小林秀雄さんの本居宣長では、ベルクソンが主張する記憶の全保存について本居宣長がそれらしいことをすでに19世紀に考えていたことが指摘されている。その部分について、やむを得ず触れたものをやはりmixiの日記に書いているのでそれを公開したい。小林秀雄さんが、日本においての心脳問題の先駆者だったというのが私の主張だが、これを読んで頂ければ、そのことをご理解して頂けるのではないかと思う
「本居宣長」の出だしについて 2011年03月08日22:08
小林さんの「本居宣長」は宣長のお墓の話から入る。その前に若干、若い頃に、民俗学の大家、折口信夫を訪ねたときのエピソードが載っているのだが、まあ、お墓の話から入ると言って良いだろう。お墓を尋ねていったときのエピソードに始まり、宣長の遺言に及ぶ出だしであるからだ。
そこが一番の謎だった。なぜなら、「本居宣長」の最後には、これで最初に戻る、ということが書かれているのである。
今日、ぼんやりしているとここが最も重要かもしれないとも思われた。
この『最初に戻る』、というのは私が理解している限り二つの意味があるようだ。原点に戻る、ということと、もう一つはやはり、過去に過去を語ることに関する自己言及パラドックスのことであろう。
原点に戻る。というのは難しい。追々説明していくことになろう。もちろん、太陽の周期から時という概念を持つようになった、ということもできる。しかし、生命の始まりと終わりの繰り返し、それが長いときを通じて、それぞれの生命の一度きりしかない瞬間が死で終わると捉えた方が良いように思う。
原稿を依頼されてからしばらく経ったある日、天気が良かったので、宣長の居た松坂へ行こうとした。旧跡を尋ねていくと、旧邸宅は鈴屋遺跡として大切に保存されていたが、お墓は地元の松坂駅に止まっていたタクシーに聞いても分からないという。
そのような形で、徐々に宣長の遺言の話に入っていく。遺言書から入るのは、宣長の人柄を知るのに良い資料であると同時にその思想の結実と言って良い最後の著作であると小林さんは位置づけている。思想の結実、から入っているので、『本居宣長』の最後が最初に戻るというのが一番分かりやすい解釈かもしれないとは思う。主題とも言える結論をまず示しておき、変奏曲のように変奏をしていく。実際、『本居宣長』では、そのような記述をされているところもあるからだ。
宣長は遺言に、お墓ついて、葬られ方について、後々の祀られ方について詳しく指定している。
お墓は二つあるらしいが、これは当時の人に普通のことであった。ただ、そのお墓の一つは図示をしてまでいろいろ指図している。墓はとにかく質素で良い。しかし、大好きだった桜も植えて欲しいなどなど。
そして、細かく自分の送られ方を二通り書いている。まず、遺体は夜中、密かに寺へ送れ。そして世間並に葬式をせよ。葬式の際には空の棺桶を墓に送れ、仔細などない。しかし、これはさすがに、当時でも異様だったらしく、役所にとがめられているが、宣長には、彼が到達した思想より、そうするよりほかどうしようもなかった、と小林さんは書いている。
ここが大事なポイントだと思われる。つまり、小林さんは、宣長があたかも記憶には2種類あり、ベルクソンが言う、「運動図式」もしくは「感覚-運動系」などとも呼ぶ「純粋記憶」が表だった葬式の時に運ばれる空の棺、そして、先行してひっそりと夜中に密やかに寺へ送られる実際の遺体が「イマージュ記憶」と言うように考えていたのではないか、と密かに指摘しているように思えてならない。
そして、祀られ方について述べているが、これはもちろん、個人の死とその生前を忍ぶ、という意味で記憶が演繹されているならば、自己言及パラドックスに陥る。ということを表現しているのだろう。このことについては前稿で述べたので詳しくは説明しない。
補足して説明しておくと、宣長が寺へ葬られたのは、当時、日本で戸籍を管理していたのが仏教の寺であったためだ。当時、日本は鎖国中でキリスト教を排除するための制度でもある。
さて、「原点に戻る」という意味をもう少し補足しよう。宣長は実は遺言を書く前に、死後のことを研究するのは弟子に禁じていた。それが、急に遺言を書くために、墓所を探したりに出かけたりなどするものだから、弟子も大変に不審がっていたようだ。
すでに前稿で書いたように、宣長は自分の思想が自己言及パラドックス陥るのを防ぐために、全て考えたことをありのままに後世に残そうとした。そこでは、死ねば皆、黄泉の国に行くのであり、仏教の言う輪廻転生などない、と教えているのである。
さくらは繰り返し咲き、そしていつか枯れるだろう。枯れたら新しいのを植えよ、というのが宣長の遺言にある。
繰り返す季節の中で、生命は一続きの時間を繋いでいく。これが、『最初に戻る』という意味ではないか。見る人によっては、少々、無理矢理かもしれないが、私にはこう思えてならない。
2011年8月13日土曜日
P=NP?問題の証明のもっとも肝心な部分についての考察
私の知っている範囲で言うとP=NP?問題では全て肯定的なリラテル(論理式の最小単位)の場合P=NPであることが証明されています。
残る問題は否定のリラテルがあった場合、計算量を減少させられる事が知られていますが、それがどれくらいの影響があるかと言うことでしょう。
そこで考えたことを、以前mixiの日記にメモ書き程度に残したことをここに公表したいと思います。ちなみにRotaTRはわたしのIDです。
否定のリテラルによって減少する計算量は0 2010年09月28日14:29
SATに於いて計算量を減らせるのは、
あるブール変数以外がまったく同じ場合
節集合Cの各節はブール変数の論理和で表されるが
そこに表されていないブール変数の値はFとしてよい。
従って各節はブール変数の二つのリテラルとFの3つの値を取り得る。
ブール変数の集合Uがm個のブール変数を持ち、mが十分大きいとする。
また、節集合の元の個数rとする
このときある節が節集合Cに現れる確率はr/3^m
それと対になり消滅する節が同じ節集合に現れる確率もほぼ同じ
一方それによって少なくなるTMの計算量はO(r/2)
従って、mが十分大きいとき否定のリテラルによって減少する計算量は0
コメント
コメント
RotaTR2010年09月28日 14:41
> SATに於いて計算量を減らせるのは、
> あるブール変数以外がまったく同じ場合
> 説集合Cの各節はブール変数の論理和で表されるが
> そこに表されていないブール変数の値はFとしてよい。
> 従って各節はブール変数の二つのリラテルとFの3つの値を取り得る。
> ブール変数の集合Uがm個のブール変数を持ち、mが十分大きいとする。
> また、節集合の元の個数rとする
> このときある節が節集合Cに現れる確率はr/3^m
> それと対になり消滅する節が同じ節集合に現れる確率もほぼ同じ
> 一方それによって少なくなるTMの計算量はO(r/2)
> 従って、mが十分大きいとき否定のリラテルによって減少する計算量は0
少なくなる計算量は平均でm/2の定数倍が正しいです。
お詫びして訂正いたします
RotaTR2010年09月28日 19:45
リラテル=>リテラル
説集合=>節集合
と修正
RotaTR2010年09月29日 03:45
しまった。いろいろ間違ってる。
{{a,b},{a,NOT(b)}={a}
だw
まぁ、こんな感じで減らせるんでしょう。
節の出現確率のところだけは使えるな(笑い)
RotaTR2010年09月29日 03:50
情けないなぁ、まったく
補足しておくと、{{a,b,c},{a,b,NOT(c)}}={{a,b}}
まぁ、減らせる計算量は同じだけど、更に減らせる可能性があるよね
RotaTR2010年09月29日 03:52
{{a,b,c},{a,b,NOT(c)},{a,NOT(b})}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a}}
とかね。
RotaTR2010年09月29日 03:55
あ、しかし、そういう節の出現確率も上記の出現確率だから、良いのか。
あははw
ま、まぁ、出先でのメモということで許して下さい。
いろいろと検討が足りなくてすいません。
RotaTR2010年09月29日 04:10
しかし、ごくまれだと思うけど、
{{a,b,c},{a,b,NOT(c)},{a,NOT(b})}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a}}
の例のように計算するブール変数の量が減らせるときは、計算量は著しく減る場合もあるね。そこの変まできっちりと計算する必要があるのかな。ないと思ってたけど、検討すべきですか?うーん、ちゃんとすべきかもね。そこ変が残る課題か。
RotaTR2010年09月29日 04:19
あ、いいか。そういえば、昼に頭の中で検討したときには、パターンは出現確率がr/3^mに対し、そのようなパターンで削減される計算量はO(2^m)なので、削減量は確率を考えると、最大でO(2^m/3^m)なはずで、mが大きくなると、0に近づくと考えたのだけど、大丈夫だよね?
RotaTR2010年09月29日 04:20
なんか、本当にいろいろダメだなぁ(苦笑)
残る問題は否定のリラテルがあった場合、計算量を減少させられる事が知られていますが、それがどれくらいの影響があるかと言うことでしょう。
そこで考えたことを、以前mixiの日記にメモ書き程度に残したことをここに公表したいと思います。ちなみにRotaTRはわたしのIDです。
否定のリテラルによって減少する計算量は0 2010年09月28日14:29
SATに於いて計算量を減らせるのは、
あるブール変数以外がまったく同じ場合
節集合Cの各節はブール変数の論理和で表されるが
そこに表されていないブール変数の値はFとしてよい。
従って各節はブール変数の二つのリテラルとFの3つの値を取り得る。
ブール変数の集合Uがm個のブール変数を持ち、mが十分大きいとする。
また、節集合の元の個数rとする
このときある節が節集合Cに現れる確率はr/3^m
それと対になり消滅する節が同じ節集合に現れる確率もほぼ同じ
一方それによって少なくなるTMの計算量はO(r/2)
従って、mが十分大きいとき否定のリテラルによって減少する計算量は0
コメント
コメント
RotaTR2010年09月28日 14:41
> SATに於いて計算量を減らせるのは、
> あるブール変数以外がまったく同じ場合
> 説集合Cの各節はブール変数の論理和で表されるが
> そこに表されていないブール変数の値はFとしてよい。
> 従って各節はブール変数の二つのリラテルとFの3つの値を取り得る。
> ブール変数の集合Uがm個のブール変数を持ち、mが十分大きいとする。
> また、節集合の元の個数rとする
> このときある節が節集合Cに現れる確率はr/3^m
> それと対になり消滅する節が同じ節集合に現れる確率もほぼ同じ
> 一方それによって少なくなるTMの計算量はO(r/2)
> 従って、mが十分大きいとき否定のリラテルによって減少する計算量は0
少なくなる計算量は平均でm/2の定数倍が正しいです。
お詫びして訂正いたします
RotaTR2010年09月28日 19:45
リラテル=>リテラル
説集合=>節集合
と修正
RotaTR2010年09月29日 03:45
しまった。いろいろ間違ってる。
{{a,b},{a,NOT(b)}={a}
だw
まぁ、こんな感じで減らせるんでしょう。
節の出現確率のところだけは使えるな(笑い)
RotaTR2010年09月29日 03:50
情けないなぁ、まったく
補足しておくと、{{a,b,c},{a,b,NOT(c)}}={{a,b}}
まぁ、減らせる計算量は同じだけど、更に減らせる可能性があるよね
RotaTR2010年09月29日 03:52
{{a,b,c},{a,b,NOT(c)},{a,NOT(b})}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a}}
とかね。
RotaTR2010年09月29日 03:55
あ、しかし、そういう節の出現確率も上記の出現確率だから、良いのか。
あははw
ま、まぁ、出先でのメモということで許して下さい。
いろいろと検討が足りなくてすいません。
RotaTR2010年09月29日 04:10
しかし、ごくまれだと思うけど、
{{a,b,c},{a,b,NOT(c)},{a,NOT(b})}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a,b},{a,NOT(b)}}
={{a}}
の例のように計算するブール変数の量が減らせるときは、計算量は著しく減る場合もあるね。そこの変まできっちりと計算する必要があるのかな。ないと思ってたけど、検討すべきですか?うーん、ちゃんとすべきかもね。そこ変が残る課題か。
RotaTR2010年09月29日 04:19
あ、いいか。そういえば、昼に頭の中で検討したときには、パターンは出現確率がr/3^mに対し、そのようなパターンで削減される計算量はO(2^m)なので、削減量は確率を考えると、最大でO(2^m/3^m)なはずで、mが大きくなると、0に近づくと考えたのだけど、大丈夫だよね?
RotaTR2010年09月29日 04:20
なんか、本当にいろいろダメだなぁ(苦笑)
少し昔話をしよう
パーセプトロンやP=NP?のブログをやらないことでいろいろいわれるようになった。
ところで、ちょっと前のmixiの日記を見たらこういうことを書いていた。なんでもそうだけど、某とかが私のやることにくちばしを突っ込んでは、要らんことばかり言われていた一つの証拠をお見せしたい。
ちなみに、P=NP問題に関して私なりの解答は考えたのでそれは後ほど公表したい
(以下その日記)
P=NP?問題を考えてみたい理由 2009年05月27日19:11
私は、残念ながらお金にはならなかったが、
動画の超解像技術の元になったアルゴリズムや、
その他、クラスNPと思われる問題の解決に於いて
いくつかのヒューリスティックアルゴリズムを考え出した
実績がある。
また、非線形な問題を考えるときには、ある種の変換を持って
線形な問題として解くともあれば、シミュレーションによって
最適解を得ようとする場合もある。
私の場合、人工知能の研究などでしばしば、
ヒューリスティックアルゴリズムを持って解決するということが多い。
一体、ヒューリスティックアルゴリズムという問題解決方法
一種の知識は、ただの試行錯誤の結果なのか?
そもそも、問題を解決するとはなんなのか?
その根本はどこから来るのか?という意味でP=NP?問題は
大変に興味深い。
非線形がある種の経験論、言い換えれば、経験の知識の組み合わせで
あるかもしれないのに対して、
つまりは、非線形性を線形に置き換えて解くか、
経験というデーターベースによるシミュレーションによって
最適解を探すか、ということに置き換えられる可能性が高いのに対し
NP問題に何らかの解決をもたらそうとする
ヒューリスティックアルゴリズムは経験上全く別種のものである
ということが言える。
それは、ヒューリスティックアルゴリズムは、アルゴリズムというように
何らかのアルゴリズムがあるからである。
精神の一部がヒューリスティックアルゴリズムの集合であるということは
否めない。それは、我々の感性が教育によって共有されることからも判る。
そういうわけで、P=NP?問題は私には非常に興味深い問題なのである。
だから、あまりうるさく言わないように。
ところで、ちょっと前のmixiの日記を見たらこういうことを書いていた。なんでもそうだけど、某とかが私のやることにくちばしを突っ込んでは、要らんことばかり言われていた一つの証拠をお見せしたい。
ちなみに、P=NP問題に関して私なりの解答は考えたのでそれは後ほど公表したい
(以下その日記)
P=NP?問題を考えてみたい理由 2009年05月27日19:11
私は、残念ながらお金にはならなかったが、
動画の超解像技術の元になったアルゴリズムや、
その他、クラスNPと思われる問題の解決に於いて
いくつかのヒューリスティックアルゴリズムを考え出した
実績がある。
また、非線形な問題を考えるときには、ある種の変換を持って
線形な問題として解くともあれば、シミュレーションによって
最適解を得ようとする場合もある。
私の場合、人工知能の研究などでしばしば、
ヒューリスティックアルゴリズムを持って解決するということが多い。
一体、ヒューリスティックアルゴリズムという問題解決方法
一種の知識は、ただの試行錯誤の結果なのか?
そもそも、問題を解決するとはなんなのか?
その根本はどこから来るのか?という意味でP=NP?問題は
大変に興味深い。
非線形がある種の経験論、言い換えれば、経験の知識の組み合わせで
あるかもしれないのに対して、
つまりは、非線形性を線形に置き換えて解くか、
経験というデーターベースによるシミュレーションによって
最適解を探すか、ということに置き換えられる可能性が高いのに対し
NP問題に何らかの解決をもたらそうとする
ヒューリスティックアルゴリズムは経験上全く別種のものである
ということが言える。
それは、ヒューリスティックアルゴリズムは、アルゴリズムというように
何らかのアルゴリズムがあるからである。
精神の一部がヒューリスティックアルゴリズムの集合であるということは
否めない。それは、我々の感性が教育によって共有されることからも判る。
そういうわけで、P=NP?問題は私には非常に興味深い問題なのである。
だから、あまりうるさく言わないように。
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