私は、将棋が好きだ。将棋が好きなことが、このくそったれの世の中に対する唯一の救いになっている。
しかし、私も阿呆じゃないのであるから、ただ遊んでいるわけではないということを少し示したい。
本当に将棋指しの先生という人は、将棋が好きで将棋が好きで堪らないのであるから、私のように下手の横好きというようなまったく才能の無いような阿呆な人間にも、いろんな事を教えて下さる。
数学にも、いろいろなテクニックというものがありますよね?例えば、簡単な例を挙げるなら、連立方程式を解こうとすると中学生では、代入法と消去法という二つのやり方を教えます。消去法というのは、比較的洗練されたやり方で、このやり方をやれば、線形(一次方程式)であれば項が幾つあっても条件がそろえば(つまり項の数だけ方程式があれば)方程式を機械的に解けるというやり方ですよね。
将棋のプロというのは、長年の修行で、そういう解法(これを手筋という言い方をされている)を組み合わせて、よりシンプルなやり方で、コンピュータのように力任せなやり方ではなく、よりスマートに問題に当たっておられる。もちろん手筋をたくさん知っているということは、ある場面の手筋が一通りではないということでもあるのであるが、探索木を用いたやり方よりは大変効率的に深く手を読めるというメリットがある。
これは、言語における文章の組み立てによく似ているでしょう?ということがまず一つ。
後は大局観というものですね。これは、本当に経験則で、この形だと終盤でどのような展開になると言うことをプロともなるとよく御存知のようである。これも手筋というものに絡んでくるわけですけど。それで、その前に、定跡と呼ばれる序盤から中盤へ掛けてできるだけ有利に進めるためのある種、われわれの科学で言う「仮説」があるわけですね。
このように将棋を一種の「仮説−検証」過程としてみた場合に、大局観と手筋と呼ばれるものは、われわれの創造性に大変深いつながりがあると思われるわけですよね。そして、たまたま起った偶然のエラーがノーベル賞に繋がるような大発見に繋がったということも、この将棋をやっていく上でのおもしろい現象として説明できます。例えば、羽生マジックとか。
そういうわけで、馬鹿じゃないので黙ってやらせてもらえれば、それなりの成果を上げた上で公開できるものを、どうも人間的に信用がないせいか(ただし、それは私のせいだけではないと確信しているが)こう言うことを黙ってやらせてもらえないので非常に迷惑をしている。
2012年6月24日日曜日
2012年6月9日土曜日
最近考えていることの覚え書き(心の共振あるいは本能、無ということ)
たまたまだが、糸谷 哲郎という大変有望な若手の将棋プロで阪大の大阪大学大学院文学研究科に進学された方の書いたものを見ていろいろ考えさせられた。
※糸谷さんのお名前ほか間違っておりました。お詫びして訂正いたします。
なので、最近私の考えていることを少し書いておこうと思う。
・心の共振、あるいは本能について
まず、例えば正夢のようなことがなぜ起るかについて。これについては以前も色々書いているのだが、一つには共振のような現象も考えられるのではないかと最近思っている。要するに、子どもを思う母親が子どもの考えていることが分かるのは心で子どもをシミュレーションしているからだろうが、それで、子どもに起っていることまで感知してしまう、ということはまま起ることであり、体験されたお母様方もたくさんいらっしゃることと思う。それは、仕組みは分からないが何らかの共振があるからであろうと、考えている。もしかしたら本能というものも、こういう仕組みになっているのかな(それだけではないにしろ、それで説明できる部分も多いという意味で)、ということも少し考えているのというのも補足しておく。
・無について
私はベルクソンの創造的進化の後半にある無はないという一種のパラドキシカルな結論について、前々から何か少し違うなと思っているので記してみる。ベルクソンの主張するところを簡単にいえば、あるカテゴライズをする。それに合わないものに関してはなかったものとするというのが無の思想である、という指摘をしている。その通りなのではあるが少し浅薄な印象も受ける部分を指摘しておきたい。たとえば、整数あるいは実数を考える。それらは簡単にいえば正の数と負の数と0に分けられる。そこでは、正でもなく負でもないから0なのである。つまり、正と負の境目を0といっていると言って良いだろう。ここにおいて、例えば虚数があるとか、世界は数字意外にもたくさんの文字やものが存在する、などのほかになにかあるから、それは本質的に無(0)ではないといっても、少し論点がずれているといわざるを得ないだろう。つまり、無を論じているのにカテゴライズのやり方を論じているという点でおかしいと言える。もし、この世界のすべてを何らかの相反するような二つに分けたとしてその境目に無が生じる、というのがから発生しているのが仏教の無の思想だ。さらにいうと、無とすべてにカテゴライズしようというのが無の思想だ、と言って良いだろう。無と他にすべてにカテゴライズしてしまえば、境目である無も無にカテゴライズされてしまうから、たとえば、実数でいえば、0と符号のある数とに分けてしまえば、カテゴリーは二つになるでしょう?分かりますか?この発想というのが、仏教の無の思想である。つまり、正と負の境目である0を一つのカテゴリーとしてみれば、正も負も何かあるという意味では一緒くたになるのだから、それを区別するのはおかしいぞ、わかるかね諸君と仏教の思想はいっているのである。どうも、ベルクソンはその辺が分かっていなかったのではないかと思うので、少し書いてみた次第。もしかして私の方が間違っているのかもしれないが私なりの解釈を書いてみた。
※糸谷さんのお名前ほか間違っておりました。お詫びして訂正いたします。
なので、最近私の考えていることを少し書いておこうと思う。
・心の共振、あるいは本能について
まず、例えば正夢のようなことがなぜ起るかについて。これについては以前も色々書いているのだが、一つには共振のような現象も考えられるのではないかと最近思っている。要するに、子どもを思う母親が子どもの考えていることが分かるのは心で子どもをシミュレーションしているからだろうが、それで、子どもに起っていることまで感知してしまう、ということはまま起ることであり、体験されたお母様方もたくさんいらっしゃることと思う。それは、仕組みは分からないが何らかの共振があるからであろうと、考えている。もしかしたら本能というものも、こういう仕組みになっているのかな(それだけではないにしろ、それで説明できる部分も多いという意味で)、ということも少し考えているのというのも補足しておく。
・無について
私はベルクソンの創造的進化の後半にある無はないという一種のパラドキシカルな結論について、前々から何か少し違うなと思っているので記してみる。ベルクソンの主張するところを簡単にいえば、あるカテゴライズをする。それに合わないものに関してはなかったものとするというのが無の思想である、という指摘をしている。その通りなのではあるが少し浅薄な印象も受ける部分を指摘しておきたい。たとえば、整数あるいは実数を考える。それらは簡単にいえば正の数と負の数と0に分けられる。そこでは、正でもなく負でもないから0なのである。つまり、正と負の境目を0といっていると言って良いだろう。ここにおいて、例えば虚数があるとか、世界は数字意外にもたくさんの文字やものが存在する、などのほかになにかあるから、それは本質的に無(0)ではないといっても、少し論点がずれているといわざるを得ないだろう。つまり、無を論じているのにカテゴライズのやり方を論じているという点でおかしいと言える。もし、この世界のすべてを何らかの相反するような二つに分けたとしてその境目に無が生じる、というのがから発生しているのが仏教の無の思想だ。さらにいうと、無とすべてにカテゴライズしようというのが無の思想だ、と言って良いだろう。無と他にすべてにカテゴライズしてしまえば、境目である無も無にカテゴライズされてしまうから、たとえば、実数でいえば、0と符号のある数とに分けてしまえば、カテゴリーは二つになるでしょう?分かりますか?この発想というのが、仏教の無の思想である。つまり、正と負の境目である0を一つのカテゴリーとしてみれば、正も負も何かあるという意味では一緒くたになるのだから、それを区別するのはおかしいぞ、わかるかね諸君と仏教の思想はいっているのである。どうも、ベルクソンはその辺が分かっていなかったのではないかと思うので、少し書いてみた次第。もしかして私の方が間違っているのかもしれないが私なりの解釈を書いてみた。
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