとんどやらない私に論じる資格もないと思う。しかし、どなたかがうまく説明して頂ければ、きっと同様の事を仰って下さるに違いないと、私は思う。
その必要性とは何か、今日になって改めて納得した事がある。それは、無意識的に分かっていることをきちんと論理的に表現する、ということのためにやるべきだ、と思っていたということではないか、と思い当たったのである。
手を読むとか、手が見えるという表現がある。相手がこうしたらこうするということと、見えるとか読むということは、よく似ているということを、我々は感覚的に理解してそう表現する。文章を読むということも、何かを見るということも実際は、我々は予測し記憶と紹介・照合しているということだ。そうでなければ、我々は、例えば、ものを立体に見ることができないだろう。左右の目の微妙に違う画像をどうやって認識しているのか、というベルクソンの指摘をここで繰り返すなら、そのことが容易におわかり頂けるのではないか。我々は、無意識の中で予め予測しながら物を見ている、ということと、手を読むとか手が見えるとかほとんど同じ働きをしている、ということになると私は考える。
言い直せば、物を見るということと、手を読むあるいは手が見えるということは、実は非常に近い働きをしており、意識および無意識の中でそれらを組み立てて、照合している過程が手を読むということであり、手が見える、ということは、目的とする手順が実際に見えるがごとく照合・紹介されぴったり合うと実感される、そういう過程なのだろう。
さて、このことは、実は、我々の無意識を意識的に感じる良い訓練となる。我々は、自分では分かっているけれども、他人に伝えることが難しい、という苦い経験を何度も味わう。それは、言葉や経験の不足であったりもするのであろうが、なにより、無意識で考えていることを表現する、という訓練をすることに欠けているせいもあるのではないだろうか。われわれは、慣れてくれば自動車の運転のような未だにロボットではうまくできないような事を無意識のうちでうまくやれるようになる。それほど無意識は高度な処理ができる。我々が、なにかを意識的にやろうとすれば、特別の訓練をしない限り、せいぜい、二桁、三桁の足し算引き算ぐらいであろう。しかし、多少の向き不向きはあろうけれども、自動車の運転などは、誰にでもできると言って良いだろう。
意識的にやることは、瞬間的には実に限られているのに対し、無意識的にやることは非常に複雑なこともうまくできる。これを繋ぐのが私は、将棋のようなゲームではないかと思う。
これは、言わば文章を書くのに近い。我々は、言葉を使ったり、あるいはゼスチャーで相手に何か伝える。特に文章を書くことは、逐次的に文字を書き連ね、順序よく説明をする必要があるところが似ている。さらに、数学とは違い、それぞれの単語にそれぞれの非常に特異的な役割が存在する一方で、単語単独では意味を限定するのは難しい。つまり、文脈によって単語の使われ方、意味がそれぞれ違ってくる。そういうところも将棋と似ている。われわれ日本人の多くは、将棋ができれば理系、と思い込んでいるが、実は将棋は文系の得意とするところに近い、と私は思う。
プロの将棋指しに文章の才能を持つ人は多く、最近では多くなった、有名大学への進学者のほとんどが文系の学部であるようだ、ということは、牽強付会であるかもしれないが、しかし、必ずしも理系の科目が得意だ、ということではないということもまた事実なのである。
では、しかし、文章を書けるのであれば、将棋をしなくても良い、ということにならないか。
われわれの思考は、言葉を使っている。あるいは、数学が得意な方であれば、数学という言語を使っている。それは、思考の道具としてそうなっているわけであろう。
プロの将棋指しの方はまた特殊な構造が脳にあるという研究もあるが、我々のような一般人はそれはないのがふつうであろう。
つまり、我々は、我々の無意識を意識して感じ取る訓練をするならば、思考の道具としての言葉ではないけれども、それに近いような、構造を持っており、なおかつ、その照会・照合過程において、もっとも情報量の多い視覚と同様の機能を使う、将棋を指すということは、実はかなり良い訓練なのではないか。
私のような、下手の横好きが何を言っても、将棋が好きでない方には伝わらないかもしれない。しかし、誠心誠意、私のこれまでの将棋はきっと何かに役にたつ、いや、たっている、という奇妙な確信について包み隠さずお話しさせて頂いた。
将棋に限らず、囲碁においては手談という別名があるところからもそれが言葉に近い間隔を我々は体験的に得ていると思う。将棋と囲碁は大分違うようで似ている。そのことここで論じることはしないし、囲碁をほとんどやらない私に論じる資格もないと思う。しかし、どなたかがうまく説明して頂ければ、きっと同様の事を仰って下さるに違いないと、私は思う。
2012年8月24日金曜日
また、ぞろ選挙か
まったく持って,うんざりである。なぜ、日本人はそうそう、首相を諦めたり、選挙をしたがるのか、ということにおいて、様々な疑問が湧いてくる。
もちろん、いい点もある。例えば、鳩山氏や菅氏が未だ首相だったら、と思うととんでもない気がする。しかし、大震災のあと復興がはかどらない現状で、選挙をして政権交代というのは一体どういうことだろう、と常々疑問に思っているのだが、最近の世論はまったく持ってよくわからない。
経済政策の一貫性のなさ、国の顔が一年ごとに変わる弊害は、よく言われているわけなのにどうしてこんなことになってしまうのか。マスコミの論調がそうなのか。
マスコミの中で新聞は最も信頼されているメディアであろうが、その新聞が、世論調査でこうも政権を変えたがる理由というのは何なのだろうか、不思議である。
新聞は、その読者の構成でいうと、40代以下の人間で、新聞を読んでいる人は、半数だという。つまり、新聞の読者は、そのほとんどが割合年齢の高い人たちだ。この人たちの意見がこうも、くるくる首相を変えたがるのはどうにもよく分からないのである。
おそらくだが、50代の人たちが、70代の人たちから実質的な権力を奪いたいというのがあるのではないか、と思う。
確かに、何も変わろうとしない日本、何も分からないくせに人をいいように使いたがる人たちが多すぎるという気もするが、それが、別に年齢を問わない。私には、70代とそれ以下の人たちとの隔絶した勤労意識の元に、こいつらが天下をとったら最悪だろうな、とすら思う。
その象徴が、鳩山、菅の最低、最悪とも言われた二人の元首相だろう。
確かに、現状維持は問題が多い。しかし、人口構成的に、もう、こんなものと思うしかないのだ、という諦めも必要だと思う。政治体制をかえても、アメリカ流のプラグマティズムが根付くはずもないではないか。日本人はこんなものである、と私はもう諦めた。トットと死にたいばっかりである。
しかし、そう愚痴ばかりも言ってられないだろうから、少し、選挙後の体制を考えてみよう。選挙をして政権交代があるのかどうか、ということをまず考察しないと、選挙だけしてもしょうがないだろう、ということを言いたいし、所詮、選挙なんかしたってしょうがない、という主張も少ししてみたいということもある。
ここでの考察は、最近言われているように、10月に臨時国会、11月に(選挙制度の変革が終わって)次の予算編成前に解散、という一般的に流布されているようなシナリオに沿って見たい。
まず、民主党である。民主党は、自民党から追い出された田中派(小沢氏・鳩山氏・岡田氏などが代表的な人物)と旧社会・民社党(菅氏・枝野氏・仙谷氏)などの寄り合い所帯であった。それは、イデオロギー的に見ては、支持基盤としての労働組合ということはあるものの、様々な思想を持った人たちの寄り合い所帯という意味で(つまり、支持基盤は別としても思想的に保守的と思われる野田現首相や前原氏などもいるために)保守的な国民にとっても、受け皿となりえた、ということであった。
それは、小泉政権の長期体制のあと社会体制的に経済の格差が顕著になり、また、その後、後継者と指名された安倍晋三氏は、参議院選挙の大敗を受け、ねじれ国会による、政権運営の困難さに、一年を満たさず政権を放り出し、続く、福田康夫氏も同様に1年ほどで政権を放り出し、麻生太郎氏のときに執拗な失言問題や閣僚・官僚の失敗(本当に報道の揚げ足取りもひどかったけれど、様々にひどい行動があった)こと、そして、とどめのリーマンショックにより、新自由主義的な経済がまったくの信用をなくしてしまったことにもよったものであった。
結果としてみれば、新自由主義的な極端に粗野な資本主義と小さな政府との主張がイコールとしてみなされ、中国の台頭と共に、中央集権的な政治家中心の大きな政府を標榜した民主党に人気が集まり、自民党と大差のない、属人的な思想構成が保守的な日本人にも違和感が少ないことも手伝って、非常に幅広い人たちの支持を集め、また、何も決まらない、ねじれ国会による解消という実務的必然性もあって民主党政権は誕生した。
さて、余談ではあるが、私が、70代の人たちに比べて、それ以下の人たちに権力をもたせるのをあまり快く思わないのは、福田康夫氏は例外としても、安倍晋三氏、鳩山、菅の両元首相などの体たらくを見ているからである。前原氏のときの民主党もひどかった。閑話休題
話を元に戻すと、現時点で選挙をすることによるメリットは、国会のねじれ現象を解消できるかも分からないような、危うい理由しかない。単に大きい政府を標榜した政治家たちが次々に失敗していき、野田現首相の体制では自民党時代と大差なく、原発や、消費税といった、国民に人気のない施策が、そのまま、感情的な政権交代論につながっている、としか私には見えない。これで選挙とは、日本人が世界で笑われるだけであろう。
さて、それでも選挙、ということになったあとのことを考えるのが、本来の目的であったところに戻ろう。
まず、選挙後の体制であるが、民主党は野田代表ということで代表戦が決着するものとしても、選挙で大敗し、結果として代表をやめざるを得ないだろう。そのあとであるが、民主党にはふた通りの選択肢がある。まず、鳩山氏を再び代表として選び、小沢氏が再合流するという路線。もう一つは、たとえば、岡田氏が代表となり、野田現首相の路線を継承、自民党・公明党と連立を組み政権を担うという選択肢である。
私は、もし、自・公・民の三党で政権が取れるのであれば、この大連立は多いにありうると思う。逆に言えば、自・公だけでも、現民主だけでも、政権が取れるほど選挙に勝利し得ないと思う。この三党大連立が最も選挙後にありうるシナリオだろう。これは、現政権の路線を継承、自民党・公明党の人材による閣僚の強化、ねじれ国会の解消という意味で一番いいシナリオかもしれない。しかし、言い換えれば、現在と大差ないとも言える。
そして、第三極とも言われる、地域政党の躍進も間違いないだろう。しかし、単独では政権は取り得ないと予想する。その場合、彼らが、例えば、自・公、あるいは民主と連立を組むだろうか。それは、すなわち、国民の期待が大きく失望変わる結果にもつながりかねない。それはないだろう、というのが現段階での私の意見である。もちろん、一寸先は闇というのが政界であるからどのように転ぶかは不明であるが、私は、例えば、維新の会が躍進しても、そしてそのチャンスではあるが、政権を取り得ない、すなわち、ただのガス抜きで終わる、というのであるならば、それはかえってまずいことになるのではないか、と危惧するのである。
しかも、おそらく、参院では、自・公・民の方が多数である状態が続く。現段階では、変革は難しいと言わざるを得ない。
自・公・第三極ならば、あるいは、変革可能であるかもしれない。しかし、一体それを国民は許すだろうか。あるいは、それだけの政治手腕が、第三極側にあるのだろうか。
勢いだけでは、続かないのは、民主党への政権交代でわかった教訓である。
国民も、あるはマスコミも、もっと冷静に、この国の形について議論をしてもらいたいと思い、たたき台としてこの文章を書いたのだが、一体私の目的ははたせただろうか。いま選挙をすることがどうか、ということを含めて、もっと様々に考察を深めていただきたいと心より願う次第である。
(2012/08/25 1:50 追記)
29日に参院の自・公で首相の問責決議案が出され、他の野党の賛成もあり成立する見込み。こうなっては、近く解散も致し方ない状況に。
(2012/08/25 17:00 追記)
29日の問責決議案の方は28日に衆院で特別公債の法案が強行採決される反動のようです。大変失礼をいたしました。
もちろん、いい点もある。例えば、鳩山氏や菅氏が未だ首相だったら、と思うととんでもない気がする。しかし、大震災のあと復興がはかどらない現状で、選挙をして政権交代というのは一体どういうことだろう、と常々疑問に思っているのだが、最近の世論はまったく持ってよくわからない。
経済政策の一貫性のなさ、国の顔が一年ごとに変わる弊害は、よく言われているわけなのにどうしてこんなことになってしまうのか。マスコミの論調がそうなのか。
マスコミの中で新聞は最も信頼されているメディアであろうが、その新聞が、世論調査でこうも政権を変えたがる理由というのは何なのだろうか、不思議である。
新聞は、その読者の構成でいうと、40代以下の人間で、新聞を読んでいる人は、半数だという。つまり、新聞の読者は、そのほとんどが割合年齢の高い人たちだ。この人たちの意見がこうも、くるくる首相を変えたがるのはどうにもよく分からないのである。
おそらくだが、50代の人たちが、70代の人たちから実質的な権力を奪いたいというのがあるのではないか、と思う。
確かに、何も変わろうとしない日本、何も分からないくせに人をいいように使いたがる人たちが多すぎるという気もするが、それが、別に年齢を問わない。私には、70代とそれ以下の人たちとの隔絶した勤労意識の元に、こいつらが天下をとったら最悪だろうな、とすら思う。
その象徴が、鳩山、菅の最低、最悪とも言われた二人の元首相だろう。
確かに、現状維持は問題が多い。しかし、人口構成的に、もう、こんなものと思うしかないのだ、という諦めも必要だと思う。政治体制をかえても、アメリカ流のプラグマティズムが根付くはずもないではないか。日本人はこんなものである、と私はもう諦めた。トットと死にたいばっかりである。
しかし、そう愚痴ばかりも言ってられないだろうから、少し、選挙後の体制を考えてみよう。選挙をして政権交代があるのかどうか、ということをまず考察しないと、選挙だけしてもしょうがないだろう、ということを言いたいし、所詮、選挙なんかしたってしょうがない、という主張も少ししてみたいということもある。
ここでの考察は、最近言われているように、10月に臨時国会、11月に(選挙制度の変革が終わって)次の予算編成前に解散、という一般的に流布されているようなシナリオに沿って見たい。
まず、民主党である。民主党は、自民党から追い出された田中派(小沢氏・鳩山氏・岡田氏などが代表的な人物)と旧社会・民社党(菅氏・枝野氏・仙谷氏)などの寄り合い所帯であった。それは、イデオロギー的に見ては、支持基盤としての労働組合ということはあるものの、様々な思想を持った人たちの寄り合い所帯という意味で(つまり、支持基盤は別としても思想的に保守的と思われる野田現首相や前原氏などもいるために)保守的な国民にとっても、受け皿となりえた、ということであった。
それは、小泉政権の長期体制のあと社会体制的に経済の格差が顕著になり、また、その後、後継者と指名された安倍晋三氏は、参議院選挙の大敗を受け、ねじれ国会による、政権運営の困難さに、一年を満たさず政権を放り出し、続く、福田康夫氏も同様に1年ほどで政権を放り出し、麻生太郎氏のときに執拗な失言問題や閣僚・官僚の失敗(本当に報道の揚げ足取りもひどかったけれど、様々にひどい行動があった)こと、そして、とどめのリーマンショックにより、新自由主義的な経済がまったくの信用をなくしてしまったことにもよったものであった。
結果としてみれば、新自由主義的な極端に粗野な資本主義と小さな政府との主張がイコールとしてみなされ、中国の台頭と共に、中央集権的な政治家中心の大きな政府を標榜した民主党に人気が集まり、自民党と大差のない、属人的な思想構成が保守的な日本人にも違和感が少ないことも手伝って、非常に幅広い人たちの支持を集め、また、何も決まらない、ねじれ国会による解消という実務的必然性もあって民主党政権は誕生した。
さて、余談ではあるが、私が、70代の人たちに比べて、それ以下の人たちに権力をもたせるのをあまり快く思わないのは、福田康夫氏は例外としても、安倍晋三氏、鳩山、菅の両元首相などの体たらくを見ているからである。前原氏のときの民主党もひどかった。閑話休題
話を元に戻すと、現時点で選挙をすることによるメリットは、国会のねじれ現象を解消できるかも分からないような、危うい理由しかない。単に大きい政府を標榜した政治家たちが次々に失敗していき、野田現首相の体制では自民党時代と大差なく、原発や、消費税といった、国民に人気のない施策が、そのまま、感情的な政権交代論につながっている、としか私には見えない。これで選挙とは、日本人が世界で笑われるだけであろう。
さて、それでも選挙、ということになったあとのことを考えるのが、本来の目的であったところに戻ろう。
まず、選挙後の体制であるが、民主党は野田代表ということで代表戦が決着するものとしても、選挙で大敗し、結果として代表をやめざるを得ないだろう。そのあとであるが、民主党にはふた通りの選択肢がある。まず、鳩山氏を再び代表として選び、小沢氏が再合流するという路線。もう一つは、たとえば、岡田氏が代表となり、野田現首相の路線を継承、自民党・公明党と連立を組み政権を担うという選択肢である。
私は、もし、自・公・民の三党で政権が取れるのであれば、この大連立は多いにありうると思う。逆に言えば、自・公だけでも、現民主だけでも、政権が取れるほど選挙に勝利し得ないと思う。この三党大連立が最も選挙後にありうるシナリオだろう。これは、現政権の路線を継承、自民党・公明党の人材による閣僚の強化、ねじれ国会の解消という意味で一番いいシナリオかもしれない。しかし、言い換えれば、現在と大差ないとも言える。
そして、第三極とも言われる、地域政党の躍進も間違いないだろう。しかし、単独では政権は取り得ないと予想する。その場合、彼らが、例えば、自・公、あるいは民主と連立を組むだろうか。それは、すなわち、国民の期待が大きく失望変わる結果にもつながりかねない。それはないだろう、というのが現段階での私の意見である。もちろん、一寸先は闇というのが政界であるからどのように転ぶかは不明であるが、私は、例えば、維新の会が躍進しても、そしてそのチャンスではあるが、政権を取り得ない、すなわち、ただのガス抜きで終わる、というのであるならば、それはかえってまずいことになるのではないか、と危惧するのである。
しかも、おそらく、参院では、自・公・民の方が多数である状態が続く。現段階では、変革は難しいと言わざるを得ない。
自・公・第三極ならば、あるいは、変革可能であるかもしれない。しかし、一体それを国民は許すだろうか。あるいは、それだけの政治手腕が、第三極側にあるのだろうか。
勢いだけでは、続かないのは、民主党への政権交代でわかった教訓である。
国民も、あるはマスコミも、もっと冷静に、この国の形について議論をしてもらいたいと思い、たたき台としてこの文章を書いたのだが、一体私の目的ははたせただろうか。いま選挙をすることがどうか、ということを含めて、もっと様々に考察を深めていただきたいと心より願う次第である。
(2012/08/25 1:50 追記)
29日に参院の自・公で首相の問責決議案が出され、他の野党の賛成もあり成立する見込み。こうなっては、近く解散も致し方ない状況に。
(2012/08/25 17:00 追記)
29日の問責決議案の方は28日に衆院で特別公債の法案が強行採決される反動のようです。大変失礼をいたしました。
2012年7月4日水曜日
キリスト教における愛と原罪の意味
といっても、生半可な知識しかないわけであるが、巷間に広がっている知識よりはわずかにマシであろうと思い書く
ところで、その前に、キリスト教のシンボルはキリスト様が貼り付けになった十字架であるが、その前は、お魚だったということを何かの本で読んだことがある。どうでも良いし、間違っている可能性もあるのでちなみに、というだけの話だ。
さて、キリスト様が貼り付けになったのはなぜだろうか。もちろん宗教的な弾圧のせいであろうが、キリスト教では人間には元々背負って生まれた罪があり(そのもとをたどればアダムとイブのエデン追放と思われる)キリスト様はその人間の罪を背負って一人罰せられた、というのがキリスト教の中心教義では無かろうかと思う。これもあくまで、確かそうだったというレベルだが。
さて、われわれに原罪というものがあるとすれば、そして、それを、何の罪もない一が背負って一人未来永劫に罰せられるとするならば、もしそうだとすれば、地球は爆発して全人類は消失した方が良いのではないだろうか、とは思わないか、というようなことをベルクソンは二元泉で言っていたと思う。
これを、強引に浄土真宗の教えである悪人正機説に当てはめようとするとかなり無理がある。この教えは仏様は、本来的にいい人も悪い人も区別なさらず、もし悪人であっても罪を深く悔いているようであれば、人間であれば完璧ではないはずなのに無自覚であるただ罪を犯してないと言うだけの善人よりは、遙かに見所があると思いお救いくださる、という考え方だからだ。誰でも完璧ではないということと原罪を無理矢理当てはめていると言うことと、本当に悪を犯して尚かつそれを深く悔いている、ということと原罪を一人に背負わせている、という後ろめたさとは明らかに違うだろう。
なにをか言わんや、といつも、ごめんなさい、南無阿弥陀仏で何もかも済ませてしまえると思っている連中にたいして腹を立てているのだ。人間の祖先であるアダムとイブがエデン追放になったその原罪を一人を背負って未来永劫に罰せられているのが神の子キリスト様だ。それが、キリスト様の愛である。そして、キリスト様は神の子であるからしてそれが神の愛の現実化であろう、という理屈な訳だ。
何でも安く低くつまり安易に考える連中がその辺りにうようよいるが、おまえら何を考えているんだ、ばか、と常々思う。おまえらは、本当の意味で何も後悔していない。ただ、仕方ないで済ませて、ごめんなさい、南無阿弥陀仏、で終わりだろう。
そういう馬鹿は何もかも腐らせている。神の愛もキリスト様の愛も仏の深い慈愛もすべて腐らせている。いつもそう思う。本当に反吐が出る
ところで、その前に、キリスト教のシンボルはキリスト様が貼り付けになった十字架であるが、その前は、お魚だったということを何かの本で読んだことがある。どうでも良いし、間違っている可能性もあるのでちなみに、というだけの話だ。
さて、キリスト様が貼り付けになったのはなぜだろうか。もちろん宗教的な弾圧のせいであろうが、キリスト教では人間には元々背負って生まれた罪があり(そのもとをたどればアダムとイブのエデン追放と思われる)キリスト様はその人間の罪を背負って一人罰せられた、というのがキリスト教の中心教義では無かろうかと思う。これもあくまで、確かそうだったというレベルだが。
さて、われわれに原罪というものがあるとすれば、そして、それを、何の罪もない一が背負って一人未来永劫に罰せられるとするならば、もしそうだとすれば、地球は爆発して全人類は消失した方が良いのではないだろうか、とは思わないか、というようなことをベルクソンは二元泉で言っていたと思う。
これを、強引に浄土真宗の教えである悪人正機説に当てはめようとするとかなり無理がある。この教えは仏様は、本来的にいい人も悪い人も区別なさらず、もし悪人であっても罪を深く悔いているようであれば、人間であれば完璧ではないはずなのに無自覚であるただ罪を犯してないと言うだけの善人よりは、遙かに見所があると思いお救いくださる、という考え方だからだ。誰でも完璧ではないということと原罪を無理矢理当てはめていると言うことと、本当に悪を犯して尚かつそれを深く悔いている、ということと原罪を一人に背負わせている、という後ろめたさとは明らかに違うだろう。
なにをか言わんや、といつも、ごめんなさい、南無阿弥陀仏で何もかも済ませてしまえると思っている連中にたいして腹を立てているのだ。人間の祖先であるアダムとイブがエデン追放になったその原罪を一人を背負って未来永劫に罰せられているのが神の子キリスト様だ。それが、キリスト様の愛である。そして、キリスト様は神の子であるからしてそれが神の愛の現実化であろう、という理屈な訳だ。
何でも安く低くつまり安易に考える連中がその辺りにうようよいるが、おまえら何を考えているんだ、ばか、と常々思う。おまえらは、本当の意味で何も後悔していない。ただ、仕方ないで済ませて、ごめんなさい、南無阿弥陀仏、で終わりだろう。
そういう馬鹿は何もかも腐らせている。神の愛もキリスト様の愛も仏の深い慈愛もすべて腐らせている。いつもそう思う。本当に反吐が出る
2012年6月24日日曜日
将棋に関して
私は、将棋が好きだ。将棋が好きなことが、このくそったれの世の中に対する唯一の救いになっている。
しかし、私も阿呆じゃないのであるから、ただ遊んでいるわけではないということを少し示したい。
本当に将棋指しの先生という人は、将棋が好きで将棋が好きで堪らないのであるから、私のように下手の横好きというようなまったく才能の無いような阿呆な人間にも、いろんな事を教えて下さる。
数学にも、いろいろなテクニックというものがありますよね?例えば、簡単な例を挙げるなら、連立方程式を解こうとすると中学生では、代入法と消去法という二つのやり方を教えます。消去法というのは、比較的洗練されたやり方で、このやり方をやれば、線形(一次方程式)であれば項が幾つあっても条件がそろえば(つまり項の数だけ方程式があれば)方程式を機械的に解けるというやり方ですよね。
将棋のプロというのは、長年の修行で、そういう解法(これを手筋という言い方をされている)を組み合わせて、よりシンプルなやり方で、コンピュータのように力任せなやり方ではなく、よりスマートに問題に当たっておられる。もちろん手筋をたくさん知っているということは、ある場面の手筋が一通りではないということでもあるのであるが、探索木を用いたやり方よりは大変効率的に深く手を読めるというメリットがある。
これは、言語における文章の組み立てによく似ているでしょう?ということがまず一つ。
後は大局観というものですね。これは、本当に経験則で、この形だと終盤でどのような展開になると言うことをプロともなるとよく御存知のようである。これも手筋というものに絡んでくるわけですけど。それで、その前に、定跡と呼ばれる序盤から中盤へ掛けてできるだけ有利に進めるためのある種、われわれの科学で言う「仮説」があるわけですね。
このように将棋を一種の「仮説−検証」過程としてみた場合に、大局観と手筋と呼ばれるものは、われわれの創造性に大変深いつながりがあると思われるわけですよね。そして、たまたま起った偶然のエラーがノーベル賞に繋がるような大発見に繋がったということも、この将棋をやっていく上でのおもしろい現象として説明できます。例えば、羽生マジックとか。
そういうわけで、馬鹿じゃないので黙ってやらせてもらえれば、それなりの成果を上げた上で公開できるものを、どうも人間的に信用がないせいか(ただし、それは私のせいだけではないと確信しているが)こう言うことを黙ってやらせてもらえないので非常に迷惑をしている。
しかし、私も阿呆じゃないのであるから、ただ遊んでいるわけではないということを少し示したい。
本当に将棋指しの先生という人は、将棋が好きで将棋が好きで堪らないのであるから、私のように下手の横好きというようなまったく才能の無いような阿呆な人間にも、いろんな事を教えて下さる。
数学にも、いろいろなテクニックというものがありますよね?例えば、簡単な例を挙げるなら、連立方程式を解こうとすると中学生では、代入法と消去法という二つのやり方を教えます。消去法というのは、比較的洗練されたやり方で、このやり方をやれば、線形(一次方程式)であれば項が幾つあっても条件がそろえば(つまり項の数だけ方程式があれば)方程式を機械的に解けるというやり方ですよね。
将棋のプロというのは、長年の修行で、そういう解法(これを手筋という言い方をされている)を組み合わせて、よりシンプルなやり方で、コンピュータのように力任せなやり方ではなく、よりスマートに問題に当たっておられる。もちろん手筋をたくさん知っているということは、ある場面の手筋が一通りではないということでもあるのであるが、探索木を用いたやり方よりは大変効率的に深く手を読めるというメリットがある。
これは、言語における文章の組み立てによく似ているでしょう?ということがまず一つ。
後は大局観というものですね。これは、本当に経験則で、この形だと終盤でどのような展開になると言うことをプロともなるとよく御存知のようである。これも手筋というものに絡んでくるわけですけど。それで、その前に、定跡と呼ばれる序盤から中盤へ掛けてできるだけ有利に進めるためのある種、われわれの科学で言う「仮説」があるわけですね。
このように将棋を一種の「仮説−検証」過程としてみた場合に、大局観と手筋と呼ばれるものは、われわれの創造性に大変深いつながりがあると思われるわけですよね。そして、たまたま起った偶然のエラーがノーベル賞に繋がるような大発見に繋がったということも、この将棋をやっていく上でのおもしろい現象として説明できます。例えば、羽生マジックとか。
そういうわけで、馬鹿じゃないので黙ってやらせてもらえれば、それなりの成果を上げた上で公開できるものを、どうも人間的に信用がないせいか(ただし、それは私のせいだけではないと確信しているが)こう言うことを黙ってやらせてもらえないので非常に迷惑をしている。
2012年6月9日土曜日
最近考えていることの覚え書き(心の共振あるいは本能、無ということ)
たまたまだが、糸谷 哲郎という大変有望な若手の将棋プロで阪大の大阪大学大学院文学研究科に進学された方の書いたものを見ていろいろ考えさせられた。
※糸谷さんのお名前ほか間違っておりました。お詫びして訂正いたします。
なので、最近私の考えていることを少し書いておこうと思う。
・心の共振、あるいは本能について
まず、例えば正夢のようなことがなぜ起るかについて。これについては以前も色々書いているのだが、一つには共振のような現象も考えられるのではないかと最近思っている。要するに、子どもを思う母親が子どもの考えていることが分かるのは心で子どもをシミュレーションしているからだろうが、それで、子どもに起っていることまで感知してしまう、ということはまま起ることであり、体験されたお母様方もたくさんいらっしゃることと思う。それは、仕組みは分からないが何らかの共振があるからであろうと、考えている。もしかしたら本能というものも、こういう仕組みになっているのかな(それだけではないにしろ、それで説明できる部分も多いという意味で)、ということも少し考えているのというのも補足しておく。
・無について
私はベルクソンの創造的進化の後半にある無はないという一種のパラドキシカルな結論について、前々から何か少し違うなと思っているので記してみる。ベルクソンの主張するところを簡単にいえば、あるカテゴライズをする。それに合わないものに関してはなかったものとするというのが無の思想である、という指摘をしている。その通りなのではあるが少し浅薄な印象も受ける部分を指摘しておきたい。たとえば、整数あるいは実数を考える。それらは簡単にいえば正の数と負の数と0に分けられる。そこでは、正でもなく負でもないから0なのである。つまり、正と負の境目を0といっていると言って良いだろう。ここにおいて、例えば虚数があるとか、世界は数字意外にもたくさんの文字やものが存在する、などのほかになにかあるから、それは本質的に無(0)ではないといっても、少し論点がずれているといわざるを得ないだろう。つまり、無を論じているのにカテゴライズのやり方を論じているという点でおかしいと言える。もし、この世界のすべてを何らかの相反するような二つに分けたとしてその境目に無が生じる、というのがから発生しているのが仏教の無の思想だ。さらにいうと、無とすべてにカテゴライズしようというのが無の思想だ、と言って良いだろう。無と他にすべてにカテゴライズしてしまえば、境目である無も無にカテゴライズされてしまうから、たとえば、実数でいえば、0と符号のある数とに分けてしまえば、カテゴリーは二つになるでしょう?分かりますか?この発想というのが、仏教の無の思想である。つまり、正と負の境目である0を一つのカテゴリーとしてみれば、正も負も何かあるという意味では一緒くたになるのだから、それを区別するのはおかしいぞ、わかるかね諸君と仏教の思想はいっているのである。どうも、ベルクソンはその辺が分かっていなかったのではないかと思うので、少し書いてみた次第。もしかして私の方が間違っているのかもしれないが私なりの解釈を書いてみた。
※糸谷さんのお名前ほか間違っておりました。お詫びして訂正いたします。
なので、最近私の考えていることを少し書いておこうと思う。
・心の共振、あるいは本能について
まず、例えば正夢のようなことがなぜ起るかについて。これについては以前も色々書いているのだが、一つには共振のような現象も考えられるのではないかと最近思っている。要するに、子どもを思う母親が子どもの考えていることが分かるのは心で子どもをシミュレーションしているからだろうが、それで、子どもに起っていることまで感知してしまう、ということはまま起ることであり、体験されたお母様方もたくさんいらっしゃることと思う。それは、仕組みは分からないが何らかの共振があるからであろうと、考えている。もしかしたら本能というものも、こういう仕組みになっているのかな(それだけではないにしろ、それで説明できる部分も多いという意味で)、ということも少し考えているのというのも補足しておく。
・無について
私はベルクソンの創造的進化の後半にある無はないという一種のパラドキシカルな結論について、前々から何か少し違うなと思っているので記してみる。ベルクソンの主張するところを簡単にいえば、あるカテゴライズをする。それに合わないものに関してはなかったものとするというのが無の思想である、という指摘をしている。その通りなのではあるが少し浅薄な印象も受ける部分を指摘しておきたい。たとえば、整数あるいは実数を考える。それらは簡単にいえば正の数と負の数と0に分けられる。そこでは、正でもなく負でもないから0なのである。つまり、正と負の境目を0といっていると言って良いだろう。ここにおいて、例えば虚数があるとか、世界は数字意外にもたくさんの文字やものが存在する、などのほかになにかあるから、それは本質的に無(0)ではないといっても、少し論点がずれているといわざるを得ないだろう。つまり、無を論じているのにカテゴライズのやり方を論じているという点でおかしいと言える。もし、この世界のすべてを何らかの相反するような二つに分けたとしてその境目に無が生じる、というのがから発生しているのが仏教の無の思想だ。さらにいうと、無とすべてにカテゴライズしようというのが無の思想だ、と言って良いだろう。無と他にすべてにカテゴライズしてしまえば、境目である無も無にカテゴライズされてしまうから、たとえば、実数でいえば、0と符号のある数とに分けてしまえば、カテゴリーは二つになるでしょう?分かりますか?この発想というのが、仏教の無の思想である。つまり、正と負の境目である0を一つのカテゴリーとしてみれば、正も負も何かあるという意味では一緒くたになるのだから、それを区別するのはおかしいぞ、わかるかね諸君と仏教の思想はいっているのである。どうも、ベルクソンはその辺が分かっていなかったのではないかと思うので、少し書いてみた次第。もしかして私の方が間違っているのかもしれないが私なりの解釈を書いてみた。
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