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2012年7月4日水曜日

キリスト教における愛と原罪の意味

といっても、生半可な知識しかないわけであるが、巷間に広がっている知識よりはわずかにマシであろうと思い書く

ところで、その前に、キリスト教のシンボルはキリスト様が貼り付けになった十字架であるが、その前は、お魚だったということを何かの本で読んだことがある。どうでも良いし、間違っている可能性もあるのでちなみに、というだけの話だ。

さて、キリスト様が貼り付けになったのはなぜだろうか。もちろん宗教的な弾圧のせいであろうが、キリスト教では人間には元々背負って生まれた罪があり(そのもとをたどればアダムとイブのエデン追放と思われる)キリスト様はその人間の罪を背負って一人罰せられた、というのがキリスト教の中心教義では無かろうかと思う。これもあくまで、確かそうだったというレベルだが。

さて、われわれに原罪というものがあるとすれば、そして、それを、何の罪もない一が背負って一人未来永劫に罰せられるとするならば、もしそうだとすれば、地球は爆発して全人類は消失した方が良いのではないだろうか、とは思わないか、というようなことをベルクソンは二元泉で言っていたと思う。

これを、強引に浄土真宗の教えである悪人正機説に当てはめようとするとかなり無理がある。この教えは仏様は、本来的にいい人も悪い人も区別なさらず、もし悪人であっても罪を深く悔いているようであれば、人間であれば完璧ではないはずなのに無自覚であるただ罪を犯してないと言うだけの善人よりは、遙かに見所があると思いお救いくださる、という考え方だからだ。誰でも完璧ではないということと原罪を無理矢理当てはめていると言うことと、本当に悪を犯して尚かつそれを深く悔いている、ということと原罪を一人に背負わせている、という後ろめたさとは明らかに違うだろう。

なにをか言わんや、といつも、ごめんなさい、南無阿弥陀仏で何もかも済ませてしまえると思っている連中にたいして腹を立てているのだ。人間の祖先であるアダムとイブがエデン追放になったその原罪を一人を背負って未来永劫に罰せられているのが神の子キリスト様だ。それが、キリスト様の愛である。そして、キリスト様は神の子であるからしてそれが神の愛の現実化であろう、という理屈な訳だ。

何でも安く低くつまり安易に考える連中がその辺りにうようよいるが、おまえら何を考えているんだ、ばか、と常々思う。おまえらは、本当の意味で何も後悔していない。ただ、仕方ないで済ませて、ごめんなさい、南無阿弥陀仏、で終わりだろう。

そういう馬鹿は何もかも腐らせている。神の愛もキリスト様の愛も仏の深い慈愛もすべて腐らせている。いつもそう思う。本当に反吐が出る

2012年5月20日日曜日

日本の一階性思想の要点について


小林秀雄さんの「本居宣長」で描かれている思想は、普通の人が普通に幸せになるのはどうすればいいのかという思想なのです。

まず、日本における高階性の思想の変遷を見てみましょう。日本の国を統治するにはやはり他の国同様の高階性の思想が必要であったことは否めません。これは正義が平等の観念より起り、その平等の観念の裏付けに高階性の思想が必要だったということを意味しているでしょう。

ただ、それは時代時代において変遷するものでした。古代では仏教が重く用いられ、江戸時代には儒教が重く用いられます。

これはそれぞれに仏や天というアニミズムを超越した、こう言ってしまうと語弊はあるとは思うのですか神、というものを想定していると思います。仏をそういうキリスト的な神と同一視しまうのは多少問題があると思いますが、仏が絶対不可知であるという意味において儒教の天という思想に近く、それぞれが自然というものあるいは、我々にとって、知ることのできない運命というものに対しての、いわゆる象徴あるいは観念として表わされているというのは間違いないと思います。

天が非人格神であるのに対し仏は人格神の側面があり、それはそこにおいては、日本神話あるいはキリスト教に近い考え方だとにも言えます。しかし、そういう分類がここでは特に深い意味があるという訳ではありません。

時代時代において国家の統一における思想の根源としてそのような超越神というものが必要になったという側面が強く感じられます。しかし、そこにおいての深い考察はここではしないことにしてます。

ここで言いたいのは、日本古来の思想はおしなべてずっと日の当たらない日陰者だったということです。例えば和歌にしろそうでした。例えば在原業平は、古今随一の歌い手でしょうが、漢籍ができなかったからこそ、上手い歌い手だったという事も言われています。そういうところから日本固有のひらがなやカタカナが生まれてきたというのもまた否定できません。そういういわゆる色好みの家にしか残っていなかったようなものが紀貫之の土佐日記から紫式部の源氏物語と発展していったわけです。

源氏を注釈した宣長は「もののあわれ」ということばに、使用されていた意味以上の概念を付け加え、はち切れんばかりにしたということは小林秀雄さんも指摘しています。しかし、そこから、万葉へ遡りさらには現代でも通用する古事記の注釈をなした、というところが、まず大事なのです。

宣長は官儒とは独自の発達を遂げた、日本の儒学、とくに、荻生徂徠に強い影響を受けていることも小林さんの「本居宣長」には描かれています。また、若いころから仏教をたしなんだことも描かれています。

観相によって人間など所詮肉の下は骸骨だなどという考え方は当時も随分流行ったようです。

例えば、臨済宗禅での初歩の公案に「火を千里先に付けるにはどうしたらいいか」というのがあって、「火になります」というのが正しい答えだったりします。そういうことを繰り返して、悟りを開いているかどうかということを、試していくわけです。しかし、そうやって悟りを開いたからといって、世界が変わるわけでもありません。せいぜい、死んだ後、輪廻転生から外れるくらいのものでしょう。仏と成るかどうかも怪しい。悟ってからが醍醐味という言葉もあるくらいです。

禅の悟りの段階を説いたものに十牛図というものがあります。色々解釈があるようですが、ついには街中に行って人々と暮らす。そこに現世での悟りの終着点があるわけでしょう。皆、坊主になれとはどこにも描かれていない。

そういうことを考える時に、日本神話は面白いもので、スサノオのみことは父のイザナギのみことより、海を司るように命じられながら、母に会いたいとワンワン泣き、姉のアマテラス大御神に会うために天界に行き、不行状によって追放される。追放された後、八岐大蛇を退治する。そういうふうに描かれています。ある種ばかげたぐらいに素直に感情を表に出しています。

勇ましいことは滑稽だ、というのは私の好きな小林さんの言葉ですが、いくら、威張ってみたところで、人々の暮らしは良くなりません。つらいものはつらい、という感覚を忘れようとしても、皆が皆仏様になれるわけではない。仏様になれる可能性はどの人にもある。所謂仏性はもしかするとものにも存在するかもしれない。そういうことは、大事なことですが、すでに説いた素朴な視線を持てば、忘れても良いことです。いわば、緊縮財政を強いたところで結局、ギリシアは政治的に混乱してしまい、再びユーロソブリンリスク問題が持ち上がる。そういう、人の自然な感覚、しかし、どこかで健全性と結びつくような素朴な感覚を大事にしなさい。ということが、「本居宣長」で描かれていることであり、そこが、私は一番大事なのではないかと思います。


2012年5月19日土曜日

日本の思想の特徴

小林秀雄さんの著作である本居宣長を読んでいると、その特徴は素朴さ、やや難しい言い方をすれば一階性にあると言えるだろう。

ここで、一階性を厳密に定義せずに素朴さとほぼ同じ意味で使うのだが、ようするに、日本の神様は何かちょっとでも不思議であれば、それが狐だろう狸であろうが神様になったというところにある。つまり、そのような不思議さの源と成る超越神のようなものを考えなかった。

(16:34付記 ちなみに、日本神話における最高神はもちろん太陽神であるアマテラスのみことであろうが、ほぼ同格に扱われている神様にタカムスビのかみというかみさまがおられて、ムスというのは結びつけて生まれる、生す(産す)という言葉のことであり、現代でも例えば苔生すというような言い方に使われている。そういう意味では、厳密には一階性というより二階性ぐらいまであるかもしれないが、これをメタというには少し遠いように思う)

それは文明の発達と共にあるのかもしれない、ということで民俗学が参考になっているのだろうが、基本的に文字による観念があるか無いかがその分かれ目であるとも言えるだろう。そのような、記憶におけるいわゆるベタさ加減から本居宣長はついに離れることはなく、古代の人の不思議を不思議と思う気持ちにとことん付き合って離れることはなかった、と、本居宣長は描かれている。

複雑になりすぎた金融工学が結局はハイリスクハイリターンかローリスクローリターンかに過ぎないという写像によって分けられてしまう現在に日本的な思想を根本的なところから考えてみるのも何かしら参考になるのではないかと思い、この記事を書いてみた。

要するに、つねに、対象を思いその不思議さに寄り添うようでないといけないというのがなんの商売であっても基本であろう。それを忘れた時にバブルは発生するのかもしれない。こう言う素朴さ、というのはいつの時代も変わらず大事である、というお説教は嗤われるかもしれないが、それをとことんやるとなると非常に難しいと言うこともそこには記されているわけである。そういうところまで読み取れるようであれば、少なくても読書も充実するということは言えるのではないだろうか。

2012年5月14日月曜日

ヒュームの人性論における「近接」の定義

中央公論社の世界の名著というシリーズが熊本県立図書館にあり、その27巻にはヒュームの人性論(土岐邦夫訳)が含まれているのですが、それには、例えば、用例として第一章第六節の第一段落最後の方の一文を書き出すと、「少なくとも諸性質は近接の関係と因果の関係によって密接に、分離し難く結合していると想定される」、とあり、また、その前の第五節においては、 「3 同一についで最も普遍的、包括的な関係は<空間>および<時間>の関係である。この関係は、<隔たっている>、<近接している>、<上>、<下>、<さき>、<あと>、など数限りない比較の源である」 と述べられている部分がある。この部分を代表して「近接」と言う言葉が用いられているようであるので、「近接」あるいは「隣接」という言葉は、必ずしも時間的関係のみならず空間的関係をも含んでいるものと思われる。 以上のような内容の文書を、あとでメモの第参照第五節分の「隣接」を説明したところに用いたいと思う

2011年7月5日火曜日

宗教について

私は、どんな伝統的宗教を否定するつもりもありません。しかし、新興宗教の教祖様になるつもりもありません。絶対にないです。

私が興味があるのは、哲学であり、そこでは、形而上という、形のあるものより上という意味ですが、それを考えることはしばしばあります。それは、しばしば形而上学とも言います。

ベルクソンの『創造的進化」の第四章では、無という概念を批判し、それを用いることで、旧来の哲学がさまざまな問題を持つことを論証しています。そこでも、形而上の存在についてはしばしば考えられています。また、同じく「創造的進化」ベルクソンは本能、生命のバネなどのことばで、それら形而上の存在を立証しようとしています

しかし、一方で、信仰が時に人に信じられないくらいの力をもたらすことには興味を持っています。

私がしばしば例に用いるのは、シベリア抑留の極限状態において観音経を唱えながら壁に観音様を彫ってしのいだ兵隊さんの例です。

やっぱりそういう不思議はあると思いますが、それは私は、生命のバネで説明できるのではないかと考えています。


しかしながら、そのような力を発揮するのには信仰を持つということが前提なので、そこが難しいと思います。信仰ということ自体には、やはり、なんらかの働きがあるのではないか?ということから始まって、とくに、われわれ日本人にとって西洋文明と付き合っていく場合に、キリスト教というものに関してあるいは、ユダヤ教やイスラム教でも良いのですが、一神教という、大変に理解するのに難しい問題も背景に有るわけです。その辺については、この先少しずつ考えていくことになるのでは、考えています。まぁ、まだまだ、先の話ですけどね