2011年12月29日木曜日

最近考えている事・思っている事

結局、母も妹もよく似ているなあ、それも嫌なところが、と彼女らが自分でも言っていた事ではあるけれども。

愛とか恋とか無私とか道とか。ベルクソンさんの「物質と記憶」は、何度も読んでいるうちにその文体に確かに神の愛を感じるなあ、他のは実は読まなくても良いのじゃないのか、そういう意味でも小林秀雄さんは偉かったなあ。しかし、ソクラテスの神がかりは本当に面白い。道と仏教と無私と無とどう繋がるかなあ。あるいは恋と愛と、さらには道と。これが今一番悩んでいる事ですかね。

あとは、日経新聞に連載されている松本幸四郎さんの「私の履歴書」が本当に面白い。非常に勉強になります。続ける事は本当に大事ですよね、と心から思いました。

あとは少し大事な事を何か考えていたけど忘れたなあ。今日はよい天気で、昼寝にも良いなあ、大掃除夕方からにしようかなとか下らない事を今感じています

ああ、思い出した。iPhoneには愛と思想を感じるなあということだった。Appleについてはもう一つ大事な事をずっと以前に思いついてはすぐに忘れたけど、それはまあ良いか、どうしても思い出せないし。




2011年12月28日水曜日

家庭教師の事

今日、アルバイト先の家庭教師先に、少し早く伺いたいと連絡しようと思ったら連絡がつかない。なんだろう、先週ずいぶんお説教したからなんかあったかな、などといろいろ心配しながらも行ってみるといたずら電話がひどく電話から電話線を外しているとの事だった。

帰りにコンビニに行けば、コンビニではどっか見た事のあるような顔のお兄さんがニヤニヤしている。ははーん、なるほど、と思った。人とはなかなか想像力の発達した生き物であるな。

私が今、家庭教師をさせて頂いている家庭は中学3年生の受験生の男の子の指導だがの経済上の都合から、月に3回、各1時間の予定で指導となっている。しかし、受験生の上、隔週の指導になる事も多いので、その場合2週分の指導をして、その間の宿題を出す事となる。

どうしてそこまでしないといけないかというと、もともと、小学生の時からアレルギー体質で学校を休みがちだったため、基本的な学力が著しく不足しているため、まず、指導しないと予習という事からすでに難しいのである。なので、隔週になるような時は2週間分の指導をする事になる。それで、復習してもらった事を確認するのだが、それにも時間は掛かる、というのは、たいていの方にも想像がつくと思う。

確か9月から指導となったのだが、中学一年生の初めの部分からやっている。受験にも役にたつだろうが、高校に入ってからまた、学校の勉強について行けないと今度は退学になるだろう。そういう高校に入ってからの事も考えて一生懸命指導しているのである。

また、月末になると、指導報告書を書かないといけない。今年は大震災や原発事故があったせいもあって、どこの中学三年生のお子さんも勉強しないそうだ。そういう勉強しないお子さんを抱えてるお母様の悩みというか一緒に勉強するように強く説得する事もたびたびある。全く手間暇が掛かるわけである。


しかし、わたしにもいくらかのメリットはある、中学生ぐらいの人がどのような事を考えているかという事は、私のブログを書く時にも参考になるし、指導書を見ていて改めて参考になる事も多い。また、うちから遠いところなのだが交通費もバス代換算のためかやや多めに頂いている。時給の半分強となっている。つまり、時給の1,5倍の収入があるわけだ(勿論私の車のガソリン代は別途必要だが)

何隠すことなく書いた。受験生のお子さんのいるご家庭に、いたずら電話など、馬鹿な事はお止めになるようにお願いしたい。




2011年12月26日月曜日

美を求める心と万葉以前


美を求める心」という小林秀雄さんの講演を元にした評論に、こういう言葉があったと記憶している。

「すみれを見て、そのすみれの美にじっと向き合うことは難しい。大抵の人は、ああ、すみれか、と思ったらすみれを見ることをやめてしまう。美に言葉は邪魔なんです」

文字を使うようになったわれわれは、文字がもたらす観念の世界に生きている。すみれをみてすみれという観念を思い出せばそれで十分なのである。しかし、美とはそういうものではない。すみれをじっと見続けることに我々の唯一無二の体験があるだろう。そのすみれは、すみれという観念の元に括られるだろうけれども、そのすみれはわれはれがじっと見続けることで、われわれに一期一会と言うべき唯一無二の姿を見せるだろう。それこそが本当のすみれの美しさというものであろう。その姿は互いに生きているがゆえにもう二度とは見ることはできない。そこにはスミレの現在の姿と共にわれわれ自身が映し出される。

「美に言葉は邪魔なんです」という言葉をもう一度味わって欲しい。われわれは、言葉に支配されて、あらゆる観念を自由に使いこなしているようで実は観念の制限するもとにしか物事を見てはいない。

これが、万葉以前、古事記の神話の世界を理解しようとするときに最も重要な概念、というよりむしろ行動と言った方が正確であろうが、であり、文字を使うことによって、そこでわれわれが失ったものなのである。

2011年12月21日水曜日

小林秀雄の「道」


最近も様々なストレス要因に悩まされているのですが、その大きな要因の一つに、まだ何か隠しているんだろう、と疑われる事があります。私は何も隠していないのに。それは、見ていれば(そして見ているはずなのに)分かるはずの事だと思うのですが。

そのことについて、いろいろ考えていました。私のようなしょっちゅう大小様々なミスをやる田舎者と「間違わない」という事を重視する文化の違いか、言い方を変えれば「とんこつラーメン」と揶揄される私の行動か、「醤油ラーメン」に象徴されるような、粋な文化かの違いなのか、という事を考えていました。

そういうことも否定はできないかもしれないと思います。しかし、私のやり方として、振り返って思うのは、無心に考えていれば、何かこういうものがあるのではないかなあ、という着想が得られ、それが結果までたどり着くと、として学問の道に沿って歩いていたという事になるのではないか、と思うのです。それが、小林秀雄さんの「無私の精神」であり、学問の「道」ではないかと思います。

小林秀雄さんの作品の集大成は「本居宣長」であり、そこには、小林秀雄さんの学問の道というものが詳細に描かれている、と私は今日、いろいろ考えている時にはっと気付きました。(なので、所用で外出のあとしんどいけれど、今書いています。)だからこそ、アレはまるっきり全部読み通さないと分からないものでもあります。と、私は、自分がそのことを言いたかったけれど、今までうまく言えなかったという事にほんのつい先ほど気が付きました。

くどいようですが、小林さんの著作を読み返したりしてこの考えの考察をするということをやっていない以上この考えは十分ではないであろうけれども、私が基本的に隠し事はしないと証明するためにも、今書いています。

つまり、言い換えれば、まだほんの思いつきの段階で書いているのですが、それはそれとして、何処まで思いついているか、という事も書いて皆さんにわかって頂きたいとも思っています。

ここまで、「小林秀雄の学問の道」というもの、そしてその集大成が「本居宣長」であり、それを通読しない限り、小林秀雄さんが本当に残したかった「学問の道」の軌跡は分からない、という事についてふっと気付いたという事を述べました。実は、このような事を書いてある作品が、小林秀雄さんの「モーツアルト」の評論ではないかと思います。私は、楽譜がきちんと読める人間でもないし、モーツアルトの膨大な作品群を詳細に調べたなどという経験もないので、ではないかと思います、という事になってしまいますが(そして、それは、この文章の性質上、仕方なくやっている事をご理解頂きたいのですが)、私は、小林秀雄さんがモーツアルトの天才は才能ではない部分にあるということで、モーツアルトの手紙からこのような分を引用してた、という部分を記憶によって書きます。(記憶によるのも、この文章の資料的な意味を重要視するためで、調べようと思えば調べられない事はないのですが、敢えて調べずに書きます)

「自分の才能があるとしたら、それは一度思いついた曲を忘れない事にある。曲はあるとき一遍にわき出してきて、それを忘れない事が、私の才能になっている」

以上のような事を小林さんはモーツアルト手紙から引用していたように思います。(繰り返しますが、この文章の資料的な意味を重要視して、記憶のみに頼って書いています)

小林さんは、『天才には天才すら容易に思える時が来る、ゲーテは「天才とは努力しうる才能の事だ」、云々』、と「モーツアルト」の中に書かれていたと思うですが、このことは、端的に小林秀雄さんの「道」を示す部分だと思います。(ちなみに日本では、この部分はかなり有名となり「天才とは努力しうる才能の事だ」というゲーテの言葉は小林秀雄の言葉だと多くの人が思っていたくらい。

(実は、生半可に読んでいた時の自分もそうでした。これをきちんと指摘したのは谷沢栄一(Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%B2%A2%E6%B0%B8%E4%B8%80))

さて、私の思いつきを端的に書いたのですが、これが「道」として証明されるには、小林秀雄さんの「本居宣長」の解説をやる事によるでしょう。正直、様々な案件が溜まっており、また、私の将来が不透明である以上、いつになるか分かりませんが、いつかこの道すなわち、学問の「道」というものをを証明できれば良いなあ、と思います。

あと、最後にこういう文章を残しておきます。ここまでの文章も含めた、本居宣長の解説の前書きになろうか、という部分です。(勿論思いつき)

『小林秀雄の『本居宣長』を解説する事になった。非常に重荷であるが重い荷を運ぶ役を今度は自分が仰せつかったのであろうとあきらめて書くのである。ここには様々な要素が詰まっている。その最大のものは「学問の道」であろう。『道』というのは文字通りの意味で、そこを辿っていさえすれば、野っぱらや山の中で遭難するような事はなく、いつか目的地にたどり着く、という意味だ。何処にも道は通っている。学問においてもその通りなのであり無心に「如何にせん」と問うていれば、必ず『道』は見つかるのである。「本居宣長」には、小林秀雄の無心の問いとその通った道のりが描かれている。それは、「本居宣長」という人の一生を描く事でしか表現できなかったという道なのである。今回の解説では、心脳問題の中心的課題である二心論の重要なポイントがまず初めに書かれている。これが、こうではないか、という小林秀雄さんの着想だ。無心に問うた結果、こうではないかという結論が得られた。そして、「学問の道」に沿ってその「道」自身を描きながら、その思考の行程を見せている。そのことを読者に十分に味わって頂くという事が、私のこの重い荷を背負って辿る文章の目的となるだろう。』

以上、何一つ隠さず書きました。ずっと問うている事がこの文章という結果になっている事をどうぞ、私の誠実さとご理解下さいませ。

2011年12月23日−追記

小林秀雄『モーツアルト』より、より正確に引用すると、以下の通り(ただし難読と思われる漢字はひらがなに直した)

「天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、ほとんど理解されていない。努力は凡才でもするからである。しかし、努力を要せずに成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもそうあって欲しいのである。天才はむしろ努力を発明する。凡才が容易と見るところに、何故、天才な難問を見るという事がしばしば起るのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだという事になろう。自由な創造、ただそんな風に見えるだけだ。制約も障碍(しょうがい)もないところで、精神はどうしてその力を試す機会をつかむか。どこにも困難がなければ、当然進んで困難を発明する必要を覚えるだろう。それが凡才には適(かな)わぬ。抵抗物のないところに創造という行為はない。これが、芸術における必然性の意味でもある。あり余る才能も頼むに足らぬ。隅々まで意識され、何の秘密も困難もなくなって了(しま)った世界であってみれば、、− 天才には天才さえ容易とみえる時期が到来するかもしれぬ。モツァルトには非常に早く来た』



2011年12月14日水曜日

本当にどうしたらいいのか分からない。

今やっている事はできるだけ続けていこうと思っていますが、やっぱり生活というものもあるわけで、さらに、その生活のための働き口がどうにも見つからない、となると本当にしんどいです。もう、出るのは愚痴だらけ。きょうなんか、SNSにも、ローカルの日記にもどれだけ愚痴を書いたか分からない位なのにまたここでも書いているぐらい。本当に苦しいです。 仕事を始めるとなると、今までやっていた事も、もう続けていくのは難しいかも。そう考えると、せめて、ベルクソンの物質と記憶メモだけは、なんとかケリを付けておきたいとは思っているのですが。どうしたものか。本当にどうしたらいいのか分からないような状況。

2011年12月13日火曜日

TwitterをやめたかわりにGoogle+のストリームでつぶやいています

Google+というSNSは御存知でしょうか?わたしは最近そこのストリームでつぶやいている事が多くなりました。公開しているストリームはGoogle+に入会されてないかたでも読めます。
https://plus.google.com/u/0/115531123311454646785/posts

最近はスマートフォンも普及し始めているために、Googleのアカウントを持っている方も多いと思います。Google+に入会したというかたは是非私もサークルに入れて頂くとうれしいです

2011年12月12日月曜日

少し外に出てみました

ハロワにも行ったけど、これといった仕事もなく、元々求職回数が多いため、以前に求人に応じた会社だったりとかも多く、また、今度も続かないようなところに行っても仕方ないと考えるとなかなか難しいものがあります。贅沢言っていますかねえ。結構、期間採用のものにも応募してはいるんですが、ことごとくダメだったりとか。期間採用で働ける事を証明して、という考えも難しそうです。

そういうわけで、なかなか仕事は見つからず、どこかで少しだけでも本を読もうかと思ったのですが、最近、あそこのマック人が多くてねえ、とかいう事もあり、体調も優れない事もありコーヒーだけ買って帰ってきました。

なかなか難しいですね、何もかも。

本当にもうなんと言うべきかも分からない

普通に考えると、とっとと就職すべきなんだけど、
その就職先すらなかなか見つからないと来れば、
まあ、鬱でやめて6年も仕事してなければ当たり前なんだけど、
本当に、もう行き詰まって、どうしようもない状態。

今日も、体調は今ひとつで昼過ぎまで横になって
今少し食べ物を食べた。

本当に私が何をしたんだろうね。
暴走族とか様々なデマで苦しめられ、
ようやく鬱も治ってきたと思ったら、
仕事もないし、体調も悪くなるしで。

もう本当に愚痴しか出ません。
しんどい。世の中全部が私を苦しめようとしているのか?
という気にすらなってくる。もしそうなら自業自得な面も
大いに思い当たるが、ここまでされるほどの事なのか?
とも思うし。ほら、デマとかの部分ね。で、いま仕事もないと。


そういう愚痴の繰り返しループ。
今日は晴れたからな、少し外に出た方が良いかな。
気は進まないがハロワに行くか。

2011年12月11日日曜日

色々ありますが、明日からも頑張ろう。

どうせ言っても仕方ないので、長いものには巻かれろともおもうのですが、言いたいこと言っておこうと思います。

いいときに他産業のことを見下し(テレビポーンなど)、悪くなったら、税金の補助とか減税だとか要求する。上から下まで嫌がらせも平気でやる。そういう、傲慢で不遜なところが、自動車産業の人たちが気に入らないところです。客も見下しているのがみえみえ。本当に嫌いですね。

今日は、あまり食事もとらず一日寝ていたわけですが、本当に気分の悪いことばかり不思議に起こるわけでね。なんでこうなんだろうと思うと、やっぱりこういう性格なのかなと。自分では思うわけです。

こんな軟弱なのに、言いたいことは言うもんだから、良いターゲットになっているのでしょう。本当に吾ながら、おかしな人間ですよね。

とりあえず、元気も少し出てきたし、気持ちを切り替えて明日からは頑張ろうと思います。

なぜ電子部品は海外製か

2011年12月10日土曜日

ツイッターやめました。

ツイッターは便利だけど、記録として後で振り返るのはちょっと不便だと最近思っていたところに、昨日の書き込みでどうにも、お気に召されなかった方々も多くいらっしゃったようで、ちょっともう本格的に参ってしまいました。

というのも、最近余りよく夜眠る事ができなくて、昨日は少し寝付きは良かったけどいったん起きたあとなかなか眠れないなどあって、少し参っているところに、この寒さ。で、お気に召されない方々からのパンチ()

どうにもこうにもですね、やる気を無くしてしまいました。何かがぷつんと切れた感じと言えばいいですかね。

というわけでこうやってブログに戻ってきて、いろいろ書こうと思うわけです。

別に、みんなが脳科学の産業に移れというわけではないんですよ。たとえば、価格競争が厳しいものは、人件費の安いところに移していき、日本では、価格競争力のあるものを、という事がベースとしてあるわけです。

もう一つは、年を取って退職して、でも、お金でお金を増やすという事に乗り遅れた時にですね、それでも皆さんは賢くて、お金でお金を増やす事も国益にかなうけどなあ、という時にですね、やっぱり、自分が知ってる事に投資するのが一番良いじゃないですか。そういうことも考慮に入れた上での提案なんですけどねえ。

はあ。本当に参りますよ。いろいろ質問して来るなりなんなりすれば良さそうなのに、いきなり中指をたてられるような真似をされるとですね、こちらとしても、精神的もどう反応するべきかという点においても困るわけですよ。

今日は本当に疲れ果てました。