といっても、生半可な知識しかないわけであるが、巷間に広がっている知識よりはわずかにマシであろうと思い書く
ところで、その前に、キリスト教のシンボルはキリスト様が貼り付けになった十字架であるが、その前は、お魚だったということを何かの本で読んだことがある。どうでも良いし、間違っている可能性もあるのでちなみに、というだけの話だ。
さて、キリスト様が貼り付けになったのはなぜだろうか。もちろん宗教的な弾圧のせいであろうが、キリスト教では人間には元々背負って生まれた罪があり(そのもとをたどればアダムとイブのエデン追放と思われる)キリスト様はその人間の罪を背負って一人罰せられた、というのがキリスト教の中心教義では無かろうかと思う。これもあくまで、確かそうだったというレベルだが。
さて、われわれに原罪というものがあるとすれば、そして、それを、何の罪もない一が背負って一人未来永劫に罰せられるとするならば、もしそうだとすれば、地球は爆発して全人類は消失した方が良いのではないだろうか、とは思わないか、というようなことをベルクソンは二元泉で言っていたと思う。
これを、強引に浄土真宗の教えである悪人正機説に当てはめようとするとかなり無理がある。この教えは仏様は、本来的にいい人も悪い人も区別なさらず、もし悪人であっても罪を深く悔いているようであれば、人間であれば完璧ではないはずなのに無自覚であるただ罪を犯してないと言うだけの善人よりは、遙かに見所があると思いお救いくださる、という考え方だからだ。誰でも完璧ではないということと原罪を無理矢理当てはめていると言うことと、本当に悪を犯して尚かつそれを深く悔いている、ということと原罪を一人に背負わせている、という後ろめたさとは明らかに違うだろう。
なにをか言わんや、といつも、ごめんなさい、南無阿弥陀仏で何もかも済ませてしまえると思っている連中にたいして腹を立てているのだ。人間の祖先であるアダムとイブがエデン追放になったその原罪を一人を背負って未来永劫に罰せられているのが神の子キリスト様だ。それが、キリスト様の愛である。そして、キリスト様は神の子であるからしてそれが神の愛の現実化であろう、という理屈な訳だ。
何でも安く低くつまり安易に考える連中がその辺りにうようよいるが、おまえら何を考えているんだ、ばか、と常々思う。おまえらは、本当の意味で何も後悔していない。ただ、仕方ないで済ませて、ごめんなさい、南無阿弥陀仏、で終わりだろう。
そういう馬鹿は何もかも腐らせている。神の愛もキリスト様の愛も仏の深い慈愛もすべて腐らせている。いつもそう思う。本当に反吐が出る