2011年9月22日木曜日

小林さんの二つの『本居宣長 補記』について

小林秀雄さんの『本居宣長』には二つの補記がある。その二つの補記は、一つ目はベルクソンの言うところの「持続」の問題、宣長の言葉で言えば「真暦」。二つ目は、言葉の問題を扱っている。

依然、この本居宣長の「真暦」について扱った文章を書いたのだが、思うように意を伝えることができなかった反省がある。そこで、今週メモお休みさせていただき、『本居宣長』の下巻からだけでも読み直して改めて文章を起こそうと思った次第である。

ようやく少し考えがまとまりつつあるのだが、まず、少し補記についても整理をしておこうと思いこの文章を記してみたのである。明日から簡単ではあろうが、再び小林さんの『本居宣長』補記をテキストとしてに宣長の言う「真暦」について述べてみたいと思う。

2011年8月13日土曜日

小林秀雄さんの本居宣長について

小林秀雄さんの本居宣長では、ベルクソンが主張する記憶の全保存について本居宣長がそれらしいことをすでに19世紀に考えていたことが指摘されている。その部分について、やむを得ず触れたものをやはりmixiの日記に書いているのでそれを公開したい。小林秀雄さんが、日本においての心脳問題の先駆者だったというのが私の主張だが、これを読んで頂ければ、そのことをご理解して頂けるのではないかと思う


「本居宣長」の出だしについて 2011年03月08日22:08

小林さんの「本居宣長」は宣長のお墓の話から入る。その前に若干、若い頃に、民俗学の大家、折口信夫を訪ねたときのエピソードが載っているのだが、まあ、お墓の話から入ると言って良いだろう。お墓を尋ねていったときのエピソードに始まり、宣長の遺言に及ぶ出だしであるからだ。

そこが一番の謎だった。なぜなら、「本居宣長」の最後には、これで最初に戻る、ということが書かれているのである。

今日、ぼんやりしているとここが最も重要かもしれないとも思われた。

この『最初に戻る』、というのは私が理解している限り二つの意味があるようだ。原点に戻る、ということと、もう一つはやはり、過去に過去を語ることに関する自己言及パラドックスのことであろう。

原点に戻る。というのは難しい。追々説明していくことになろう。もちろん、太陽の周期から時という概念を持つようになった、ということもできる。しかし、生命の始まりと終わりの繰り返し、それが長いときを通じて、それぞれの生命の一度きりしかない瞬間が死で終わると捉えた方が良いように思う。

原稿を依頼されてからしばらく経ったある日、天気が良かったので、宣長の居た松坂へ行こうとした。旧跡を尋ねていくと、旧邸宅は鈴屋遺跡として大切に保存されていたが、お墓は地元の松坂駅に止まっていたタクシーに聞いても分からないという。

そのような形で、徐々に宣長の遺言の話に入っていく。遺言書から入るのは、宣長の人柄を知るのに良い資料であると同時にその思想の結実と言って良い最後の著作であると小林さんは位置づけている。思想の結実、から入っているので、『本居宣長』の最後が最初に戻るというのが一番分かりやすい解釈かもしれないとは思う。主題とも言える結論をまず示しておき、変奏曲のように変奏をしていく。実際、『本居宣長』では、そのような記述をされているところもあるからだ。

宣長は遺言に、お墓ついて、葬られ方について、後々の祀られ方について詳しく指定している。

お墓は二つあるらしいが、これは当時の人に普通のことであった。ただ、そのお墓の一つは図示をしてまでいろいろ指図している。墓はとにかく質素で良い。しかし、大好きだった桜も植えて欲しいなどなど。

そして、細かく自分の送られ方を二通り書いている。まず、遺体は夜中、密かに寺へ送れ。そして世間並に葬式をせよ。葬式の際には空の棺桶を墓に送れ、仔細などない。しかし、これはさすがに、当時でも異様だったらしく、役所にとがめられているが、宣長には、彼が到達した思想より、そうするよりほかどうしようもなかった、と小林さんは書いている。

ここが大事なポイントだと思われる。つまり、小林さんは、宣長があたかも記憶には2種類あり、ベルクソンが言う、「運動図式」もしくは「感覚-運動系」などとも呼ぶ「純粋記憶」が表だった葬式の時に運ばれる空の棺、そして、先行してひっそりと夜中に密やかに寺へ送られる実際の遺体が「イマージュ記憶」と言うように考えていたのではないか、と密かに指摘しているように思えてならない。

そして、祀られ方について述べているが、これはもちろん、個人の死とその生前を忍ぶ、という意味で記憶が演繹されているならば、自己言及パラドックスに陥る。ということを表現しているのだろう。このことについては前稿で述べたので詳しくは説明しない。

補足して説明しておくと、宣長が寺へ葬られたのは、当時、日本で戸籍を管理していたのが仏教の寺であったためだ。当時、日本は鎖国中でキリスト教を排除するための制度でもある。

さて、「原点に戻る」という意味をもう少し補足しよう。宣長は実は遺言を書く前に、死後のことを研究するのは弟子に禁じていた。それが、急に遺言を書くために、墓所を探したりに出かけたりなどするものだから、弟子も大変に不審がっていたようだ。

すでに前稿で書いたように、宣長は自分の思想が自己言及パラドックス陥るのを防ぐために、全て考えたことをありのままに後世に残そうとした。そこでは、死ねば皆、黄泉の国に行くのであり、仏教の言う輪廻転生などない、と教えているのである。

さくらは繰り返し咲き、そしていつか枯れるだろう。枯れたら新しいのを植えよ、というのが宣長の遺言にある。

繰り返す季節の中で、生命は一続きの時間を繋いでいく。これが、『最初に戻る』という意味ではないか。見る人によっては、少々、無理矢理かもしれないが、私にはこう思えてならない。

P=NP?問題の証明のもっとも肝心な部分についての考察

私の知っている範囲で言うとP=NP?問題では全て肯定的なリラテル(論理式の最小単位)の場合P=NPであることが証明されています。

残る問題は否定のリラテルがあった場合、計算量を減少させられる事が知られていますが、それがどれくらいの影響があるかと言うことでしょう。

そこで考えたことを、以前mixiの日記にメモ書き程度に残したことをここに公表したいと思います。ちなみにRotaTRはわたしのIDです。


否定のリテラルによって減少する計算量は0 2010年09月28日14:29
SATに於いて計算量を減らせるのは、
あるブール変数以外がまったく同じ場合

節集合Cの各節はブール変数の論理和で表されるが
そこに表されていないブール変数の値はFとしてよい。

従って各節はブール変数の二つのリテラルとFの3つの値を取り得る。

ブール変数の集合Uがm個のブール変数を持ち、mが十分大きいとする。
また、節集合の元の個数rとする

このときある節が節集合Cに現れる確率はr/3^m
それと対になり消滅する節が同じ節集合に現れる確率もほぼ同じ

一方それによって少なくなるTMの計算量はO(r/2)

従って、mが十分大きいとき否定のリテラルによって減少する計算量は0
コメント
コメント

RotaTR2010年09月28日 14:41

> SATに於いて計算量を減らせるのは、
> あるブール変数以外がまったく同じ場合
> 説集合Cの各節はブール変数の論理和で表されるが
> そこに表されていないブール変数の値はFとしてよい。
> 従って各節はブール変数の二つのリラテルとFの3つの値を取り得る。
> ブール変数の集合Uがm個のブール変数を持ち、mが十分大きいとする。
> また、節集合の元の個数rとする
> このときある節が節集合Cに現れる確率はr/3^m
> それと対になり消滅する節が同じ節集合に現れる確率もほぼ同じ
> 一方それによって少なくなるTMの計算量はO(r/2)
> 従って、mが十分大きいとき否定のリラテルによって減少する計算量は0

少なくなる計算量は平均でm/2の定数倍が正しいです。
お詫びして訂正いたします

RotaTR2010年09月28日 19:45
リラテル=>リテラル
説集合=>節集合

と修正

RotaTR2010年09月29日 03:45
しまった。いろいろ間違ってる。

{{a,b},{a,NOT(b)}={a}

だw

まぁ、こんな感じで減らせるんでしょう。
節の出現確率のところだけは使えるな(笑い)

RotaTR2010年09月29日 03:50
情けないなぁ、まったく

補足しておくと、{{a,b,c},{a,b,NOT(c)}}={{a,b}}

まぁ、減らせる計算量は同じだけど、更に減らせる可能性があるよね

RotaTR2010年09月29日 03:52
{{a,b,c},{a,b,NOT(c)},{a,NOT(b})}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a}}

とかね。

RotaTR2010年09月29日 03:55
あ、しかし、そういう節の出現確率も上記の出現確率だから、良いのか。
あははw

ま、まぁ、出先でのメモということで許して下さい。
いろいろと検討が足りなくてすいません。

RotaTR2010年09月29日 04:10
しかし、ごくまれだと思うけど、


{{a,b,c},{a,b,NOT(c)},{a,NOT(b})}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a}}

の例のように計算するブール変数の量が減らせるときは、計算量は著しく減る場合もあるね。そこの変まできっちりと計算する必要があるのかな。ないと思ってたけど、検討すべきですか?うーん、ちゃんとすべきかもね。そこ変が残る課題か。

RotaTR2010年09月29日 04:19
あ、いいか。そういえば、昼に頭の中で検討したときには、パターンは出現確率がr/3^mに対し、そのようなパターンで削減される計算量はO(2^m)なので、削減量は確率を考えると、最大でO(2^m/3^m)なはずで、mが大きくなると、0に近づくと考えたのだけど、大丈夫だよね?

RotaTR2010年09月29日 04:20
なんか、本当にいろいろダメだなぁ(苦笑)

少し昔話をしよう

パーセプトロンやP=NP?のブログをやらないことでいろいろいわれるようになった。

ところで、ちょっと前のmixiの日記を見たらこういうことを書いていた。なんでもそうだけど、某とかが私のやることにくちばしを突っ込んでは、要らんことばかり言われていた一つの証拠をお見せしたい。

ちなみに、P=NP問題に関して私なりの解答は考えたのでそれは後ほど公表したい

(以下その日記)

P=NP?問題を考えてみたい理由 2009年05月27日19:11

私は、残念ながらお金にはならなかったが、
動画の超解像技術の元になったアルゴリズムや、
その他、クラスNPと思われる問題の解決に於いて
いくつかのヒューリスティックアルゴリズムを考え出した
実績がある。


また、非線形な問題を考えるときには、ある種の変換を持って
線形な問題として解くともあれば、シミュレーションによって
最適解を得ようとする場合もある。

私の場合、人工知能の研究などでしばしば、
ヒューリスティックアルゴリズムを持って解決するということが多い。

一体、ヒューリスティックアルゴリズムという問題解決方法
一種の知識は、ただの試行錯誤の結果なのか?
そもそも、問題を解決するとはなんなのか?

その根本はどこから来るのか?という意味でP=NP?問題は
大変に興味深い。

非線形がある種の経験論、言い換えれば、経験の知識の組み合わせで
あるかもしれないのに対して、
つまりは、非線形性を線形に置き換えて解くか、
経験というデーターベースによるシミュレーションによって
最適解を探すか、ということに置き換えられる可能性が高いのに対し
NP問題に何らかの解決をもたらそうとする
ヒューリスティックアルゴリズムは経験上全く別種のものである
ということが言える。

それは、ヒューリスティックアルゴリズムは、アルゴリズムというように
何らかのアルゴリズムがあるからである。

精神の一部がヒューリスティックアルゴリズムの集合であるということは
否めない。それは、我々の感性が教育によって共有されることからも判る。

そういうわけで、P=NP?問題は私には非常に興味深い問題なのである。

だから、あまりうるさく言わないように。

2011年7月23日土曜日

シュレディンガーの猫のパラドックスを私なりに説明してみた

一般に量子力学では、一般的な常識とは全くかけ離れたことが起こる。最たるものはERPパラドックスもしくはシュレディンガーの猫のパラドックスなどの一般に観測問題と呼ばれる問題が起こる。このことは、量子力学のようなミクロスケール(およそ10のマイナス6乗以下のスケールと言われる)で起こるような現象を説明する物理学で発生する問題である。

私なりにシュレディンガーの猫の話を解説してみたい。

シュレディンガーの猫のパラドックスは、簡単に箱を開けるまで猫は生きてるか死んでるか分からないという言い方で説明される。なんだ当たり前じゃないか、という人は常識人である。量子力学の世界では、猫は生きてるか死んでるか観測されるまでは両方の状態が重ね合わさっていると説明している。こうなると常識ではないだろう。

箱の中に猫は居ることは分かっているのである。しかし、その状態が分からない。本当は分からないのではなく、生きてる状態と死んでる状態が重なっている。これがシュレディンガーの猫のパラドックスというものだ。

ん、量子力学はミクロスケールを扱う話じゃなかったの?といった人は偉いと思う。一般に、われわれの生活する単位ではニュートン力学、天文学的なスケールではアインシュタインの相対性理論が適用されるのが現代物理学の常道であり、シュレディンガーの猫のパラドックスは、じつは、ミクロスケールの話がマクロスケールに及ぶという点も大事なのだが、ここでは分かりやすく猫が生きてるか死んでるかの状態が重なっていると説明している。まぁ、なんだ、要するに、あるミクロスケールの量子の観測結果で箱の中の猫ちゃんを殺すようなスイッチがオンになるかオフのままかと言うことが問題となってくるということを端的に示しているとここでは考えてもらうと良いだろう。

さて、結構パラドックスの説明に手間が掛かったが、まず、歴史的背景から説明しておこう。

ニュートンの時代、光は波であると考えられていました。例えば屈折で本来影の部分がやや明るくなるとか回折で明るい部分とくらい部分の縞ができるとか。

ところが、科学が進んで、アインシュタインが特殊相対性理論を提唱する前になってくると、次のようなことが分かってきます。(以下、Wkipediaの特殊相対性理論の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/特殊相対性理論)から抜粋しながら引用します)

まず、節「量子力学と特殊相対性理論の関係」から引用しましょう

量子力学と特殊相対性理論の関係 [編集]
詳細は「光量子仮説」、「量子力学」をそれぞれ参照
量子力学や相対性理論の登場する以前の物理学は、ニュートン力学によって物体の運動が、また、マクスウェルの方程式によって電磁波の振る舞いが記述されていた。
量子力学が発展する過程で1905年にアルベルト・アインシュタインは、電磁波に粒子としての性質があることを仮定しなければ光電効果などの物理現象を説明できないことを見出した(光量子仮説)。この光量子仮説は、アーサー・コンプトンが電子によるX線の散乱にコンプトン効果を見出したなど複数の有力な証拠により支持された。これによって光が波(電磁波)としての性質をもちつつ、粒子としての振る舞いをするということが明らかになった。
運動する物体の振る舞いと電磁波の振る舞いが本質的に同じものであるということが示唆される一方で、それらがニュートン力学やマクスウェルの方程式では記述できないことという矛盾は、ド・ブロイによって物質波の概念が与えられ、実験的に支持されるようになると一層顕著になった。

(引用終わり)

つまり、光を含めた電磁波は粒子の性質があるということがアインシュタインによって唱えられそれが様々な観測によって立証されたわけですね。

これを解決するために唱えられたのが、アインシュタインによる相対性理論な訳です。つまり、一般的な物体の動きを説明する古典力学と古典電磁波学を統合したのが相対性理論とも言えるわけです。

つまりは、相対性と光速度普遍の原理。ここもWikipediaから引用しましょう。

相対性原理の導入 [編集]
当時、エーテルという仮想の物質が空間に充満しており、電磁波はエーテルを媒体にして空間を伝播すると考えられていた。しかし、エーテルに対する地球の相対速度を検出すべく1881年に行われたマイケルソン・モーリーの実験では、そのような相対速度は検出されなかった。この結果は、地球が宇宙に対して絶対的に静止しているか、そもそも絶対静止空間という考え自体が間違っていることを意味していた。このような背景のもと、アインシュタインは、次の二つの仮定(公理)のみをもとに思考実験をするとどのような結論が得られるかをまとめた。
1. 力学法則はどの慣性系においても同じ形で成立する(相対性原理)。
2. 真空中の光の速さは光源の運動状態に無関係に一定である(光速不変の原理)。
これらの仮定を満たすためには、それまで暗黙のうちに一様で変化しないとみなされていた空間と時間を変えるという方法を用いる。

これが相対性理論の骨子です。

さて、問題のシュレディンガーの猫のパラドックス量子力学の話でしたね。アインシュタインは光電効果の説明でノーベル賞をもらい量子力学の基礎を開いた人ですが、後の量子力学には大変に強い不満をもらしています。(ちなみに、アインシュタインは相対性理論ではノーベル賞をもらっていないというところが面白いところです)

それは、量子の状態が確率的にしか求まらないと言うことからです。

では、いよいよ量子力学の不思議について徐々に説明していきましょう。

先ほども述べましたが、光には、波の性質と粒子の性質があります。粒子の性質と言いましてもだいたい粒子ってというところから始まってねぇ、そこがそもそもややこしいところです。

量子力学ででてくるスケールでの単位があります。プランク定数と呼ばれるものです。例えば電磁波のエネルギーを示す式に

E=hν

という式があります。エネルギーはh(プランク乗数)かけるν(振動数=周波数の逆数)という式で表せるということです。

この式を見てもらうと分かるように、電磁波のエネルギーはプランク定数の何倍になっているかで表せます。つまり、プランク定数は量子のエネルギーの基本的な単位となり、また、電磁波のエネルギーはプランク定数ごとの飛び飛びの値しか取らないということが分かります。

つまり、光のような波と粒子の性質を持つものはエネルギーがプランク定数単位で飛び飛びの値しか持ち得ないということも意味しています。お金なら一円単位ですよね。量子のエネルギーでその一円に相当するのがプランク定数と考えて下さい。
(じつは、このようにエネルギーがプランク定数単位で飛び飛びの値しか取らないということが量子の名前の由来なんですけどね)

さて、光が量子であるということは分かりました。ところが、この結果から、ド・ブロイという人が全ての物質も波の性質を持つことを言い出しました。このことは後に証明され、全ての物質は波であり粒子であるということが分かってきたのです。(Wikipedia、ド・ブロイ波参照(http://ja.wikipedia.org/wiki/ド・ブロイ波)

ところで、量子はあまりに小さいので観測すると観測自体が量子に影響を及ぼし、その運動量と位置を同時に正確に把握することができないという、量子の不確定性原理というものがハイゼンベルクによって提唱されるようになりました。(Wikipedia、不確定性原理(http://ja.wikipedia.org/wiki/不確定性原理)の項参照)


この原理は、その後、量子の基本的な波の性質記述する波動方程式(Wikipedia、波動方程式(http://ja.wikipedia.org/wiki/波動方程式))が確立することによりその解釈を巡っての話に吸収されます。

さて、この波動方程式が意味するところは、量子の位置は確率的にしか求まらない。ということ。そして、観測するまではその位置は確定しない。ということを意味していたのでさあ大変、大論争が起こりました。しかし、実験の結果、やっぱりのこの波動方程式は正しいと言うことになったわけです。

これが、先ほどのシュレディンガーの猫のパラドックスにつながってくるんですね。つまり、観測されるまで猫が生きてるか死んでるかというのは、重なり合わさった状態だということです。

実はですね、この観測された時に波動関数が収縮して位置が決まるという考え方は、波動関数のコペンハーゲン解釈といいます。

かの有名な、ホーキング博士は多世界解釈という考え方にたたれているそうです。多世界解釈というのは、量子はたくさんの波の重なり合わせの一番強い部分であり、その位置はわれわれが観測する時に確率的に決まっているように見えるが、全ての取りうる可能性の一つを観測しているに過ぎず、他の可能な事象を取る世界はまた別に存在するという解釈です。

かくも不思議な解釈が成立するのが量子力学(特に波動関数)の世界であり、他にもいろいろな解釈があるようですが特に代表的な解釈を示しました。

しかし、こうなると、哲学の存在論も何もあったもんじゃないような世界となります。物質が波であり粒子だなどといわれてもわれわれの経験的認識にとってはごく特殊な世界ですよね。

だから、われわれはその辺りについては、ニュートン力学で説明する範囲で哲学的経験論、認識論というものを考えるということがまず重要になってくる、私はそう思います。

もちろん、この辺りを統合しようとされている方もいらっしゃいまして、それが、たとえば、イギリスのペンローズ先生がやっておられる、ツイスター理論や量子脳理論などにつながってくるわけです。(Wikipedia、ロジャー・ペンローズ(http://ja.wikipedia.org/wiki/ロジャー・ペンローズ)の項参照)


ペンローズ先生の理論は私が支持しているベルクソン哲学とは大変違う考え方ではあるようですが、また大変に尊敬している方の一人でもあります)

2011年7月5日火曜日

宗教について

私は、どんな伝統的宗教を否定するつもりもありません。しかし、新興宗教の教祖様になるつもりもありません。絶対にないです。

私が興味があるのは、哲学であり、そこでは、形而上という、形のあるものより上という意味ですが、それを考えることはしばしばあります。それは、しばしば形而上学とも言います。

ベルクソンの『創造的進化」の第四章では、無という概念を批判し、それを用いることで、旧来の哲学がさまざまな問題を持つことを論証しています。そこでも、形而上の存在についてはしばしば考えられています。また、同じく「創造的進化」ベルクソンは本能、生命のバネなどのことばで、それら形而上の存在を立証しようとしています

しかし、一方で、信仰が時に人に信じられないくらいの力をもたらすことには興味を持っています。

私がしばしば例に用いるのは、シベリア抑留の極限状態において観音経を唱えながら壁に観音様を彫ってしのいだ兵隊さんの例です。

やっぱりそういう不思議はあると思いますが、それは私は、生命のバネで説明できるのではないかと考えています。


しかしながら、そのような力を発揮するのには信仰を持つということが前提なので、そこが難しいと思います。信仰ということ自体には、やはり、なんらかの働きがあるのではないか?ということから始まって、とくに、われわれ日本人にとって西洋文明と付き合っていく場合に、キリスト教というものに関してあるいは、ユダヤ教やイスラム教でも良いのですが、一神教という、大変に理解するのに難しい問題も背景に有るわけです。その辺については、この先少しずつ考えていくことになるのでは、考えています。まぁ、まだまだ、先の話ですけどね

2011年6月27日月曜日

経済状態について

いま、まだ病み上がりと言うこともあって、親の老後の貯金をがじがじとすねかじりしているようなとてもみっともない状況です。本当に来年の4月までに職が決まらないとまずいんですよ。そこが現在もっとも憂慮している点。