2013年4月14日日曜日

将棋が強いとはどういうことか

昨日(4月13日(土))、将棋の公式戦としては初めてとなる現役プロ棋士とコンピュータ将棋の対戦、第二回電王戦の第4局塚田九段対Puella α(プエラ アルファ)があり引き分けとなりました。

Puella α(プエラ アルファ)の作者である、伊藤英紀氏はコンピュータ将棋はすでに、名人を凌駕したとおっしゃったそうです。その根拠を、氏のブログ(A級リーグ指し手一号)の4月3日分のタイトル「現状認識@2013年4月」という記事において、レーティングの点数からの類推として述べておられます。つまり、現在までのレーティングの点数で人間のプロ棋士におけるレーティングは名人で約1,900点、それを将棋24など、コンピュータ将棋も参加できるレーティングでは何点。計算量を増やせるようにすることにおいて数百点は上乗せできるのでその換算で行くと、レーティングから見た場合、コンピュータ将棋は名人を上回る、というのが理由となっています。

さて、レーティングというのは、大雑把に言えば平均的な強さの目安となっています。強い人に勝てば点数は多く増え、弱い人に負ければ多く点数が減る。同じぐらいの人には勝ったり負けたりだから、だいたい同じぐらい強い人同士は同じ点数になるだろう、ということです。

さて、伊東氏の思考は平均的に強い、ということがレーティングで表せる、ということで、名人よりもコンピュータが強いと主張されているわけですが、その平均的に強い、というのはどういうことでしょう。わたしは、その時点で氏の思考が終わっていることに少々違和感を覚えるので、穿った見方をしてみたいと思います。

平均的に強い、というのは、氏の考えでは、間違わないということと同義でしょう。将棋は読みのゲームであり、序盤中盤は、できるだけ終盤において相手の王様を詰める可能性が多い道筋をたくさん残すような可能性のある手を指し、最後には読みにおいて相手を上回り止めを刺す。これが将棋の本質であることは間違いありませんから、氏の考え方には十分な説得力があるようにも見えます。

しかし、それは、これまでの膨大な将棋のデーターベースがあってそれによる数学的帰納的な演繹(計算)方法が確立されている、という前提があるから故です。実際将棋というのは、すでにそれくらい成熟していると言っても過言ではないでしょう。しかし、電脳戦の第一局で阿部 光瑠(あべ こうる) 四段が、習甦(しゅうそ)の弱点をついて勝利を収めたというのは、効率的な帰納推論の弱点をついたものといえるでしょう。

わかりやすく言うと、例えば、名前のつくような戦法が新たに発見された時にコンピュータソフトは自身だけでその戦法に有効な対応策を考えられるかという問題があります。たしかに、現在のコンピュータ将棋は力将棋に持ち込まれても十分に勝てる実力を持っていますが、新戦法、あるいは、実践例が少ないような、今回の塚田九段の採られたような入玉ということにおいての対応は十分取れていないでしょう。

つまり、コンピュータは、新しい戦法を作り出せないし、新戦法が編み出された時に自身のみでは十分に対応が取れない(もちろん作者のサポートがあれば可能かもしれませんが)という点で、必ずしも名人よりも強いとは言い切れない本質的な問題点を抱えているということです。

言い換えれば、コンピュータ将棋というのは、二つの意味があり、狭義で言えばコンピュータのみで将棋を指すということでしょうが、広義のそれとしては、試合で将棋を指すのはコンピュータではあるが、実際にその戦法やアルゴリズムの改良においては人間の手助けがまだ必要である、という部分を含んでおり、伊藤氏は、広義と狭義を明らかに混同して用いられており、その上でコンピュータ将棋は名人よりも強いと言われているように思われます。


2013年4月2日火曜日

バカにされつつも

結局は、上手くないのかもしれませんが、悩んだ挙句

「小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について」

を公開停止と致しました。

以上、よろしくお願いします。

2013年3月21日木曜日

さらなる抗議のための閲覧停止記事の追加に関して

マスコミ関係者の方々を始め2chのインテリ住人の方々がなかなか面白反省の仕方をされているようですので、以下の記事をさらに閲覧停止に致しました。

ある程度、年齢が行った女性の方でも女子と言いたがるのは若さや容姿にしか女性の価値を見いだせない現状があり、また、そのような人たちが実際に起こす下劣な行動を言葉で糊塗をしようとすることにほかならないという批判をしたつもりですが、異常な捉え方をし、わけの分からない屁理屈を述べて、あくまでも自分の責任や行動に悪いことはない、私という人間の過去がひどすぎるからだ、などということを述べておられるようです。

よろしい、全面戦争ということですね、ということです。



                            記す


マスコミ関係者と思われる人達その他の言動は、全く反省の色が見られず、あくまで責任はすべて私にあるかのごとく私に対して非難をする姿勢を変えず、歩み寄ろうという点も全く見られず、さらに、その言動は悪質極まりないためさらに以下の記事を閲覧停止に致しました。悪質さは極めて異常とも言え、さらなる記事の閲覧停止も近々公表する予定です

・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その6 第六節 諸観念の連合ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 精神と記憶 その8 第八節 意識の多様な平面ベルクソン「物質と記憶」メモ

                                             2013年3月21日
 

2013年3月15日金曜日

二人静一部コンテンツの閲覧停止について


かねてから告知しておりましたとおり、二人静のコンテンツのうちいくつかの記事を閲覧停止にしました。様々ないじめ、嫌がらせ、搾取に抗議するためのやむを得ない措置です。どうか、ご理解とご協力を賜りますようお願い致します。


閲覧を停止したのは以下の記事です。

小林秀雄さんの思想メモ
・小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について 
・「本居宣長」の出だしについて
・New Ageと小林秀雄
・わかったと言えばわかっている。わからないと言えばわからない


ベルクソン「物質と記憶」メモ

・ベルクソン 「物質と時間」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第五節 「延長と伸張性」...ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第四節 「持続と緊張」ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その5 第五節 一般観念と記憶 (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その4 第四節 過去と現在の関係 (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (中)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (上)ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と記憶 その4 想起と運動 (中) (mixi:2009...ベルクソン「物質と記憶」メモ
・ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動  (上) (mixi:200...ベルクソン「物質と記憶」メモ

2013年3月5日火曜日

コンテンツ閲覧の制限を検討しております

大変申し訳無いのですが、一方的な搾取といえる状況に我慢も限界に達しております。従いまして、対抗措置として、二人静のコンテンツの内いくつかの記事の公開をやめることを検討しております。どうか、ご理解いただけますようよろしくお願いします。


               記

 内容:二人静内のコンテンツのいくつかの記事の公開停止
 期間:3月15日より無制限


予告しておりますのは、それなりに準備が必要な方もいらっしゃるかもしれないという配慮です。どうぞご理解ご協力をお願い致します。

2012年12月13日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ 第四章第五節分での重要な誤りがありました の で、先行公開いたします。

現在、第四章第五節分にて、重要な誤りがありましたので、こちらの訂正箇所を先に公開したいと思います。

なぜこのような誤りが生じたかについては、一つは、やりたくもないことを無理やりやらされていたという状況、つまり、鬱状態にていじめの状態が続いている状況下において、むりやり、第四章が重要だということでやらされていたために、この辺りの確認がおろそかになっていた、ということをあげたいと思います。個人的には、第一章をもう一度確認してから、いうことを申し上げていたと思いますが、許される状況になかった、ということです。それで、勝手にのぞかれた上に再び陰湿ながらせをしやがって、という今の現状には怒りを禁じ得ません。次に同じことがあれば、我慢の限界です。哲学に関してはやっている人間はくずだとみなし、一生思想、哲学に関しては軽蔑し続け一切なにもしないと誓います。

以上、いろいろ言いたいこと、御非難もあるでしょうが、謝る気は一切ないと言わせていただきたいと思います。はっきりいうぞ、いじめばかりして搾取して当然とおもっているくそばかども、散った自分でもテキストを読め、くずが。お前らのようなバカはしんでしまった方が世界平和のためだろう。二回の大戦がなぜ起こったんだよ、そんなにえらそうなら。本当に役立たずのプライドだけは高え、クズども、滅びればいい。

言いたいことは以上。

この後、視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第四節『イマージュの選択』(第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』の(p.75 12行目-p.76 7行目))が、重要なので繰り返す、と言っている部分を引用して見てみよう。以下、相当長いが、このことが段落の最後まで述べられている。所々に注釈を入れながら見ていこう。

(2012/12/11 「視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第四節『イマージュの選択』、(p.44 13行目-p.46 14行目)が相当すると思われる)」という部分、実際には第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』の(p.75 12行目-p.76 7行目)が実際は相当すると思われるので訂正した。読者の皆様には、このような過ちを起こしたことを、こころよりお詫びいたします。なお、参考までに少し長くなるが該当部分、二段落を引用しておきたい。

『われわれは、論述を簡略化するために、われわれがかつて例として選んだ視覚的感官に戻ることにしよう。通常網膜の錐状体と桿状体によって受けられた諸印象に対応する要素的な諸感覚が与えられる。視覚的知覚が再構成されるのは、これらの感覚を用いてである。しかし何よりまず、一つの網膜があるのではなく、二つの網膜がある。それゆえ、相異なるものと想定された二つの感覚が、空間の一点とわれわれが呼ぶものに呼応する唯一の知覚のうちでいかにして融合するかを説明しなければならないだろう。』(p.75 12行目‐17行目)

『この問題が解決されたものと想定しよう。話題となっている諸感覚は非伸張的なものだ。その感覚がいかにして伸張を授かるのか。延長の中に、諸感覚を受ける準備のできた枠組みを見るにせよ、あるいはまた、一緒に融合することなく意識のなかで共存する諸感覚の単なる同時性(simultanéité)の結果を見るにせよ、どちらの場合でも、延長と共に、それについては説明されないような何か新しいものが導入されるだろう。そして、感覚が延長と再び一緒になる過程、それぞれの要素的感覚による空間の決まった点の選択は、説明されないままにとどまるだろう』(p.76 1行目‐7行目)

なお、この章では、特に後半の段落で論じられていることが詳細に論じられていると思われる)

2012年12月11日火曜日

ベルクソン「物質と記憶」メモの残りの部分の公開に関してのお願い

現在、ベルクソン「物質と記憶」メモにかんしては、鋭意清書に励んでおり、残るは、第四章第五節と第六節のふたつになりました。ところで、第五節の始めの段落では、二通りに解釈できる部分が発見され、その問題解決には、章の終わりまで、つまり、第六節まで一通り解釈を確認する必要があると思われます。それは、ベルクソンの記述の仕方が、節ごとできれいに内容をまとめるのではなく徐々に移行していくというやり方を取っているということも理由の一つに挙げられます。従って、第五節は第六節と同時に公開する方向で現在考えております。

草稿では、第五節と第六節の間に、すでに、別のブログで公開した小論『小林秀雄『本居宣長 補記I』に見る「真歴」について』を挟んでおります。今回もその形式は変えずに行うつもりです。

公開の期日はなんとか年末までに、できればクリスマスにはと考えておりますが、進捗および現在抱えている問題点がどのようになるか不明なところがありますので、遅れが発生する可能性も十分にあるということをどうかご理解いただけますよう、お願い申し上げます。