まったく持って,うんざりである。なぜ、日本人はそうそう、首相を諦めたり、選挙をしたがるのか、ということにおいて、様々な疑問が湧いてくる。
もちろん、いい点もある。例えば、鳩山氏や菅氏が未だ首相だったら、と思うととんでもない気がする。しかし、大震災のあと復興がはかどらない現状で、選挙をして政権交代というのは一体どういうことだろう、と常々疑問に思っているのだが、最近の世論はまったく持ってよくわからない。
経済政策の一貫性のなさ、国の顔が一年ごとに変わる弊害は、よく言われているわけなのにどうしてこんなことになってしまうのか。マスコミの論調がそうなのか。
マスコミの中で新聞は最も信頼されているメディアであろうが、その新聞が、世論調査でこうも政権を変えたがる理由というのは何なのだろうか、不思議である。
新聞は、その読者の構成でいうと、40代以下の人間で、新聞を読んでいる人は、半数だという。つまり、新聞の読者は、そのほとんどが割合年齢の高い人たちだ。この人たちの意見がこうも、くるくる首相を変えたがるのはどうにもよく分からないのである。
おそらくだが、50代の人たちが、70代の人たちから実質的な権力を奪いたいというのがあるのではないか、と思う。
確かに、何も変わろうとしない日本、何も分からないくせに人をいいように使いたがる人たちが多すぎるという気もするが、それが、別に年齢を問わない。私には、70代とそれ以下の人たちとの隔絶した勤労意識の元に、こいつらが天下をとったら最悪だろうな、とすら思う。
その象徴が、鳩山、菅の最低、最悪とも言われた二人の元首相だろう。
確かに、現状維持は問題が多い。しかし、人口構成的に、もう、こんなものと思うしかないのだ、という諦めも必要だと思う。政治体制をかえても、アメリカ流のプラグマティズムが根付くはずもないではないか。日本人はこんなものである、と私はもう諦めた。トットと死にたいばっかりである。
しかし、そう愚痴ばかりも言ってられないだろうから、少し、選挙後の体制を考えてみよう。選挙をして政権交代があるのかどうか、ということをまず考察しないと、選挙だけしてもしょうがないだろう、ということを言いたいし、所詮、選挙なんかしたってしょうがない、という主張も少ししてみたいということもある。
ここでの考察は、最近言われているように、10月に臨時国会、11月に(選挙制度の変革が終わって)次の予算編成前に解散、という一般的に流布されているようなシナリオに沿って見たい。
まず、民主党である。民主党は、自民党から追い出された田中派(小沢氏・鳩山氏・岡田氏などが代表的な人物)と旧社会・民社党(菅氏・枝野氏・仙谷氏)などの寄り合い所帯であった。それは、イデオロギー的に見ては、支持基盤としての労働組合ということはあるものの、様々な思想を持った人たちの寄り合い所帯という意味で(つまり、支持基盤は別としても思想的に保守的と思われる野田現首相や前原氏などもいるために)保守的な国民にとっても、受け皿となりえた、ということであった。
それは、小泉政権の長期体制のあと社会体制的に経済の格差が顕著になり、また、その後、後継者と指名された安倍晋三氏は、参議院選挙の大敗を受け、ねじれ国会による、政権運営の困難さに、一年を満たさず政権を放り出し、続く、福田康夫氏も同様に1年ほどで政権を放り出し、麻生太郎氏のときに執拗な失言問題や閣僚・官僚の失敗(本当に報道の揚げ足取りもひどかったけれど、様々にひどい行動があった)こと、そして、とどめのリーマンショックにより、新自由主義的な経済がまったくの信用をなくしてしまったことにもよったものであった。
結果としてみれば、新自由主義的な極端に粗野な資本主義と小さな政府との主張がイコールとしてみなされ、中国の台頭と共に、中央集権的な政治家中心の大きな政府を標榜した民主党に人気が集まり、自民党と大差のない、属人的な思想構成が保守的な日本人にも違和感が少ないことも手伝って、非常に幅広い人たちの支持を集め、また、何も決まらない、ねじれ国会による解消という実務的必然性もあって民主党政権は誕生した。
さて、余談ではあるが、私が、70代の人たちに比べて、それ以下の人たちに権力をもたせるのをあまり快く思わないのは、福田康夫氏は例外としても、安倍晋三氏、鳩山、菅の両元首相などの体たらくを見ているからである。前原氏のときの民主党もひどかった。閑話休題
話を元に戻すと、現時点で選挙をすることによるメリットは、国会のねじれ現象を解消できるかも分からないような、危うい理由しかない。単に大きい政府を標榜した政治家たちが次々に失敗していき、野田現首相の体制では自民党時代と大差なく、原発や、消費税といった、国民に人気のない施策が、そのまま、感情的な政権交代論につながっている、としか私には見えない。これで選挙とは、日本人が世界で笑われるだけであろう。
さて、それでも選挙、ということになったあとのことを考えるのが、本来の目的であったところに戻ろう。
まず、選挙後の体制であるが、民主党は野田代表ということで代表戦が決着するものとしても、選挙で大敗し、結果として代表をやめざるを得ないだろう。そのあとであるが、民主党にはふた通りの選択肢がある。まず、鳩山氏を再び代表として選び、小沢氏が再合流するという路線。もう一つは、たとえば、岡田氏が代表となり、野田現首相の路線を継承、自民党・公明党と連立を組み政権を担うという選択肢である。
私は、もし、自・公・民の三党で政権が取れるのであれば、この大連立は多いにありうると思う。逆に言えば、自・公だけでも、現民主だけでも、政権が取れるほど選挙に勝利し得ないと思う。この三党大連立が最も選挙後にありうるシナリオだろう。これは、現政権の路線を継承、自民党・公明党の人材による閣僚の強化、ねじれ国会の解消という意味で一番いいシナリオかもしれない。しかし、言い換えれば、現在と大差ないとも言える。
そして、第三極とも言われる、地域政党の躍進も間違いないだろう。しかし、単独では政権は取り得ないと予想する。その場合、彼らが、例えば、自・公、あるいは民主と連立を組むだろうか。それは、すなわち、国民の期待が大きく失望変わる結果にもつながりかねない。それはないだろう、というのが現段階での私の意見である。もちろん、一寸先は闇というのが政界であるからどのように転ぶかは不明であるが、私は、例えば、維新の会が躍進しても、そしてそのチャンスではあるが、政権を取り得ない、すなわち、ただのガス抜きで終わる、というのであるならば、それはかえってまずいことになるのではないか、と危惧するのである。
しかも、おそらく、参院では、自・公・民の方が多数である状態が続く。現段階では、変革は難しいと言わざるを得ない。
自・公・第三極ならば、あるいは、変革可能であるかもしれない。しかし、一体それを国民は許すだろうか。あるいは、それだけの政治手腕が、第三極側にあるのだろうか。
勢いだけでは、続かないのは、民主党への政権交代でわかった教訓である。
国民も、あるはマスコミも、もっと冷静に、この国の形について議論をしてもらいたいと思い、たたき台としてこの文章を書いたのだが、一体私の目的ははたせただろうか。いま選挙をすることがどうか、ということを含めて、もっと様々に考察を深めていただきたいと心より願う次第である。
(2012/08/25 1:50 追記)
29日に参院の自・公で首相の問責決議案が出され、他の野党の賛成もあり成立する見込み。こうなっては、近く解散も致し方ない状況に。
(2012/08/25 17:00 追記)
29日の問責決議案の方は28日に衆院で特別公債の法案が強行採決される反動のようです。大変失礼をいたしました。
2012年8月24日金曜日
2012年7月4日水曜日
キリスト教における愛と原罪の意味
といっても、生半可な知識しかないわけであるが、巷間に広がっている知識よりはわずかにマシであろうと思い書く
ところで、その前に、キリスト教のシンボルはキリスト様が貼り付けになった十字架であるが、その前は、お魚だったということを何かの本で読んだことがある。どうでも良いし、間違っている可能性もあるのでちなみに、というだけの話だ。
さて、キリスト様が貼り付けになったのはなぜだろうか。もちろん宗教的な弾圧のせいであろうが、キリスト教では人間には元々背負って生まれた罪があり(そのもとをたどればアダムとイブのエデン追放と思われる)キリスト様はその人間の罪を背負って一人罰せられた、というのがキリスト教の中心教義では無かろうかと思う。これもあくまで、確かそうだったというレベルだが。
さて、われわれに原罪というものがあるとすれば、そして、それを、何の罪もない一が背負って一人未来永劫に罰せられるとするならば、もしそうだとすれば、地球は爆発して全人類は消失した方が良いのではないだろうか、とは思わないか、というようなことをベルクソンは二元泉で言っていたと思う。
これを、強引に浄土真宗の教えである悪人正機説に当てはめようとするとかなり無理がある。この教えは仏様は、本来的にいい人も悪い人も区別なさらず、もし悪人であっても罪を深く悔いているようであれば、人間であれば完璧ではないはずなのに無自覚であるただ罪を犯してないと言うだけの善人よりは、遙かに見所があると思いお救いくださる、という考え方だからだ。誰でも完璧ではないということと原罪を無理矢理当てはめていると言うことと、本当に悪を犯して尚かつそれを深く悔いている、ということと原罪を一人に背負わせている、という後ろめたさとは明らかに違うだろう。
なにをか言わんや、といつも、ごめんなさい、南無阿弥陀仏で何もかも済ませてしまえると思っている連中にたいして腹を立てているのだ。人間の祖先であるアダムとイブがエデン追放になったその原罪を一人を背負って未来永劫に罰せられているのが神の子キリスト様だ。それが、キリスト様の愛である。そして、キリスト様は神の子であるからしてそれが神の愛の現実化であろう、という理屈な訳だ。
何でも安く低くつまり安易に考える連中がその辺りにうようよいるが、おまえら何を考えているんだ、ばか、と常々思う。おまえらは、本当の意味で何も後悔していない。ただ、仕方ないで済ませて、ごめんなさい、南無阿弥陀仏、で終わりだろう。
そういう馬鹿は何もかも腐らせている。神の愛もキリスト様の愛も仏の深い慈愛もすべて腐らせている。いつもそう思う。本当に反吐が出る
ところで、その前に、キリスト教のシンボルはキリスト様が貼り付けになった十字架であるが、その前は、お魚だったということを何かの本で読んだことがある。どうでも良いし、間違っている可能性もあるのでちなみに、というだけの話だ。
さて、キリスト様が貼り付けになったのはなぜだろうか。もちろん宗教的な弾圧のせいであろうが、キリスト教では人間には元々背負って生まれた罪があり(そのもとをたどればアダムとイブのエデン追放と思われる)キリスト様はその人間の罪を背負って一人罰せられた、というのがキリスト教の中心教義では無かろうかと思う。これもあくまで、確かそうだったというレベルだが。
さて、われわれに原罪というものがあるとすれば、そして、それを、何の罪もない一が背負って一人未来永劫に罰せられるとするならば、もしそうだとすれば、地球は爆発して全人類は消失した方が良いのではないだろうか、とは思わないか、というようなことをベルクソンは二元泉で言っていたと思う。
これを、強引に浄土真宗の教えである悪人正機説に当てはめようとするとかなり無理がある。この教えは仏様は、本来的にいい人も悪い人も区別なさらず、もし悪人であっても罪を深く悔いているようであれば、人間であれば完璧ではないはずなのに無自覚であるただ罪を犯してないと言うだけの善人よりは、遙かに見所があると思いお救いくださる、という考え方だからだ。誰でも完璧ではないということと原罪を無理矢理当てはめていると言うことと、本当に悪を犯して尚かつそれを深く悔いている、ということと原罪を一人に背負わせている、という後ろめたさとは明らかに違うだろう。
なにをか言わんや、といつも、ごめんなさい、南無阿弥陀仏で何もかも済ませてしまえると思っている連中にたいして腹を立てているのだ。人間の祖先であるアダムとイブがエデン追放になったその原罪を一人を背負って未来永劫に罰せられているのが神の子キリスト様だ。それが、キリスト様の愛である。そして、キリスト様は神の子であるからしてそれが神の愛の現実化であろう、という理屈な訳だ。
何でも安く低くつまり安易に考える連中がその辺りにうようよいるが、おまえら何を考えているんだ、ばか、と常々思う。おまえらは、本当の意味で何も後悔していない。ただ、仕方ないで済ませて、ごめんなさい、南無阿弥陀仏、で終わりだろう。
そういう馬鹿は何もかも腐らせている。神の愛もキリスト様の愛も仏の深い慈愛もすべて腐らせている。いつもそう思う。本当に反吐が出る
2012年6月24日日曜日
将棋に関して
私は、将棋が好きだ。将棋が好きなことが、このくそったれの世の中に対する唯一の救いになっている。
しかし、私も阿呆じゃないのであるから、ただ遊んでいるわけではないということを少し示したい。
本当に将棋指しの先生という人は、将棋が好きで将棋が好きで堪らないのであるから、私のように下手の横好きというようなまったく才能の無いような阿呆な人間にも、いろんな事を教えて下さる。
数学にも、いろいろなテクニックというものがありますよね?例えば、簡単な例を挙げるなら、連立方程式を解こうとすると中学生では、代入法と消去法という二つのやり方を教えます。消去法というのは、比較的洗練されたやり方で、このやり方をやれば、線形(一次方程式)であれば項が幾つあっても条件がそろえば(つまり項の数だけ方程式があれば)方程式を機械的に解けるというやり方ですよね。
将棋のプロというのは、長年の修行で、そういう解法(これを手筋という言い方をされている)を組み合わせて、よりシンプルなやり方で、コンピュータのように力任せなやり方ではなく、よりスマートに問題に当たっておられる。もちろん手筋をたくさん知っているということは、ある場面の手筋が一通りではないということでもあるのであるが、探索木を用いたやり方よりは大変効率的に深く手を読めるというメリットがある。
これは、言語における文章の組み立てによく似ているでしょう?ということがまず一つ。
後は大局観というものですね。これは、本当に経験則で、この形だと終盤でどのような展開になると言うことをプロともなるとよく御存知のようである。これも手筋というものに絡んでくるわけですけど。それで、その前に、定跡と呼ばれる序盤から中盤へ掛けてできるだけ有利に進めるためのある種、われわれの科学で言う「仮説」があるわけですね。
このように将棋を一種の「仮説−検証」過程としてみた場合に、大局観と手筋と呼ばれるものは、われわれの創造性に大変深いつながりがあると思われるわけですよね。そして、たまたま起った偶然のエラーがノーベル賞に繋がるような大発見に繋がったということも、この将棋をやっていく上でのおもしろい現象として説明できます。例えば、羽生マジックとか。
そういうわけで、馬鹿じゃないので黙ってやらせてもらえれば、それなりの成果を上げた上で公開できるものを、どうも人間的に信用がないせいか(ただし、それは私のせいだけではないと確信しているが)こう言うことを黙ってやらせてもらえないので非常に迷惑をしている。
しかし、私も阿呆じゃないのであるから、ただ遊んでいるわけではないということを少し示したい。
本当に将棋指しの先生という人は、将棋が好きで将棋が好きで堪らないのであるから、私のように下手の横好きというようなまったく才能の無いような阿呆な人間にも、いろんな事を教えて下さる。
数学にも、いろいろなテクニックというものがありますよね?例えば、簡単な例を挙げるなら、連立方程式を解こうとすると中学生では、代入法と消去法という二つのやり方を教えます。消去法というのは、比較的洗練されたやり方で、このやり方をやれば、線形(一次方程式)であれば項が幾つあっても条件がそろえば(つまり項の数だけ方程式があれば)方程式を機械的に解けるというやり方ですよね。
将棋のプロというのは、長年の修行で、そういう解法(これを手筋という言い方をされている)を組み合わせて、よりシンプルなやり方で、コンピュータのように力任せなやり方ではなく、よりスマートに問題に当たっておられる。もちろん手筋をたくさん知っているということは、ある場面の手筋が一通りではないということでもあるのであるが、探索木を用いたやり方よりは大変効率的に深く手を読めるというメリットがある。
これは、言語における文章の組み立てによく似ているでしょう?ということがまず一つ。
後は大局観というものですね。これは、本当に経験則で、この形だと終盤でどのような展開になると言うことをプロともなるとよく御存知のようである。これも手筋というものに絡んでくるわけですけど。それで、その前に、定跡と呼ばれる序盤から中盤へ掛けてできるだけ有利に進めるためのある種、われわれの科学で言う「仮説」があるわけですね。
このように将棋を一種の「仮説−検証」過程としてみた場合に、大局観と手筋と呼ばれるものは、われわれの創造性に大変深いつながりがあると思われるわけですよね。そして、たまたま起った偶然のエラーがノーベル賞に繋がるような大発見に繋がったということも、この将棋をやっていく上でのおもしろい現象として説明できます。例えば、羽生マジックとか。
そういうわけで、馬鹿じゃないので黙ってやらせてもらえれば、それなりの成果を上げた上で公開できるものを、どうも人間的に信用がないせいか(ただし、それは私のせいだけではないと確信しているが)こう言うことを黙ってやらせてもらえないので非常に迷惑をしている。
2012年6月9日土曜日
最近考えていることの覚え書き(心の共振あるいは本能、無ということ)
たまたまだが、糸谷 哲郎という大変有望な若手の将棋プロで阪大の大阪大学大学院文学研究科に進学された方の書いたものを見ていろいろ考えさせられた。
※糸谷さんのお名前ほか間違っておりました。お詫びして訂正いたします。
なので、最近私の考えていることを少し書いておこうと思う。
・心の共振、あるいは本能について
まず、例えば正夢のようなことがなぜ起るかについて。これについては以前も色々書いているのだが、一つには共振のような現象も考えられるのではないかと最近思っている。要するに、子どもを思う母親が子どもの考えていることが分かるのは心で子どもをシミュレーションしているからだろうが、それで、子どもに起っていることまで感知してしまう、ということはまま起ることであり、体験されたお母様方もたくさんいらっしゃることと思う。それは、仕組みは分からないが何らかの共振があるからであろうと、考えている。もしかしたら本能というものも、こういう仕組みになっているのかな(それだけではないにしろ、それで説明できる部分も多いという意味で)、ということも少し考えているのというのも補足しておく。
・無について
私はベルクソンの創造的進化の後半にある無はないという一種のパラドキシカルな結論について、前々から何か少し違うなと思っているので記してみる。ベルクソンの主張するところを簡単にいえば、あるカテゴライズをする。それに合わないものに関してはなかったものとするというのが無の思想である、という指摘をしている。その通りなのではあるが少し浅薄な印象も受ける部分を指摘しておきたい。たとえば、整数あるいは実数を考える。それらは簡単にいえば正の数と負の数と0に分けられる。そこでは、正でもなく負でもないから0なのである。つまり、正と負の境目を0といっていると言って良いだろう。ここにおいて、例えば虚数があるとか、世界は数字意外にもたくさんの文字やものが存在する、などのほかになにかあるから、それは本質的に無(0)ではないといっても、少し論点がずれているといわざるを得ないだろう。つまり、無を論じているのにカテゴライズのやり方を論じているという点でおかしいと言える。もし、この世界のすべてを何らかの相反するような二つに分けたとしてその境目に無が生じる、というのがから発生しているのが仏教の無の思想だ。さらにいうと、無とすべてにカテゴライズしようというのが無の思想だ、と言って良いだろう。無と他にすべてにカテゴライズしてしまえば、境目である無も無にカテゴライズされてしまうから、たとえば、実数でいえば、0と符号のある数とに分けてしまえば、カテゴリーは二つになるでしょう?分かりますか?この発想というのが、仏教の無の思想である。つまり、正と負の境目である0を一つのカテゴリーとしてみれば、正も負も何かあるという意味では一緒くたになるのだから、それを区別するのはおかしいぞ、わかるかね諸君と仏教の思想はいっているのである。どうも、ベルクソンはその辺が分かっていなかったのではないかと思うので、少し書いてみた次第。もしかして私の方が間違っているのかもしれないが私なりの解釈を書いてみた。
※糸谷さんのお名前ほか間違っておりました。お詫びして訂正いたします。
なので、最近私の考えていることを少し書いておこうと思う。
・心の共振、あるいは本能について
まず、例えば正夢のようなことがなぜ起るかについて。これについては以前も色々書いているのだが、一つには共振のような現象も考えられるのではないかと最近思っている。要するに、子どもを思う母親が子どもの考えていることが分かるのは心で子どもをシミュレーションしているからだろうが、それで、子どもに起っていることまで感知してしまう、ということはまま起ることであり、体験されたお母様方もたくさんいらっしゃることと思う。それは、仕組みは分からないが何らかの共振があるからであろうと、考えている。もしかしたら本能というものも、こういう仕組みになっているのかな(それだけではないにしろ、それで説明できる部分も多いという意味で)、ということも少し考えているのというのも補足しておく。
・無について
私はベルクソンの創造的進化の後半にある無はないという一種のパラドキシカルな結論について、前々から何か少し違うなと思っているので記してみる。ベルクソンの主張するところを簡単にいえば、あるカテゴライズをする。それに合わないものに関してはなかったものとするというのが無の思想である、という指摘をしている。その通りなのではあるが少し浅薄な印象も受ける部分を指摘しておきたい。たとえば、整数あるいは実数を考える。それらは簡単にいえば正の数と負の数と0に分けられる。そこでは、正でもなく負でもないから0なのである。つまり、正と負の境目を0といっていると言って良いだろう。ここにおいて、例えば虚数があるとか、世界は数字意外にもたくさんの文字やものが存在する、などのほかになにかあるから、それは本質的に無(0)ではないといっても、少し論点がずれているといわざるを得ないだろう。つまり、無を論じているのにカテゴライズのやり方を論じているという点でおかしいと言える。もし、この世界のすべてを何らかの相反するような二つに分けたとしてその境目に無が生じる、というのがから発生しているのが仏教の無の思想だ。さらにいうと、無とすべてにカテゴライズしようというのが無の思想だ、と言って良いだろう。無と他にすべてにカテゴライズしてしまえば、境目である無も無にカテゴライズされてしまうから、たとえば、実数でいえば、0と符号のある数とに分けてしまえば、カテゴリーは二つになるでしょう?分かりますか?この発想というのが、仏教の無の思想である。つまり、正と負の境目である0を一つのカテゴリーとしてみれば、正も負も何かあるという意味では一緒くたになるのだから、それを区別するのはおかしいぞ、わかるかね諸君と仏教の思想はいっているのである。どうも、ベルクソンはその辺が分かっていなかったのではないかと思うので、少し書いてみた次第。もしかして私の方が間違っているのかもしれないが私なりの解釈を書いてみた。
2012年5月20日日曜日
日本の一階性思想の要点について
小林秀雄さんの「本居宣長」で描かれている思想は、普通の人が普通に幸せになるのはどうすればいいのかという思想なのです。
まず、日本における高階性の思想の変遷を見てみましょう。日本の国を統治するにはやはり他の国同様の高階性の思想が必要であったことは否めません。これは正義が平等の観念より起り、その平等の観念の裏付けに高階性の思想が必要だったということを意味しているでしょう。
ただ、それは時代時代において変遷するものでした。古代では仏教が重く用いられ、江戸時代には儒教が重く用いられます。
これはそれぞれに仏や天というアニミズムを超越した、こう言ってしまうと語弊はあるとは思うのですか神、というものを想定していると思います。仏をそういうキリスト的な神と同一視しまうのは多少問題があると思いますが、仏が絶対不可知であるという意味において儒教の天という思想に近く、それぞれが自然というものあるいは、我々にとって、知ることのできない運命というものに対しての、いわゆる象徴あるいは観念として表わされているというのは間違いないと思います。
天が非人格神であるのに対し仏は人格神の側面があり、それはそこにおいては、日本神話あるいはキリスト教に近い考え方だとにも言えます。しかし、そういう分類がここでは特に深い意味があるという訳ではありません。
時代時代において国家の統一における思想の根源としてそのような超越神というものが必要になったという側面が強く感じられます。しかし、そこにおいての深い考察はここではしないことにしてます。
ここで言いたいのは、日本古来の思想はおしなべてずっと日の当たらない日陰者だったということです。例えば和歌にしろそうでした。例えば在原業平は、古今随一の歌い手でしょうが、漢籍ができなかったからこそ、上手い歌い手だったという事も言われています。そういうところから日本固有のひらがなやカタカナが生まれてきたというのもまた否定できません。そういういわゆる色好みの家にしか残っていなかったようなものが紀貫之の土佐日記から紫式部の源氏物語と発展していったわけです。
源氏を注釈した宣長は「もののあわれ」ということばに、使用されていた意味以上の概念を付け加え、はち切れんばかりにしたということは小林秀雄さんも指摘しています。しかし、そこから、万葉へ遡りさらには現代でも通用する古事記の注釈をなした、というところが、まず大事なのです。
宣長は官儒とは独自の発達を遂げた、日本の儒学、とくに、荻生徂徠に強い影響を受けていることも小林さんの「本居宣長」には描かれています。また、若いころから仏教をたしなんだことも描かれています。
観相によって人間など所詮肉の下は骸骨だなどという考え方は当時も随分流行ったようです。
例えば、臨済宗禅での初歩の公案に「火を千里先に付けるにはどうしたらいいか」というのがあって、「火になります」というのが正しい答えだったりします。そういうことを繰り返して、悟りを開いているかどうかということを、試していくわけです。しかし、そうやって悟りを開いたからといって、世界が変わるわけでもありません。せいぜい、死んだ後、輪廻転生から外れるくらいのものでしょう。仏と成るかどうかも怪しい。悟ってからが醍醐味という言葉もあるくらいです。
禅の悟りの段階を説いたものに十牛図というものがあります。色々解釈があるようですが、ついには街中に行って人々と暮らす。そこに現世での悟りの終着点があるわけでしょう。皆、坊主になれとはどこにも描かれていない。
そういうことを考える時に、日本神話は面白いもので、スサノオのみことは父のイザナギのみことより、海を司るように命じられながら、母に会いたいとワンワン泣き、姉のアマテラス大御神に会うために天界に行き、不行状によって追放される。追放された後、八岐大蛇を退治する。そういうふうに描かれています。ある種ばかげたぐらいに素直に感情を表に出しています。
勇ましいことは滑稽だ、というのは私の好きな小林さんの言葉ですが、いくら、威張ってみたところで、人々の暮らしは良くなりません。つらいものはつらい、という感覚を忘れようとしても、皆が皆仏様になれるわけではない。仏様になれる可能性はどの人にもある。所謂仏性はもしかするとものにも存在するかもしれない。そういうことは、大事なことですが、すでに説いた素朴な視線を持てば、忘れても良いことです。いわば、緊縮財政を強いたところで結局、ギリシアは政治的に混乱してしまい、再びユーロソブリンリスク問題が持ち上がる。そういう、人の自然な感覚、しかし、どこかで健全性と結びつくような素朴な感覚を大事にしなさい。ということが、「本居宣長」で描かれていることであり、そこが、私は一番大事なのではないかと思います。
2012年5月19日土曜日
日本の思想の特徴
小林秀雄さんの著作である本居宣長を読んでいると、その特徴は素朴さ、やや難しい言い方をすれば一階性にあると言えるだろう。
ここで、一階性を厳密に定義せずに素朴さとほぼ同じ意味で使うのだが、ようするに、日本の神様は何かちょっとでも不思議であれば、それが狐だろう狸であろうが神様になったというところにある。つまり、そのような不思議さの源と成る超越神のようなものを考えなかった。
(16:34付記 ちなみに、日本神話における最高神はもちろん太陽神であるアマテラスのみことであろうが、ほぼ同格に扱われている神様にタカムスビのかみというかみさまがおられて、ムスというのは結びつけて生まれる、生す(産す)という言葉のことであり、現代でも例えば苔生すというような言い方に使われている。そういう意味では、厳密には一階性というより二階性ぐらいまであるかもしれないが、これをメタというには少し遠いように思う)
それは文明の発達と共にあるのかもしれない、ということで民俗学が参考になっているのだろうが、基本的に文字による観念があるか無いかがその分かれ目であるとも言えるだろう。そのような、記憶におけるいわゆるベタさ加減から本居宣長はついに離れることはなく、古代の人の不思議を不思議と思う気持ちにとことん付き合って離れることはなかった、と、本居宣長は描かれている。
複雑になりすぎた金融工学が結局はハイリスクハイリターンかローリスクローリターンかに過ぎないという写像によって分けられてしまう現在に日本的な思想を根本的なところから考えてみるのも何かしら参考になるのではないかと思い、この記事を書いてみた。
要するに、つねに、対象を思いその不思議さに寄り添うようでないといけないというのがなんの商売であっても基本であろう。それを忘れた時にバブルは発生するのかもしれない。こう言う素朴さ、というのはいつの時代も変わらず大事である、というお説教は嗤われるかもしれないが、それをとことんやるとなると非常に難しいと言うこともそこには記されているわけである。そういうところまで読み取れるようであれば、少なくても読書も充実するということは言えるのではないだろうか。
ここで、一階性を厳密に定義せずに素朴さとほぼ同じ意味で使うのだが、ようするに、日本の神様は何かちょっとでも不思議であれば、それが狐だろう狸であろうが神様になったというところにある。つまり、そのような不思議さの源と成る超越神のようなものを考えなかった。
(16:34付記 ちなみに、日本神話における最高神はもちろん太陽神であるアマテラスのみことであろうが、ほぼ同格に扱われている神様にタカムスビのかみというかみさまがおられて、ムスというのは結びつけて生まれる、生す(産す)という言葉のことであり、現代でも例えば苔生すというような言い方に使われている。そういう意味では、厳密には一階性というより二階性ぐらいまであるかもしれないが、これをメタというには少し遠いように思う)
それは文明の発達と共にあるのかもしれない、ということで民俗学が参考になっているのだろうが、基本的に文字による観念があるか無いかがその分かれ目であるとも言えるだろう。そのような、記憶におけるいわゆるベタさ加減から本居宣長はついに離れることはなく、古代の人の不思議を不思議と思う気持ちにとことん付き合って離れることはなかった、と、本居宣長は描かれている。
複雑になりすぎた金融工学が結局はハイリスクハイリターンかローリスクローリターンかに過ぎないという写像によって分けられてしまう現在に日本的な思想を根本的なところから考えてみるのも何かしら参考になるのではないかと思い、この記事を書いてみた。
要するに、つねに、対象を思いその不思議さに寄り添うようでないといけないというのがなんの商売であっても基本であろう。それを忘れた時にバブルは発生するのかもしれない。こう言う素朴さ、というのはいつの時代も変わらず大事である、というお説教は嗤われるかもしれないが、それをとことんやるとなると非常に難しいと言うこともそこには記されているわけである。そういうところまで読み取れるようであれば、少なくても読書も充実するということは言えるのではないだろうか。
2012年5月14日月曜日
ヒュームの人性論における「近接」の定義
中央公論社の世界の名著というシリーズが熊本県立図書館にあり、その27巻にはヒュームの人性論(土岐邦夫訳)が含まれているのですが、それには、例えば、用例として第一章第六節の第一段落最後の方の一文を書き出すと、「少なくとも諸性質は近接の関係と因果の関係によって密接に、分離し難く結合していると想定される」、とあり、また、その前の第五節においては、
「3 同一についで最も普遍的、包括的な関係は<空間>および<時間>の関係である。この関係は、<隔たっている>、<近接している>、<上>、<下>、<さき>、<あと>、など数限りない比較の源である」
と述べられている部分がある。この部分を代表して「近接」と言う言葉が用いられているようであるので、「近接」あるいは「隣接」という言葉は、必ずしも時間的関係のみならず空間的関係をも含んでいるものと思われる。
以上のような内容の文書を、あとでメモの第参照第五節分の「隣接」を説明したところに用いたいと思う
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