2013年5月29日水曜日

結果としてマイナーになる

マイナー戦略をとっていると思われているらしい。私のこれまでのことである。ふーん。そういうことも考えないではないけれど、結果としてそうなったという方が、どちらかと言うと当たっている気がする。

例えば、である。私の若い頃は、半導体は産業としてかなりメジャーであった。就職し、そこで頑張ろうと思ったが、専門的な部分では細分化が激しかったことやそろそろ最も日本の半導体が強かった分野でメジャーだったDRAMも淘汰が始まっていて、いろんな方向性を探す時代にあって、最先端な部分をやっていれば、それはマイナーな部分になってきたというのがあった。

学生の時もそうだった。私はごく若い頃から人工知能に興味を持っていた。学部生の頃には第4世代コンピュータ(これは結局失敗に終わるのだが)というプロジェクトが国家的に推進されている時代で、人工知能は研究の先端でもありそれなりにメジャーな分野だった。

半導体にしろ人工知能にしろ、デジタルの時代であり、記号論理学は必須の項目であった。それが、たまたま私の性に合っていた。半導体もCPUはインテルが強くはあったが一極というほどではなくSUNのSPARCや後にIBMに吸収されるモトローラの半導体部門が製造していたMC68000などもそれなりに勢力があった。RISCかCISCかどちらが効率のいいアーキテクチャか競われている時代だった。ただ、日本は先も述べたようにDRAM全盛。それから少量多品種などという迷走を加え、消滅の危機にあるのだが、それはさておき、世界的にメジャーな分野での先端研究をやっていた。先端研究が最盛期の産業技術よりマイナーなのはしかたがないと思う。

そういう意味で、その後取り残された分野が再び注目されるようになったということが、私なりの解釈である。小林秀雄さんのことについては、単純に好きだったというだけのことだ。田舎者でかつ理系ということもあり、日本の中央の思想界のことを知らなかったという事実は間違い無くあるだろう。しかし、読書は良くしていた。村上春樹さんは好きではなかったし、吉本ばななさんもそうであったが、村上龍さんや宮本輝さんの本はよく読んだ。小林秀雄さんが菊池寛の事を良く言っていたことやエドガー・アラン・ポーのことなどを述べていたことに影響を受けたことや、高校時代からハードボイルド小説が好きだったこともあって、特に北方謙三さんの本をよく読むようになり、純文学よりむしろエンターテイメント小説のほうが優るのではとも思うようになりそのうち花村萬月さんが芥川賞をとった。

要するにそういうことだ。大学の卒業時期はバブル全盛期の末期だった。そこでなら就職は困らなかっただろうが、人工知能の研究をしたかったので進学した。それがメジャーでないといわれるとなんだかしっくりこない。ただ、自分の思うこと、やりたいことをやっていたということが、結局はメジャーではなかったけれど、新しい可能性を発見するきっかけになってきたということだと自分では思う。

2013年5月11日土曜日

ノマド

好きだった場所

丁寧な扱い

それが

どんどん変わって行く


そして

移りゆく私の仕事場

まさしくノマド


なにもかも

悪い方にしかかわらない

彼らが

熱力学第二の法則を持ち出すのも

理解できるというものだ

天皇主権ということについての面倒な問題

しばらく哲学を集中的に学んで、少しだけいろいろとわかってきたのだけども、ヘーゲルだったと思うが、西洋と東洋社会の優劣を、西洋では個人に自由(人権)を認めているのに対して、東洋では自然に即してあるいは溶け込んでその中で自由があるのは一人だけだ、という指摘をしている。

この辺りが、非常に面倒。そもそもヘーゲルの哲学自体が全体主義的な傾向を持つことに加え、最近の文献の精査によってその著作と言われるもののほとんどが、ヘーゲル自身が書いたものではないか、書いたものでものちに相当に手を加えられている、という指摘もある。

小林秀雄さんは、自由の問題で、例えば、江戸時代のような身分制度のある時代においても、精神の自由というものは存在したのであって、何を自由というか、というそもそものところから問題視されている。

ベルクソンの本を読んでいると、社会の進歩とは、多くの人が前の時代の制度に戻りたくないという点に注目しているようだ。

現代の日本人の大多数は明治憲法時代の政治制度に戻りたいとは思わないだろう。しかし、伝統と社会の優劣論(個人的にはどちらかというと、くだらない議論だと思うのだが)などの問題があって、天皇主権国家についてはどうしても現代においても考えざるを得ない一つの課題となっている。

もう一つ、日本は明治維新以後も、ほとんどの戦争に勝って来た。日清、日露戦争も始まる前、誰もが負けるだろうと思うような無謀とも言える戦争だった。それに勝ってきたのであるから、昭和の戦争も勝たなければならなかった。負けたのは言い訳であるとすらいえるだろうし、ただいちどの負けが取り返しのつかない大敗だったとも言える。

いろんな面倒な問題がここには存在していて、ファシズムが民主主義よりいいと思われてた時代もあったと思われるし、共産主義もそうだろう。社会主義は現代でもその信奉者(インテリ)は絶えない。

単純に天皇主権国家が悪いというのではなく、哲学的優越論を交えた歴史的背景なども考慮して、日本人が考え続けていかなければならない課題である。



2013年5月10日金曜日

やっぱりすごいね、マスコミの人たちというのは

抗議活動も虚しく、全く反省の色など無く、いじめ、嫌がらせを続けては、愛と正義の使者を気取っていらしゃいますので、仕方ありません。

どうしたものでしょうか。とにかく、またいくつかの記事の閲覧停止を検討しております。おそらく一週間以内になると思われますので、現在公開中の記事を個人的に利用される方早めに何らかの合法的な処置をとられることをお勧めいたします。

2013年5月3日金曜日

気分悪い

あまりにイライラするのです。

だいたい、不満なことは、別のブログに書くようにしているのですが、どうにも収まらないのが若い連中。いじめをしてやらないんだぞといういじめを始めています。呆れ果てる。どう考えても、彼らはいじめをやっているし、いじめることを権利と勘違いしている。他人を利用することが権利だと言わんばかりです。弱者だから当然と言う権利を持っていると思っているのでしょうか。若くて健康であっても弱者というのはどういう勘違いの仕方をしているのか。いじめることだけが得意だから、権利を主張する特権があるとでも言わんばかりです。

そういう人間が世の中を混乱させ悪くしているとは思わず、正義の味方ヅラし、権利ばかりを主張する。義務も努力もせず、うまい汁を吸うことばかり。あるいは、人の嫌がることをすることが権利だと言わんばかりです。不思議な人間たちですよね。連中は。ガソリンスタンドの人間とかもそう。相変わらずです。カメラの画像チェックするかな。やれやれです。手間ばかり増えて、ストレスばかり増える。何を考えているのか、世間様は。

2013年4月14日日曜日

将棋が強いとはどういうことか

昨日(4月13日(土))、将棋の公式戦としては初めてとなる現役プロ棋士とコンピュータ将棋の対戦、第二回電王戦の第4局塚田九段対Puella α(プエラ アルファ)があり引き分けとなりました。

Puella α(プエラ アルファ)の作者である、伊藤英紀氏はコンピュータ将棋はすでに、名人を凌駕したとおっしゃったそうです。その根拠を、氏のブログ(A級リーグ指し手一号)の4月3日分のタイトル「現状認識@2013年4月」という記事において、レーティングの点数からの類推として述べておられます。つまり、現在までのレーティングの点数で人間のプロ棋士におけるレーティングは名人で約1,900点、それを将棋24など、コンピュータ将棋も参加できるレーティングでは何点。計算量を増やせるようにすることにおいて数百点は上乗せできるのでその換算で行くと、レーティングから見た場合、コンピュータ将棋は名人を上回る、というのが理由となっています。

さて、レーティングというのは、大雑把に言えば平均的な強さの目安となっています。強い人に勝てば点数は多く増え、弱い人に負ければ多く点数が減る。同じぐらいの人には勝ったり負けたりだから、だいたい同じぐらい強い人同士は同じ点数になるだろう、ということです。

さて、伊東氏の思考は平均的に強い、ということがレーティングで表せる、ということで、名人よりもコンピュータが強いと主張されているわけですが、その平均的に強い、というのはどういうことでしょう。わたしは、その時点で氏の思考が終わっていることに少々違和感を覚えるので、穿った見方をしてみたいと思います。

平均的に強い、というのは、氏の考えでは、間違わないということと同義でしょう。将棋は読みのゲームであり、序盤中盤は、できるだけ終盤において相手の王様を詰める可能性が多い道筋をたくさん残すような可能性のある手を指し、最後には読みにおいて相手を上回り止めを刺す。これが将棋の本質であることは間違いありませんから、氏の考え方には十分な説得力があるようにも見えます。

しかし、それは、これまでの膨大な将棋のデーターベースがあってそれによる数学的帰納的な演繹(計算)方法が確立されている、という前提があるから故です。実際将棋というのは、すでにそれくらい成熟していると言っても過言ではないでしょう。しかし、電脳戦の第一局で阿部 光瑠(あべ こうる) 四段が、習甦(しゅうそ)の弱点をついて勝利を収めたというのは、効率的な帰納推論の弱点をついたものといえるでしょう。

わかりやすく言うと、例えば、名前のつくような戦法が新たに発見された時にコンピュータソフトは自身だけでその戦法に有効な対応策を考えられるかという問題があります。たしかに、現在のコンピュータ将棋は力将棋に持ち込まれても十分に勝てる実力を持っていますが、新戦法、あるいは、実践例が少ないような、今回の塚田九段の採られたような入玉ということにおいての対応は十分取れていないでしょう。

つまり、コンピュータは、新しい戦法を作り出せないし、新戦法が編み出された時に自身のみでは十分に対応が取れない(もちろん作者のサポートがあれば可能かもしれませんが)という点で、必ずしも名人よりも強いとは言い切れない本質的な問題点を抱えているということです。

言い換えれば、コンピュータ将棋というのは、二つの意味があり、狭義で言えばコンピュータのみで将棋を指すということでしょうが、広義のそれとしては、試合で将棋を指すのはコンピュータではあるが、実際にその戦法やアルゴリズムの改良においては人間の手助けがまだ必要である、という部分を含んでおり、伊藤氏は、広義と狭義を明らかに混同して用いられており、その上でコンピュータ将棋は名人よりも強いと言われているように思われます。


2013年4月2日火曜日

バカにされつつも

結局は、上手くないのかもしれませんが、悩んだ挙句

「小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について」

を公開停止と致しました。

以上、よろしくお願いします。