小林秀雄 「モーツアルト」より
こんな事を書く人の文章にでてくる言葉を、売れるためになら何しても良いんだ、などという、あまりにも「凡人」的に解釈するなど一笑に付されて然るべきだろう。本居宣長の「ものの哀れ」というものをどれだけ貶めて考えれば良いのか。本居宣長が溢れるほど詰め込んではち切れそうになった「ものの哀れ」という言葉は、小林さんはまた、上記のように解釈して述べているに違いない、と私は思う。「隅々まで意識され、なんの秘密もなくなってしまった世界」において「ものの哀れ」という言葉に何を詰め込んだというのか、という事を反省するならいくら反省しても反省したりない、というところを感得すべきだ。そこが分からないとは何とも情けないと思う。
彼らの芸術に関してもそうだ。「抵抗物のないところに創造はない。これが、芸術に於ける形式の必然性の意味である」という言葉に対して、どれだけ反省があるというのだろう。私にはさっぱり理解できない。神と遊ぶとは一体どういうことなのだろう。ぴいとヒヨドリが鳴いて正気に戻った柳田国男の感性がなければできない相談であると言う事も分からないというのも悲しい話だ。
あまりにもばかばかしい話が世の中に出回っていて、疲れて来た。それは、年を取るというのを齢を重ねるという表現をするようなものではあるまい。一方で馬齢を食うという表現もあるわけである。なんの抵抗も緊張のないところに創造はない。それらのないそこにあるものは、単なるティッシュペーパーにしか過ぎない。