2014年7月27日日曜日

小林秀雄の『徒然草』にある謎掛けについて

どうしてもこの人には及ばないな、思う人が居て、私は小林秀雄という人がその人に当たる。

日本文学が濃厚たる禅の思想に基づいており、かつその思想自体の存在すら消そうとしてきたことはすでに周知だと思うのだが、私はこの時代においてあえて、その痕跡を白日の下にさらすことを敢えてやってきた。

因みに小林さんのお墓は、北鎌倉の東慶寺にある。東慶寺は元々は格式の高い縁切寺としても有名なところであったが、明治期の混乱で臨済宗円覚寺の末寺となった。大変良い場所らしく、鈴木大拙をはじめ有名人のお墓も多いようだ。だから、お墓の場所と禅宗との関連は良くは分からない。関連がないと言えないという程度なのかもしれない。

死ぬまでにお墓参りを済ませたいと思っている。だいたいが油断したために、スッカラカンになりこの有様であるから、情けない限りだ。先ずは、小林さんのお墓参りを済ませておくべきだった。療養を優先したことが間違いだった、というのが、ここ数年来の苦い後悔である。ベルクソンさんのお墓は遠すぎて一生行けないだろうから、せめて、今年は無理でも来年、仕事の閑散期には行けるようにしないといけないと思っている。

どうでも良い話しばかりしてしまったが、小林さんには、禅の公案のような問いかけがいくつかある。たとえば、ソクラテスのデモンは、どうしてソクラテスの行動に禁止しか指示しなかったのか、という指摘などである。

もう一つ有名なものが、その評論「徒然草」にある。兼好法師の筆法をモンティニュになぞらえ、また、

『 あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見そうは見えないのは、彼が名工だからである。「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」、彼は利き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分の事を言っているのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが「徒然草」の文体の精髄である。』

(※ 引用文中の「」と区別が付きやすいように引用文には『』を用いている。以下同様)

と評価する。そして、最後にこのように終わる。

『鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例を引いて置こう。これは全文である。「因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容美しと聞きて、人数多言ひわたりけれども、この娘、唯栗をのみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、斯る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」(第四十段) これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか。』

上記の引用文中にある、兼好法師の徒然草本文(第四十段)の意味は、

「因幡の国(現在の鳥取県に含まれる)に、何とかの入道という人の娘が大変美しいということを聞いて、求婚者が数多やってきたけれども、この娘、栗だけを食べて、米の類を食べない。このような異様な人間は、他人様に嫁がせるわけには行かないと言って、親は結婚を許さなかった」

と言うことになるだろう。

因みに、徒然草には、このような少し不思議なお話が他にもあって、たとえば、大根を万病の薬であると信じて毎朝二本焼いて食べていた人の家が警備の者の留守に敵に襲われたときに、屋敷のなから見知らぬ兵士が二人出てきて家の危機を救った。礼を言ってどなたか訪ねたら、日頃あなたが信じて食べている大根ですとだけ答えて去った、というお話(第六十八段)も載っている。

さて、栗娘の話に戻るが、これは一つの禅で言う公案であろうと思ったとき、それぞれに解き方が出てくるだろう。兼好法師も小林秀雄さんも黙って死んだのだから、黙って死ぬべきか。

そうも思ったが、凡愚きわまりない私が多少のことをしゃべったところで、中るとも限らず、中っていれば、後世多少の名誉でも残るかという欲もあって、くだらないおしゃべりをしてみようと思う。

小林さんは、この分が鈍刀を持って彫られたと言っている。と言うことは、我々がまず目が引かれる、娘が栗しか食べなかった、というところは、レトリックの部分であり、主要でないとみる。大事なのは、そのあとで、「斯る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」というところであろう。こんな異様の者が結婚して幸せになれるわけがない、という親心が大事だと言っているのだろう、ということが分からなくてはならないと小林さんは言っているのだ、と私は考える。そうするとこの小林秀雄さんの評論「徒然草」の内容は一続きに通じる。私はそう思うのである。








2014年7月14日月曜日

ノーム・チョムスキー「複雑化する世界、単純化する欲望」を読んで

チョムスキー()は高名な言語学者であり、また、近年はその世界的なリベラル知識人としての名声もようやく日本でも知られるようになってきた。

私も今回初めて、言語学関係でないチョムスキーの本を読んだのであるが、インタビュー形式であるということ、豊富な注釈とによって、多岐にわたる複雑な社会問題において論じたものとしては、かなり読みやすいものであった。地球環境と経済的活動が相反することやアメリカ政府の支出が経済活動に大きな役割を果たしているという点、すなわち、経済的な欲望がもたらす側面とそれに対する合衆国政府の影響力の大きさを指摘し、第二次世界大戦以降、長らく国際的に支配的な地位を占めてきたアメリカの行動、たとえば、環境問題ほか、国際情勢、特にイラン核燃料問題とアメリカの大学の果たした役割や戦争、核の脅威、宗教問題、中国の台頭に対する軍事的措置などの様々な社会問題に、長く勤めるMIT教授としての大学人としての視点から、アメリカ社会の抱える矛盾を示しながら鋭く切り込んでいく。

過去、日本でスキャンダラスなほど過激に伝えられたリベラルとしての主張の印象は、その主張がすでに消化されたものであるからか、さほど強い印象はもたらさず、この本のもう一つの特徴である、後半ほとんど占める補遺による資料提供は、その内容をより正確に伝えようとしており、そこにも強い印象を持った。

(※ のリンク先はWikipedia、「ノーム・チョムスキー」の項を参照しています)